ここによくコメントを下さる、ぜんさんの記事
「吾唯知足」
http://blog.goo.ne.jp/zen-en/e/3bdffd7d12a2b92c2a545ddf284575f8
のkmさんのコメントに「西洋的ロゴスと東洋的レンマ」という言葉が出てきました。
どういう思想なのかなと気になって調べてみたのですが、下記のサイトにわかりやすい説明と例が書かれていました。以下はそこからの引用です。
「ロゴス」と「レンマ」-風土がつくる思想
http://www.athome.co.jp/academy/culture/cul02.htmlより
ロゴスの論理
西洋のユダヤ・キリスト教の論理は「ロゴスの論理」です。この論理は「A」か「非A」か、「善」か「悪」か、というふうに、常に二者択一なんです。これは砂漠で生活するためには必要不可欠なことです。
つまり、水場があるかないか、常に決断を迫られるわけです。選択次第でその後の運命は生か滅か、大きく違ってくる。
ユダヤ・キリスト教においては「万物が『全能なる神』により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない。世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行している」という「直線的世界観」があります。その中で「進歩思想(フォー・ベター・トゥモロー)」というものが生れ、すべてのものが一つの流れの中で、終末に向けて進歩している、と考えられています。
日本は近年、西洋思想から生れた制度や方法等を数多く取り入れている。中でも代表的なのが「民主主義」ですが、これは本来、仏教徒が主流の日本には根付かない、定着しないのではないかと私には考えられます。
要するにユダヤ・キリスト教では、人間は「個」であると考えます。そして、全能なる神をものすごく大きな存在と考え、その神から見たら、個の存在なんていかにも小さい、みんな同じである。だから、それぞれの意見を出し、多数決を採って、物事を決定しようというシステムになっているわけです。「陪審員制度」などもそういう考え方のもとに生れていると思います。
仏教との違いで、個人、インディビジュアリズムが元になっているかどうかでしょうね。つまり、ユダヤ・キリスト教は、神のもとで人間はちっぽけな存在同士、みんな平等、対等である、という考えなんですね。
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レンマの論理
東洋、すなわち仏教の論理は「レンマの論理」と言いまして、例えば「A」というのは「非A」があって初めて存在する、言い換えれば「善」は「悪」があって初めて存在する。ゆえに「善」も「悪」もそれ自身では存在し得ないが、しかし現実には存在している、という論理なんです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、根本にあるのは「すべてのものは互いに相まって存在している」という考え方です。ちなみに、仏教ではこれを「空(くう)」と表現しています。これは、森林には生が満ち満ちており、砂漠と違って、生か滅か、行く手を思い悩む必要がない、区別する必要がない、という背景と密接な関連があります。
仏教の場合、まず、万物が空ですから、絶対者(例えば如来)もまた空でなければならず、天地万物は絶対者と共にあるものである、と考えます。そして、絶対者がなくなるということは考えられないから、従って、天地万物もなくなることはない。さらに、死んだ生物が土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生するという「輪廻転生」の概念も加わって、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立したのです。
(陪審員制度について)
仏教では、菩薩など修行に応じて階層があるように、われわれの中に、より知識の豊富な人の意見や判断を尊重するという考え方が根付いているのかも知れませんね。
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いいか悪いかは別にして、今や、世界的にユダヤ・キリスト教的思想が広まりつつあります。日本でも、文明開化以降、どんどん西洋のものを取り入れています。中身は森林的、仏教的、円環的思考であるのに、ハード、つまり経済のシステムや生活様式等は、砂漠的、ユダヤ・キリスト教的、直線的思考が入ってきているわけです。
しかし、とりあえず接(つ)ぎ木のように西洋のものを今までの文化につなぐとしても、私たち自身が、その元木である東洋の思考の本質を理解していないと、この接ぎ木は立派な大木に育たないような気がします。さもないと、徒(いたずら)に西洋コンプレックスを増大させるだけだと思うんです。
「国際化」などと言っても、まず、自分自身の、あるいは日本、東洋の思考をはっきり知った上で、西洋の考え方も取り入れるべきではないかと思うんですが・・・。
まさにそのことに悩み、日本人は日本的な生き方をすべきであると言ったのは、夏目漱石で、最近、漱石がまた読まれ出してきたというのは、そのへんにあると思います。
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以前、ぜんさんの「吾唯知足」(われただたるをしる)の記事を読んで深く感銘しました。
西洋的ロゴスの考え方、東洋的レンマの考え方、どちらがいい、悪いという発想ではなく、それぞれの発想が生まれた環境が違ったので、その風土に適った考えが発展してきたのですね。
日本人は曖昧で、物事をはっきりと判断したがらない、とよく言われます。欧米に行けばやはり郷に入りては郷に従えで、ロゴスの思想で臨んだほうがいいのでしょう。よく西洋人が日本人を非難する曖昧な笑い、いわゆるオリエンタルスマイルがあります。日本的曖昧さはいけないことなのか、と昔から感じていましたが、全くそれが誤っているわけではないことを教えてくれる思想です。
やはり東洋に生きる日本人としては西洋的二者択一の理論ではなく、お互いが関連し合って存在している、もっと複雑に絡み合っているという思想をしないといけないのかもしれません。
ある意味、二者択一より、曖昧なことを判断する方が遥かに複雑な思考を要するかも知れません。コンピュータは数字を内部で2進数に置き換えて処理して電子回路のON/OFFと対応させていますから、Yes or Noといった判断は得意です。でも曖昧な判断は苦手です。その曖昧な判断をさせるファジー理論というのもありますね。
人間というのは安定を求める生き物です。生きていると常に自分の生き方、考え方が正しいのかどうか不安になります。その不安を解消するために色々と思考模索しますが、その1つの指針となってくれる言葉(考え方)ではないでしょうか。
稚拙ながら、自分の思うところを書いてみました。
参考;ファジー理論
http://www2.tamacc.chuo-u.ac.jp/tise/kyouyou/7watana1993030/
http://www2.nsknet.or.jp/~azuma/f/f0023.htm