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しるぼの独り言。。

三重県四日市市でしがないパソコンインストラクターしてます。コメントはブックマークの足跡帳にどうぞ(*^-^*)

足るを知るものは富む/入るを量りて出ずるを為す

2008年11月07日 | ことば

小室さんのニュースでは、小室さんのお金と女性に対するだらしなさ、贅沢な生活を続けてしまったのが原因と報道されていました。

私が思うのは、

足るを知るものは、富む

自分の欲望をうまくコントロールできる人は、身分相応の生活に満足して、貧乏でも心は豊かである。
つまり、「足るを知る」者と言うことだ。
しかし欲望をうまくコントロールできない人は、多くの財産を手にし ても満足できず、人から大金持ちといわれようとも、心は貧しいままである。
人間の欲望には限りがない・・・しかし、金銭的に豊かでも、 必ずしもそれが本当の幸せを意味する事とは限らない。
「すべてが金・金」という悪しき風潮がまかり通る現代を、昔の人は お見通しだったのか、生活を豊かにする物や技術は進歩しても、人間の 心の進歩はあまりない・・・
http://www5a.biglobe.ne.jp/~tokaij/zzjapko2.html#039

入るを量りて出ずるを為す(制す)(量入制出)

「入るを量りて出ずるを為す」は『礼記』にある言葉である。
家庭でも国家でも、無計画で支出したのでは財政が成り立たない。
収入を量ってその上で支出を考えなければならないということである。

という2つの諺。。

自分も結構、極端な無駄遣いはしないけど、まず先に必要な経費を考慮して収入から配分するということを意識しないことが多々あります。
自分もだらしないところがあるから人のこと言えないし、今日は人の身、明日は我が身、人の振り見て我が振り直せ、で反省して自分を見つめ直さないといけないなって考えさせられました。
いつも驕り高ぶらない謙虚な姿勢が必要だなって思います。

やっぱり人間って身分相応な生活を心掛けないといけないし、お金はなくとも無理をしない生活で満足できる人が一番幸せなのかなと思います。

桜は花に顕(あらわ)る

2008年03月30日 | ことば
花の咲かぬうちはなんの木とも知れなかったのが、花が咲いたので、桜であったことが知れることから、それまでは他の人と変わらずにあった者が、ある機会に、持って生まれた才能を世にあらわすことのたとえ。


好きな諺の1つです。
いつもこの桜の時期になると思い出します。
世の中の隠れた才能が、春に桜が開花するように、頭角を現す。。
持って生まれた才能がなくても、苦労・努力した者がその頑張りが認められて世に出る。。
そんな人たちが桜のようになれるといいのに。。

守拙

2007年11月11日 | ことば
拙を守る(せつをまもる)守拙(しゅせつ)

http://www.eonet.ne.jp/~kokakuro/essay/enden.html

好きな言葉の1つです。私の生き方のテーマかもしれません。
地味な生き方を続けること。うまく立ち回り、出世をしようなどと考えないことである。砕けた言い方をすれば、自分自身で世渡りが下手なことがわかっているなら甘んじてその性分を受け入れ、なまじ利口に振る舞わないこと。

愛し失恋しても、まったく愛さなかったよりもずっとよい

2007年01月13日 | ことば
'Tis better to have loved and lost than never to have loved at all.
《愛し失恋しても、まったく愛さなかったよりもずっとよい》
これは、テニスンが夭折した友人 Arthur Henry Hallam を追悼して書いた詩 In Memoriam の中の一節だそうです。

私が好きな恋愛に関する言葉の1つですが、あれほど傷付いて悲しい想いをして「もう2度と恋はしない」って誓ったのに、また人を好きになってしまうなんて。。人ってやっぱり孤独な存在で、常に自分のそばにいてくれる自分を理解してくれるパートナーを求めてるんですね。。(/_;)  'Tis = It is

過ちては改むるに憚ること勿れ

2006年12月20日 | ことば
It is never too late to mend.(行いを改めるのに遅すぎるということはない)
過(あやま)ちては改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ
という諺があります。

