goo blog サービス終了のお知らせ 

sky is blue

言わなければよかったのに日記

ラーメンズ『アリス』

2005-01-18 19:07:33 | その他
友達に誘われて急遽、ラーメンズの第15回公演『アリス』に行ってきました。会場は「本多劇場」という下北沢にある劇場。私は、ラーメンズに関しては名前を知っているだけで、全くと言って良いほど知識がない。お笑い芸人というべきか、小林賢太郎と片桐仁の二人組で、椎名林檎の短編キネマ『百色眼鏡』(DVD)で小林氏の演技を見たことがあるくらいで。しかし、何だか知的な匂いがするような気はしてたようなしてなかったような。

感想は、何やら得体の知れないような、でも実は私達がよく知っているもののような、そんな才能を感じました。前知識が全くなかったので、前からの彼らの活動について知っている人ならばタマラナイ箇所もいくつかあったようですが(お馴染みだけど最近はなかなかやらなかったネタとか)、その辺のところは分からなかったです。でも、なんか引き込まれるというか、見てると悔しくなってきちゃうんですよね。

出演は二人だけで、派手な舞台装置もなく、衣装も黒で、非常にシンプル。笑いとしては、分かりやすいってものではないのかも知れません。だからと言って、分かりづらいってわけでもないのです。もはや、分かるとか分からないという次元ではない気がします。こんなのありなの?みたいな。毛虫とのユニット(?)とかさぁ。成立してるのかしてないのかもよく分かりません。やった者勝ちというか。舞台の上では何をやっても良いんだ、何だってできるんだ、やるべきなんだ、みたいな。そういう強迫観念すら感じました。こう言うと、ハチャメチャで自分勝手で無責任な表現なのかと思うかも知れませんが、それは半分当たってるような当たってないような。ただ、圧倒的であることだけは確かでした。なんか、迷いがない。舞台の上では自由であるべきだということに対しての迷いが感じられない。

だから、悔しくなっちゃう。くそー、もっと知りたーい、分かりたーい、とも思うんですが、分からなくても良いような気もします。分かるとか分からないとかじゃなくて、ああ、今日も彼らは舞台の上で自由になれてるんだなって思えれば、それで良いような気もしたりしなかったり。ズルイなー。

ってか、頭の回転が速いよ。これはこういうこと?と考えている間に、どんどんどんどん進んでっちゃうんだもん。生だから仕方ないんだけど。で、一つ一つが「え?」ってじっくり考えて味わいたくなっちゃうような、多くのことが隠されてるようなそういう魅力を持ってるから、も~っ!みたいな。皆で爆笑!ってのと違って、後からじわじわとふつふつと来そうな笑いかも。で、いつまでも残るというか、居座りそうな笑いかも。そして一人で何回も何回も反芻したくなるような笑いかも。というか、前知識もなくいきなり舞台から見ちゃったから、ちょっと、DVDでじっくり見てみたいかも。頭の回転が追いつけなかったので、落ち着いて見てみたいという。でもね、それは、「追いつけなかった」で終わるんじゃなくて、もう一回ちょっと見てみたいかも…と思わせるものがあった証なわけで。それがなかったら、「もう良いや」で終わるもんね。あと、二人の組み合わせがなんか良い。お互いがお互いを一番笑わせたいんじゃないの?って感じ。

それにしても凄い人気。通路のところにまで座布団席があって全部埋まってたよ。トイレ行きたくなったらなかなか行けないよこれ。もしかして結構貴重なチケットだったのではないだろうか。初日だというし。

公演後のトークで本人も言っていたけど、何がどう『アリス』なんだか。でも、「不思議の国」に迷い込んだ気分を味わえたという意味では『アリス』かも? 他の公演について知らないから何とも言えないんだけど。ま、「不思議の国」にしろ「鏡の国」にしろ作り出したのは人間なんだし、何だってあり?

