「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第181回 ゴンチワ、さようなら 藤井 貞和

2016年02月25日 | 詩客
         水の底から
      ゆれる
             風の花首
  拡がる波紋 (気配)
                音もなく、トレモロ、歌いだす、親しく、離れる、
      ラ、ララ

(部分、平田詩織「歌う人」『歌う人』)


 なんでこんな書き方をするのかな、と考えていたらば、栞に吉田文憲さんが、「歌う人」のクライマックスはここだ、と引いているところがあり、そこへ上り詰めるための仕掛けだと了解できた。
吉田さんが引いているのは、

  はじまりの音をここでわたしはひとり見届けていたけんめいにきいていたのだ身体の閾も言葉の閾もこえていま(つきぬける
  楽音になる)あなたの全身はたえまなくひかりの粒子を生みだし(下略)


という辺りで、身体の閾も言葉の閾も、境界の向こうへ行ってしまう。

  通勤ハズのなかで
            めさめだら ごとはのショー ケか 入りましっで
       別れきわに
       ゴンチワ と言っだり 会話中に
       しゃあ まだ ど言っでじまう

(部分、すぎもとみちお「アケバチョウ」『ビーチダンス』)


 散らし書きの効果がよくわからない。でも、清濁の境界を越える病気にとりつかれることは、書き手なら一度か二度か、何度か、だれにもあることで、散らし書きは正気の沙汰の証明という次第。
「境界の向こう」とはどういうことか、ちょっととまどう。

  その向こうに何かが見えるまで
  足下のシロツメクサの緑が風にそよぎ
  わたしはそれを詩だと思う
   それは或いは数学かもしれないのだが

(部分、宮岡絵美「境界の向こう」『境界の向こう』)


 あとがきに「文理を越える」とある。文系、理系を越えるという、近ごろのホットニュースに通じる。「向こう」は本来ならば〈向き合う、向かい〉。やすやすと跨ぎ越えるのかな。宮岡さんには「そんざいについて」というひらがな詩があり、なかに「るいじしてそんざいするとどうじに」……とある。「るいじ」に宛てる漢字が一瞬、わからなくなって慌てる(認知症か)。ああ、類似か。境界のこちらがわもあちらがわも、「るいじ」して「そんざい」するという程度であり、漢字とひらがなとのあいだのすきま、というぐらいの。
 ひらがなの詩ではないが、

  私たちが今度ひとをころしに、外にでたとき、たくさんの沈丁花がさいて、月のふりをしている。
(部分、最果タヒ「大丈夫、好き。」『死んでしまう系のぼくらに』)


は沈丁花が月と、「ふり」一語で類似できる。それにしても、初出一覧がすごい。

       望遠鏡の詩 ネット
       夢やうつつ 「花椿」二〇一三年一〇月号
     きみはかわいい ネット
       図書館の詩 ネット
    ライブハウスの詩 ネット
       ぼくの装置 書き下ろし
                 (以下、略)


ネット、ネット、ネット、書き下ろし、ネット、ネット、ネット、加筆修正……、と、これじたいが作品になって並んでいるみたい。よこがきとたてがきとをどう使い分けているのか、ここでも空気のようにうすい境界をネットがやすやすと越える(ということかな)。
 
  さようなら

  の、ごもじがとけてにえくりかえる、ひらがなじごくのそこにて

(部分、そらしといろ「ひらがなじごくにおちるとき」『フラット』)


 ほんとうはひらがなが(漢字も)地獄の沙汰であると、この書き手はたぶん言いたい。うん、ご同病(ご同慶)だよ。

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