人間、自分が間違っていたと思ったら、人に迷惑をかけていたと気付いたら、謙虚に反省して自分の態度を改めるべきですね。
人から言われないと自分では気付かない場合もありますから、気付いたときに直す姿勢が必要ですよね。
でも、人から間違いを指摘されて、確かに自分も悪い部分があったけど、全くそうだったのかと思うときもあります。
そういうときは、よく考えて、自分の直すべきところは素直に直し、どうしても合点がいかないところ(自分には非がないところ)は「これは仕方なかったんだ」と自分の中で収め、次からはそうならないように物事を進める。

なんでこんなこと書いたのかというと、私、要領が悪くてよく失敗するんですよね。だから常に反省する気持ちが必要だなといつも思うんですσ(^_^;)アセアセ...

過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ
《「論語」学而から》過失を犯したと気がついたら、体裁や体面を気にすることなく、すぐに改めよ、といういましめ。
「過ちて」は「過ちては」「過って」「過ちては則(すなわ)ち」ともいう。
憚る→遠慮する、ためらうこと。。
自分に過失があったと気づいたら、人の思惑など気にせずにすぐ改めなければいけない。『論語』「学而」(がくじ)にある。元来は人の上に立つ者の心構えを説いたもの。
出典・この前に
「忠信を主とし、己れに如(し)かざる者を友とする無かれ
(まじめでうそをつかないことを行動の目標とし、自分に及ばない者を友としてはならない)」とある。

詠雪の才

2006年11月29日 | ことば
女子の文章の優れているのを褒めて、「詠雪(えいせつ)の才」あるいは「柳絮(りゅうじょ)の才」「詠絮(えいりゅう)の才」と言う。
六朝の晋の謝奕(しゃえき)に道ろん(どうろん)という娘がいたが、大変聡明で受け答えする言葉にも才気が溢れていた。晋の名臣として名高い叔父の謝安が来訪していたとき、たまたま雪が降り出した。謝安が、「これは何に似てるかね」と尋ねた。道ろんの兄が「空中に塩を撒いているようですね」と言ったのに対し、道ろんは、「柳絮が風に舞い飛ぶようですわ」と答えたので、謝安は大いに喜んだ。
柳絮:柳の種子に生ずる白い綿毛、熟すると綿のように乱れ飛ぶ

知的なセンス溢れる、好きな言葉の1つです。
随分前にニュースで中国の北京だったかな?開発の波で都市部の柳の木が切られて柳絮が舞い散る姿もなくなりつつあるというのを見た覚えがあります(*^-^*)

倩女離魂(せんにょりこん)

2006年07月18日 | ことば
以前、ぜんさんのブログの記事「吾唯知足」を読んでいて、「吾唯知足」ってどう読むんだろうと調べていたとき、偶然見つけた言葉です。正解は「われただたるをしる」でした。「ごゆいちそく」とか読むのかと思ってました(;^_^A

以下、四字禅語集から引用です。
http://www.cable-net.ne.jp/user/terao-ji/teraB0.htm

中国の民話にこんな話がある。
倩女という大変な美人がいた。
父親は幼なじみの少年に
「美男、美女で一対のおひなさまのようだ。大きくなって結婚すればさぞ似合いの夫婦になるだろう」と言った。
二人は父親の言葉を信じて将来を誓い合った。
娘が年ごろになると、父親は別の青年と結婚をすることを奨める。
倩女はこれを嫌って、幼なじみの青年と駆け落ちをしてしまった。
数年後、二人の間に子供も出来たことだし、父親も許してくれるだろうと家に帰った。
父親はびっくりしてしまった。
倩女はずっと家に寝たきりでいる。
倩女が二人になってしまったのである。
どちらが本当の倩女であろうか。
一人の倩女は、肉体だけが家に残った。
もう一人の倩女は、魂だけが駆け落ちして子供まで作ってしまったのである。