なんか、ひねくれてるようで実は真っ直ぐっていうか、不敵ながらも、無理に皮肉ってるわけでも自虐的なわけでも毒を吐いてるわけでもなく、健全な笑いって感じがした(でもそこが逆にコワイのかも)。品があるっていうのかな。だから安心感があるんだけど、色々な要素が隠されてそうで油断はできないし、どこからどこまでが作られた部分なのか分からないところもあって、凄く込み入ってる。で、込み入ってるのに真っ直ぐというか。単純であるべき部分と複雑であるべき部分を分かってる人なのかな。って、知識もないし、今回が初めてだし、全然よく分かってないけどさぁ。ま、今度DVD見てみよう。

彼岸と此岸の狭間で

2004-11-21 00:04:54 | その他
とある場所で、爆笑問題が色々な著名人と対談している本をたまたま手にする機会に恵まれた。適当にパラッパラッと見てて(糸井重里とかと対談していた)、何気なく気になって開いたページ、「島田雅彦」との対談。これが出会い。「作家」です。この対談を読みながら私は興奮してしまった。何がどうってわけでもなく、話の内容もちゃんと分かってなかったかも知れないけど、何て言うか、シンパシーを感じてしまったのだ。しかし、この人にシンパシー感じちゃって、私、良いのだろうか?(笑)

トドメがこれ。各対談の後に、その対談を爆笑問題の二人が振り返るのだけど、島田雅彦のことを「凄いことを言う割には、物凄い照れくさそうに話す人でしたね」と言っていたのだ。いや、「物凄い照れくさそうに話す割には、凄いことを言う人でしたね」だったかも。いずれにせよ、この「照れくさそう」ってのが決め手! 照れくさそうな人ほど信用できる!?(私の場合) しかも、照れくさそうな割に、凄いことを言う! これ、私のハートを射止める大鉄則かも!? 逆に(?)、何ともないことを大げさに言うってのも有力です。(射止めたい方、参考までに…爆)。

まんまとハートを射止められた私は、もちろん、彼の作品が読みたいー!という気持ちで一杯になり、古本屋で『彼岸先生』と『僕は模造人間』を見つけ購入。まず、『彼岸先生』を読み終えた。

久々にドキドキしながら本を読んだ。私の解釈が合ってるとは限らないし、よく分かってないところもたくさんあると思うけど、でも、なんか、もう、そういうんじゃないのだ。フィーリングがもう、オーラがもう。たとえ私が分かってなくても、そんなの遥か彼方に飛び越えて、作者の気迫というか“命がけの祈り”が伝わってくるのだ。それは、どんな祈りかというと、「何をしたって生きられる」とか「何者であっても生きてゆける」とか、多分、そういうことだ。

ストーリーがどうと言うより、とにかく、そういう、血がググッと熱くなっちゃうような“命がけの祈り”を感じる文章が頻繁に出てくる。これは、ストーリーを読ませるものではなく、よりよく生きるために捧げられた“命がけの祈り”を届けるための物語なんだ。そのためには喜んで犠牲になる。ストーリーなんて忘れられても一向に構わない。人の記憶からは、ストーリーは何十年後かには消えてしまうかも知れないが、“祈り”は何百年後だってずっと残る。うん。うん。表現って本来そういうものだよね。そうか、私が読みたかったのはこれだったんだ。それは、あくまでも私にとってだけかも知れない。でも、それで良い。私の中でこの小説は死なない。

ここで凄いのは、よりよく生きるために捧げられた祈りが、結局は、「何をしたって生きられる」、「何者であっても生きてゆける」ということに辿り着いている点だ。「自分は何者であるか、何をして生きていこうかにこだわり過ぎるあまり、不自然な生き方を選ぶ羽目になった」、「『よく生きること』に執着しながら実は『うまく生きられない』とボヤいてばかりいた」そんな現代に生きるすべての人、とまでは言わないが、多くの人にこの祈りが届いたら良いなぁ。

