Dogma and prejudice

媚中派も媚米派も同じ穴のムジナ
従属主義的思考から脱却すべし
(言っとくけど、「媚米」と「親米」は違うんだよ)

視点の差と、罵詈雑言

2006-12-29 | 考察
若宮啓文「風考計」 言論の覚悟 ナショナリズムの道具ではない

 「気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせる風潮もある。それにいたたまれず、つい発言を控える人々は少なくない。この国にも言論の「不自由」は漂っている。」と 若宮啓文氏は述べていますが、 「気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言を浴びせていたのは、戦後一貫して左翼の方だったと私は認識しています。

 私(=反左翼)の視点で言えば、「憲法は改正すべきだ」とか、「日韓併合の時代、日本のした事にはいい事もあった」とかいった「当たり前の発言」が、左翼の側から一方的な非難や罵詈雑言を浴びている場面を幾度も見てきました。つい最近まで、左翼の気に入らない言論は封殺されていたと認識しています。

 しかしながら、左翼の視点から言えば、「憲法改正に言及すること」や「日韓併合を部分的に肯定すること」自体がとんでもない発言であり、非難して当然の事であるという事になるのでしょう。

 つまり、同じ発言内容であっても、「反左翼」・「左翼」という視点の違いにより、片や「当たり前の発言」、片や「とんでもない発言」という認識の差が生まれ、この認識の差が、それに対する批判を評価づけるのです。

 例 反左翼:「憲法は改正すべきだ。」
    左翼:「バカな事をぬかすな。」

 (反左翼の視点:自陣営の「憲法改正発言」は「当たり前の発言」、反対陣営からの自陣営に対する批判は、「一方的な非難・罵詈雑言」と捉えがち)

 (左翼の視点:反対陣営の「憲法改正発言」は「とんでもない発言、自陣営からの反対陣営に対する批判は、「尤もな批判」と捉える)

 左翼側にすれば、自分たちは「右翼のとんでも発言」に対して「当たり前の批判」をしてきただけで、「罵詈雑言」などではないという認識なのでしょう。

 攻守を逆にすれば、「日本は従軍慰安婦に謝罪せよ」とか、「日本は南京大虐殺を謝罪せよ」といった左翼の側からすれば「当たり前の発言」が、反左翼の側からすれば、「左翼のとんでも発言」となるのでしょう。

  例  左翼:「日本は従軍慰安婦に謝罪せよ。」
    反左翼:「バカな事をぬかすな。」

 (反左翼の視点:反対陣営の「謝罪要求発言」は「とんでもない発言」、自陣営からの反対陣営に対する批判は、「尤もな批判」と捉える)

 (左翼の視点:自陣営の「謝罪要求発言」は「当たり前の発言」、反対陣営からの自陣営に対する批判は、「一方的な非難・罵詈雑言」と捉えがち)

 お互いに、自分たちの言ってることは、「当たり前の発言」であり、「尤もな批判」であると捉え、相手の言ってることは、「とんでもない発言」であり「罵詈雑言」と捉えがち。

 つまり、「罵詈雑言」は、相手側が一方的に発生させているものと認識されやすいものなのかも知れません。

 そういう意味では、左翼にとって、反対陣営が大幅に増加した現在、「罵詈雑言」ばかりが聞こえてくるのも無理からぬ話ですね。



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