中国の唐代、法演禅師はどちらが本物の倩女であろうかと、私達に問いかけている。
私達はこの問いかけにどのように答えたらいいのであろう。
私の彼女、あるいは娘が二人になってしまったら、私達は驚きオロオロするばかりであろう。
この世の中に倩女が一人しか存在しないという固定観念を私達は持っている。
恋人同士、親子、兄弟、友人関係、すべての人間関係における愛が、不変のものであると考えている。
が、私達の心はたえず揺れ動いているものである。
心は肉体と違って一つのところに縛っておくわけにはいかないのである。
「好きだ」とか「嫌いだ」という揺れ動く自己の心を、私達はありのままに認めなければならないようである。
法演禅師の問いかけにも、ありのままの状態を認めることが、答であるようだ。

上記の文章にも書かれているように、人間、親しい人、愛する人との関係は一生続くかのように思っています。
上記の話を読んで、「そんなばかな」と感じる人もいるでしょう。
でも、世の中が常に変化していくように、人の心も常に変化していきます。
心と体は別もの、体は1箇所に留めておくことはできても、心は今ここにあらずで他のことに思いを馳せているかもしれません。
愛情と憎悪は表裏一体で、昔は仲のよかった2人が憎み合うというのは、よくあることです。
恋人や夫婦で、一方が相手は自分を今も強く愛してくれていると信じていても、一方は表情や態度に出さなくても、相手に愛想を尽かしたり失望して別れを考えているかも知れません。
ちょっと前の森進一・昌子夫妻もそんな感じだったのでしょうか。
そうなったら、関係の修復のために努力するのも1つの手かもしれないし、事実を受け入れて別れを選ぶのも1つの道かも知れない。
ありのままにものを見て、受け入れる。簡単なようで中々できないことです。
個人的に気になる言葉でしたので取り上げてみました(人-)

西洋的ロゴスと東洋的レンマ

2006年06月15日 | ことば
ここによくコメントを下さる、ぜんさんの記事
「吾唯知足」
http://blog.goo.ne.jp/zen-en/e/3bdffd7d12a2b92c2a545ddf284575f8
のkmさんのコメントに「西洋的ロゴスと東洋的レンマ」という言葉が出てきました。
どういう思想なのかなと気になって調べてみたのですが、下記のサイトにわかりやすい説明と例が書かれていました。以下はそこからの引用です。

「ロゴス」と「レンマ」-風土がつくる思想
http://www.athome.co.jp/academy/culture/cul02.htmlより

ロゴスの論理
西洋のユダヤ・キリスト教の論理は「ロゴスの論理」です。この論理は「A」か「非A」か、「善」か「悪」か、というふうに、常に二者択一なんです。これは砂漠で生活するためには必要不可欠なことです。
つまり、水場があるかないか、常に決断を迫られるわけです。選択次第でその後の運命は生か滅か、大きく違ってくる。

ユダヤ・キリスト教においては「万物が『全能なる神』により創造されたものであり、世界は決して永遠ではありえない。世界は天地創造から終末に向かって一直線に進行している」という「直線的世界観」があります。その中で「進歩思想(フォー・ベター・トゥモロー)」というものが生れ、すべてのものが一つの流れの中で、終末に向けて進歩している、と考えられています。

日本は近年、西洋思想から生れた制度や方法等を数多く取り入れている。中でも代表的なのが「民主主義」ですが、これは本来、仏教徒が主流の日本には根付かない、定着しないのではないかと私には考えられます。
要するにユダヤ・キリスト教では、人間は「個」であると考えます。そして、全能なる神をものすごく大きな存在と考え、その神から見たら、個の存在なんていかにも小さい、みんな同じである。だから、それぞれの意見を出し、多数決を採って、物事を決定しようというシステムになっているわけです。「陪審員制度」などもそういう考え方のもとに生れていると思います。

仏教との違いで、個人、インディビジュアリズムが元になっているかどうかでしょうね。つまり、ユダヤ・キリスト教は、神のもとで人間はちっぽけな存在同士、みんな平等、対等である、という考えなんですね。

