大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

浄瑠璃坂にみる大石内蔵助の真意 ~忠臣蔵の真実 2 ~

2013年05月31日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 とにかく浅野家の質祖倹約が、災いした。前回の勅使饗応役の折りの総費用は700両。だが、時代は変わったのである。上野介は、倍の1400両を申し出たのだが、浅野側はそれを拒否。
 幕府の対面を重んじる上野介との間に溝ができた事は否めない。
 元禄14(1701)年3月14日。「この前の遺恨を忘れたか」。内匠頭はそう言い放つと、脇差しを抜き、上野介に斬り掛かるが、この遺恨に関しては内匠頭のみが知る事となる。
 そして内匠頭の即日切腹。しかも大名であるにも関わらず、預け先の陸奥岩沼藩の第2代藩主・田村右京大夫建顕の芝の屋敷の庭先で切腹をさせられるのだ。この切腹に関し、田村家側では屋敷内に場を設える向きを申し出ているが、幕府から却下されている。
 庭先と座敷。大名に庭先での切腹など有り得ない事であった。これは当時の作法において、大きな違いがあるのだ。
 浅田次郎氏の「壬生義士伝」をご存じだろうか。吉村貫一郎に武士の情けとして、切腹の場として座敷を与えている(吉村貫一郎に関しては後に)。
 かくして内匠頭の罪状を知った浅野家家臣たちは、「喧嘩両成敗」を言い放つのだが、内匠頭は上野介との喧嘩故に腹を斬らされたのではなく、城内においての刃傷は切腹といった定めにより腹を斬ったにすぎない。
 なぜなら、歴史を紐解くと、内匠頭以前にも江戸城での刃傷事件は3件起きており、1名は切腹、1名は自刃。残りの1名はその場でなます斬りにされている。そして3家共に改易の沙汰が下っている。
 この史実を、武士なら誰もが知らない筈はない。むろん浅野家もだ。

寛永4(1627)年 
加害者 猶村孫九郎(小姓組)
被害者 木造氏、鈴木氏
場所 西ノ丸
結果 鈴木死亡
裁定 猶村孫九郎は切腹、改易。木造家改易

寛永(1628)5年
加害者 豊嶋刑部少輔明重
被害者 井上主計頭正就(老中)
場所 西ノ丸 
結果 井上・制止しようとした青木忠精死亡、豊嶋自害
裁定 豊嶋家改易

貞享元年(1684)年
加害者 稲葉石見守正休(若年寄)←春日局の玄孫
被害者 堀田筑前守正俊(大老)
場所
結果 堀田死亡、稲葉はその場で殺害された
裁定 稲葉家改易、堀田家移封  〈続く〉





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