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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

のしゃばりお紺の読売余話46

2015年01月11日 | のしゃばりお紺の読売余話
 娘は、白けた顔。いや、何度もおえんについて聞かれたのだろう。またかといった顔付きにも見えた。そして、お紺の問いには答えずに、聞き返す。
 「幼馴染みって、初耳だねえ」。
 お紺を疑っている様子は、急にぞんざいになった言葉遣いから伺え知れた。
 「ああ、おえんちゃんは、余り自分のことは話さないからねえ」。
 話していたら辻褄が合わなくなる。第一、おえんが子どもの頃、何処に住まわっていたかも知らないのだ。だが、おえんが無駄話をしないといったところは的を得ていたようだ。茶汲み娘にしては口が重かったらしい。
 「しかし、おえんちゃんが水茶屋で働いているって聞いた時は、驚いたよ。だって、おえんちゃんはお愛想ひとつ言えないだろう」。
 すると、娘は乗ってきた。
 「そうなんだよ。気の利いたことも言えないどころか、あれじゃあまるで愛想無しなんだよ。だけど、あの器量さ。おえんさん目当ての客は多かったねえ」。
 娘の言葉遣いが急に親しみを増した。
 「その中に、ええっと誰だったか、確か火消しも居ただろう」。
 「あれ、知ってなさるのかえ」。
 多きな目がくるりと動いた。
 「おえんちゃんから、所帯を持つって聞かされていたんだけどねえ」。
 お紺はさも残念そうにふうっと肩で息を付いた。
 「あたいもおえんさんは、太助さんを真底好いていると思っていたのさ。だけどねえ」。
 (そうだ、太助だった)。
 「まあ、あちらさんにも事情が有ったのだろうさ。ご縁がなかったてこった」。
 お紺はしたり顔で言う。
 「けどおかしいんだよ。太助さんを好いているものだとばかり思っていたんだけどねえ」。
 「どういうことだい」。
 「おや、知らないのかい」。
 びっくりしたように目を見開いた娘は、一段と可愛らしい。
 「太助さんを諦め切れずに、頭の娘さんと取り合ったのは知っているよ」。
 娘は大げさに頭を横に振る。そして右の手で、宙を掴む様な素振りを見せ、心かしか声色も高くなったようだ。
 「そうじゃなくてさ、あんた、本当に知らないのかい」。
 「えっ、何かあったのかい」。
 お紺は空とぼけてみせる。すると待っていましたとばかりに娘の舌は滑らかに滑り始めた。



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のしゃばりお紺の読売余話44

2015年01月09日 | のしゃばりお紺の読売余話
 女を描かせたら滅法巧い朝太郎の筆が振るわないとなれば、残念ではあるが、腕は落ちてもほかの絵師に頼むしかない。それが読売なのだ。
 そんなお紺の胸中を察したかのように、朝太郎はこう付け加えた。
 「今度の相対死を読売にするなら、あたしは、今後二度と描かないよ」。
 何処へでもほいほいと出掛け、どんな難しい場面も事無気に描く朝太郎が、ここまで頑なことは初めてである。
 「朝さん。どうしちまったんだい。お前さんらしくもない」。
 「あたしらしいって何さ。あたしは、あたしだよ」。
 「だって、断るなんて初めてじゃないか。訳を聞かせておくれな」。
 「訳かい。訳は、女の悲しい顔は描きたくねえのさ」。
 (悲しい顔)。
 お紺の胸の奥が抉られる様に痛む。おえんを哀れんではいたが、悲しい女だと思ってはいなかった。言われてみれば、その通りかも知れない。
 好いた相手を親方の娘に奪われ、妻の居る男と死を選ぶもおのがひとり生き残ってしまったのだ。
 「もしもさ、双方共に死んだのなら、幾らでも描くってもんだがよ、残りの年月を、生き恥を晒していく者んを、これ以上辱めることもあるめえ」。
 朝太郎の言い分は最もである。お紺とてそう思ってはいる。だが、読売が稼業なのだ。父の庄吉であれば、迷わず朝太郎を切り書き立てるだろう。この騒ぎは庄吉の耳に入っているのだろうか。入っていなければ、曝しの期間さえ過ぎれば似面絵は描けなくなる。むしろ、そうなって欲しいという願いも芽生え始めていた。
 だが、そうは問屋が卸さなかった。庄吉は何時になく張り切っていたのである。
 「何だって朝太郎のやつぁ、描かねえってか。だったらほかの絵師に頼みゃあ良いだけさ。お前ぇも、朝の御機嫌ばかり考えてねえで、三國屋の回りや、その茶汲み娘の回りを聞いてきやがれ」。
 庄吉に一喝されたお紺。庄吉の読売魂は認めるが、こういう情に流されないところは好きではない。最も、情に流されるなとも常日頃から言われてはいるのだが。
 「けどおとっつあん。三國屋さんに睨まれたらどうする」。
 「三國屋ごときが怖くて、読売をやってられるか」。
 四角い顔の真ん中に胡座をかいた鼻を膨らませている。
 「良いか、三國屋の婿養子がどうして死んだかが重要なんだ」。