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レンマの論理

東洋、すなわち仏教の論理は「レンマの論理」と言いまして、例えば「A」というのは「非A」があって初めて存在する、言い換えれば「善」は「悪」があって初めて存在する。ゆえに「善」も「悪」もそれ自身では存在し得ないが、しかし現実には存在している、という論理なんです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、根本にあるのは「すべてのものは互いに相まって存在している」という考え方です。ちなみに、仏教ではこれを「空(くう)」と表現しています。これは、森林には生が満ち満ちており、砂漠と違って、生か滅か、行く手を思い悩む必要がない、区別する必要がない、という背景と密接な関連があります。

仏教の場合、まず、万物が空ですから、絶対者(例えば如来)もまた空でなければならず、天地万物は絶対者と共にあるものである、と考えます。そして、絶対者がなくなるということは考えられないから、従って、天地万物もなくなることはない。さらに、死んだ生物が土に帰り、そこからまた新しい生命が誕生するという「輪廻転生」の概念も加わって、万物は永遠に流転するという「円環的世界観」が成立したのです。

(陪審員制度について)
仏教では、菩薩など修行に応じて階層があるように、われわれの中に、より知識の豊富な人の意見や判断を尊重するという考え方が根付いているのかも知れませんね。

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いいか悪いかは別にして、今や、世界的にユダヤ・キリスト教的思想が広まりつつあります。日本でも、文明開化以降、どんどん西洋のものを取り入れています。中身は森林的、仏教的、円環的思考であるのに、ハード、つまり経済のシステムや生活様式等は、砂漠的、ユダヤ・キリスト教的、直線的思考が入ってきているわけです。
しかし、とりあえず接(つ)ぎ木のように西洋のものを今までの文化につなぐとしても、私たち自身が、その元木である東洋の思考の本質を理解していないと、この接ぎ木は立派な大木に育たないような気がします。さもないと、徒(いたずら)に西洋コンプレックスを増大させるだけだと思うんです。
「国際化」などと言っても、まず、自分自身の、あるいは日本、東洋の思考をはっきり知った上で、西洋の考え方も取り入れるべきではないかと思うんですが・・・。
まさにそのことに悩み、日本人は日本的な生き方をすべきであると言ったのは、夏目漱石で、最近、漱石がまた読まれ出してきたというのは、そのへんにあると思います。

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以前、ぜんさんの「吾唯知足」(われただたるをしる)の記事を読んで深く感銘しました。
西洋的ロゴスの考え方、東洋的レンマの考え方、どちらがいい、悪いという発想ではなく、それぞれの発想が生まれた環境が違ったので、その風土に適った考えが発展してきたのですね。
日本人は曖昧で、物事をはっきりと判断したがらない、とよく言われます。欧米に行けばやはり郷に入りては郷に従えで、ロゴスの思想で臨んだほうがいいのでしょう。よく西洋人が日本人を非難する曖昧な笑い、いわゆるオリエンタルスマイルがあります。日本的曖昧さはいけないことなのか、と昔から感じていましたが、全くそれが誤っているわけではないことを教えてくれる思想です。
やはり東洋に生きる日本人としては西洋的二者択一の理論ではなく、お互いが関連し合って存在している、もっと複雑に絡み合っているという思想をしないといけないのかもしれません。

ある意味、二者択一より、曖昧なことを判断する方が遥かに複雑な思考を要するかも知れません。コンピュータは数字を内部で2進数に置き換えて処理して電子回路のON/OFFと対応させていますから、Yes or Noといった判断は得意です。でも曖昧な判断は苦手です。その曖昧な判断をさせるファジー理論というのもありますね。

人間というのは安定を求める生き物です。生きていると常に自分の生き方、考え方が正しいのかどうか不安になります。その不安を解消するために色々と思考模索しますが、その1つの指針となってくれる言葉(考え方)ではないでしょうか。

稚拙ながら、自分の思うところを書いてみました。

参考;ファジー理論
http://www2.tamacc.chuo-u.ac.jp/tise/kyouyou/7watana1993030/
http://www2.nsknet.or.jp/~azuma/f/f0023.htm