例えば、この日記で私が書いてたようなことが、書きたかったであろうことが、書かれているような気さえしてしまった。恐れ多くも。

「一切をあれかこれかで分けられる者は生も死も輝かしいものにすることができるでしょう。しかし、あれかこれかを永遠に思い悩む私は結局、生からも死からも逃げ続けることしかできない。でもそれでいいのだとも思います」とか「私は自分に正直であるために生活の信条も理想も持たないのだ。時にはしたくないことも進んでする。もちろん、したいこともする。だからといって、何でもするわけではない。私は迷い続ける限り、自分に正直でいられるし、不安や苦痛と馴れ合っている限り、幸福でいられる男なのだ」とかは、「You say yes, I say no」の【前編】【後編】を通して私が書きたかったことのような気もしてしまった。同じようなことを考えてる人がいるんだ!と嬉しくなってしまった。恐れ多くも。

でも、読みながら、不安にもなった。この物語は一体どこに私を連れてくんだろう?って。でも、それは、その小説と「魂の交流」ができてる証なんだろう。そして、最後は、なんと! 彼岸も此岸もあの世もこの世も来世も現世も何もかもごちゃ混ぜの世界に私を導いてしまった! 嘘も本当もフィクションもノンフィクションも何もかもがごちゃ混ぜの世界。凄いよ、これ。部屋にいながらにして、300円ぐらいで買った小説一冊で、こんなところまで連れてこられちゃうなんて。「どこまでが現実でどこまでが夢だったんだ?」みたいな「夢と現実の境界のあやふやさ」を訴えかけてくる小説とかは結構あるけど(そしてその面白さも否定しないが)、その先をいってる、それを繋げようとしている。“命がけの祈り”なんだ。そうだよ、そうだよ、だからこそ表現っていうか、表現がそれをしないでどうする?だよ。読んだ後に、「ここからここまでが現実で、ここからここまでが夢だったってことでしょう?」なんて言いながら友人と確認し合うなんて悲しい。その表現が悲しい。そんなことのために表現ってあるのだろうか。だって、表現なんだから、その中に「夢と現実の境界線」を引くこと自体、根本から矛盾しているでしょう? 最後は己自身も食ってしまいますよ? この中には、夢も現実も嘘も真もすべてがある。壮大なフィクションでありノンフィクションである。夢と現実の境界線を引くことも、あれかこれかを分けることもしなくて良い。「何をしたって生きられる」。「何者であっても生きてゆける」。

彼岸と此岸の狭間で生きるすべての人達に、あれかこれかを永遠に思い悩む(私のような…笑)すべての人達に、読んで欲しい。

「僕達はロマンティストであるくせにリアリストなんだよ。どっちかに片寄っていれば、こんなに胸が痛むことはないのに」――及川光博とリリーフランキーはよくこんなことを話していたそうだ。そんな人達に。

こっからは余談ですが、この本、グッとくる言葉が色々出てきたって書きましたが、特にエレカシとのリンクを勝手に感じて喜んでしまいました。ニーチェも出てくるし(エレカシ最新作『風』のブックレットにはニーチェの言葉が載っている)。それをちょこっと挙げてみたいと思います!

――でも、パパ、時間は一つだよ。
――違うな。そう思うのはおまえが誰かの都合で生かされてるってことだ。テレビやラジオを消してごらん。集団の意見を疑ってかかり、個人の呟きに耳を傾けてごらん。そうすればわかるよ。この世には様々な時間が流れてることがね。世界の支配者になろうとする者は時間を征服し、一つに統一しようとする。それはいけないことだ。文化っていうのは統一された時間に亀裂を生じさせることなんだ。おまえも自分の時間を生きろ。

これを読んだエレカシファンはきっと「勝利を目指すもの」を思い出すでしょう。<俺の時間を生きなきゃ なるまい>ってそのまんまだし。もしかしたら違う曲も…「個人の呟きに耳を傾けてごらん」なんて、言葉こそ違えどモロに…。「テレビやラジオを消してごらん」とか「化ケモノ青年」だったり(笑)。他にも“エレ歌詞”を感じるところはあったのだけど、どこにあったかとか細かく覚えてないから探すのが大変なのと、個人的思い入れが多分に入っているため挙げるとキリがないのとでやめておきます。しかし、爆笑問題との対談でも「100年後の人々の幸せを考えてるかどうかがポイント」というようなことが語られてて、それも「勝利を目指すもの」を思い出してしまいました。<その生き様が まだ見ぬ友へ 未来の人の“喜び”となるように 行かなきゃなるまい>とか<未来指向するもの>とか。だから、「勝利を目指すもの」、やってくれないかなぁ、次のライヴで!(それは関係ないか…笑)←そんなことがあったので余計に「勝利を目指すもの」がライヴで聴きたくなったのです。あ、「人間って何だ」の<未来の友へ、架け橋たる存在>ってのもそんな感じかも。まぁ、私の勝手な思い込みなんだけど。それに、その島田雅彦との対談のタイトルが、これまた「破壊と創造」だったんだもん。「JAPAN CIRCUIT -vol.20-」のエレカシのところで私が書いたのとリンク。島田雅彦と宮本浩次(エレカシ)って志が近いのかも~なんて思っちゃうよ、勝手に。スーパーマン(超人)を目指すしかあるまい!

爆笑問題よ、運命の出会いをありがとう。


カケルくん、勇気をあげる!

2004-10-06 18:13:59 | その他
あった―――! 『青いブリンク』!

1989~1990年に、NHKで放送されていた手塚治虫のアニメ『青いブリンク』のDVDを、近所のレンタル屋で発見。即、レンタル。観たかったんだよね。ストーリーとかよく覚えてないんだけど、物語の中の世界全体が、なんか「好き」だった、その感覚だけはなんとなく覚えていて、印象に残っていて。ブリンクという青い子馬がすごく可愛くて素敵で魅力的だったのをよく覚えていて。

「カケルくん、勇気をあげる!」

ここぞ!という場面で、一歩踏み出せないでいる主人公カケルにブリンクがこう叫んで、両耳からビビビ~ッと光線を出してカケルに浴びせるんです。そしたら、カケルがパワーアップ! そうして、困難を次々に乗り越えて行く。パワーとか頭脳じゃなくて、“勇気”ってところが良いよね~。結局、ブリンクは何もしてないってことでしょ。

ブリンクは、透明になって姿を消せたり(目だけがクリクリッと姿を現わしてるのがコワ可愛い)、電気を食べたりします。パワーがなくなると充電が必要で、丸~くなって真ん丸いフワフワフサフサした青い玉(水色のでっかいマリモと思ってくれれば)のような姿になってパワーを補給するんです。そのときは、カケルが両腕で抱っこしてあげる。

あーーー、私も、ブリンクのような友達(と言えば良いのかな)が欲しーーーい!
↑キララ姫みたいだな(笑)

なんかね、発想、設定、キャラクター、何から何まで、夢や希望、そして愛がつまってるんですよね。それはそのまま、手塚治虫の世界を見る眼差しなのかな。手塚治虫はこんな風に世界を見ていたのかな。そこには、過去も現在も未来もある気がして。やっぱ、面白い。

この作品、手塚治虫の遺作になってしまったみたいです。『火の鳥』のイメージの源になったというソビエトのアニメ『せむしの仔馬』の現代版として企画されたものらしいです。『火の鳥』に出てくる“火の鳥”も、なんだか神秘的で、存在自体にドキドキさせられるって感じだけど、この“青いブリンク”も負けてません。火の鳥ほど厳格ではないけど、グッと身近でフレンドリーで、それに可愛くて、火の鳥の子供版? 火の鳥が地上に降りてきたって感じかな? 『火の鳥』ちゃんと読んでないから分からないけど。そう言えば『火の鳥』、最近またテレビでやってましたよね。その流れでこの『青いブリンク』もやってくれたら良いのになぁ。

まだ10話くらいしか観てませんが(全39話)、このあとも楽しみです。
全部観たら、また書きたいなと思います(多分)。