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のしゃばりお紺の読売余話43

2015年01月07日 | のしゃばりお紺の読売余話
 お紺は日本橋へと足を伸ばした。金棒引きたちの輪をかき分け、前に出ると、その潮たれた哀れな女の姿を目の当たりにし、息を飲んだ。
 先達て、町火消しを取り合っていたおえんだったからである。その惚けた様子からは、あの時の威勢の良さが微塵も感じられない。
 (どうして、また)。
 お紺は胸が締め付けられる思いだった。父親之庄吉に言わせれば、お紺のこういった感情が、「甘い」らしい。どんな場面に出会しても、眉ひとつ動かさないのが読売の書き手だと言うのだ。
 お紺は口に出したことはないが、人としての感情を金具裏捨てなければ読売は書けないのかと、庄吉に問いたい。大方、「当たり前だ」。と言われるのが落ちだろうが。
 おえんの細い肩が、お紺の胸を締め付ける。

 「お断り。そんな似面絵なんかまっぴらご免だね」。
 朝太郎は、おえんの似面絵を拒否する。
 「そんなこと言わずにお願いだよ」。
 「幾らお紺ちゃんの頼みでも、読売の為でも、嫌なものは嫌なのさ」。
 「どうしてそんなに嫌なんだい」。
 朝太郎は片眉をつっと上げると、口をへの字に曲げる。
 「あたしは、奇麗えなものしか描きたくないのさ」。
 「だけどこれまでは、火事場だって巾着切りだって、そうそう板場泥棒だって描いたじゃないか。それが今度に限ってはどうしてそんなに嫌なのさ」。
 「そりゃあ、火事で逃げ惑う人を描いた事もあるさ。でもそれは何処の誰とも分からない様にして、あたしの頭の中で思い巡らせた絵に、こんな事は繰り返しちゃならねえって戒めを込めているのよ。だけど今度ばかりは、いけねえ。どん底の人ひとりを可笑にしちゃなんねんのさ」。
 何時になく朝太郎のきつい目付きが、本気を物語っている。
 「これからは死ぬよりも辛い思いをするんだ。これ以上辱める事もないだろう」。
 「分かっているさ。あたしだって胸が潰れそうだったよ。だけど、嘘偽りのない真を伝えるのがあたしらの読売じゃないのかい」。
 お紺は、おのれがとんでもない悪人もしくは意地悪な人間に思えてならないが、それでも事実を伝えるのが、庄吉の言うところの読売なのだと自身にも言い聞かせていた。非情にならなければ出来ない商売なのだ。





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のしゃばりお紺の読売余話42

2015年01月05日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「とんでもない、初耳だったそうさ。見た事も聞いた事もないって」。
 「なら、梅華姐さんの知らないところで…」。
 と言い掛けたお紺だったが、言い終わらないうちに言葉を被せられた。
 「兄さんってえのは、そりゃあ真面目で、とても情婦を持つ様なお人じゃないってさ。姐さんも訳が分からないって」。
 茶汲み娘がどうなったのか、喉迄出掛かっていたが、自身番の遣いで来た事になっている以上、それを聞く訳にはいかない。どうやったら話を持っていけるか、お紺は思案していた。
 「水茶屋の娘さんなら、さぞや奇麗えなお人だったんじゃありませんか」。
 「さてね、気になるなら日本橋まで行ったらどうだい。今頃はさらされているさ」。
 心中で生き残った者は、さらされた後に、へと身分を落とされるのだ。厳しい沙汰である。それだけ、心中が多かったとも言えるのだが、これはもう生き地獄である。
 ただし、頭にまとまった金子を支払えば、身分を奪回出来るのだが、そもそも心中を試みる程に行き詰まった者にそのようなまとまった金があろう筈もない。
 小女は、話に夢中になり、お紺が茶汲み娘の顔を知らない事に気付いていないようであった。気付かれる前に退散した方が良さそうである。お紺は、直ぐさま日本橋迄飛んで行きたくなったが、梅華とも会ってみたい。
 「梅華姐さんも行かれているので」。
 「いいや、姐さんは、名主さんのとこさ。全く人が良いったらありゃしないよ。その茶汲み娘を見過ごせないって」。
 「なら…」。
 「ああっ。頭に大枚叩く相談に行っているよ」。
 梅華が、茶汲み娘の身分を奪回しようとしているのだと言う。子女は、梅華も人が良いにも程がある。見ず知らずの女の為にぽんと纏まった金を出すのだからと憤慨したかのように、声を強張らせるのだった。
 「見ず知らずなのですか」。
 「ああ、そうさ。だけど兄さんが生き死にを共にする程の女を見捨てちゃおけないって」。
 (やったあっ)。
 お紺は小躍りしたい気分だった。芸妓であれば見栄えも良い筈。梅華の似面絵を大きく乗せて、梅華のきっぷの良さを読売に書き立てれば飛ぶように売れる筈である。これは早々に絵師の朝太郎を押さえなければ。





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のしゃばりお紺の読売余話41

2015年01月03日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「そうかえ、けど可笑しいねえ。梅華姐さんから、紙入れを無くしたなんて聞いちゃいないんだけどねえ」。
 小女は訝し気に頭を傾げる。
 「無くしたことに気付いちゃいないんじゃないですかねえ。何せあの騒ぎでしたから」。
 騒ぎがあったか否かも分からないが。
 すると、小女が乗ってきた。
 「あんた、あすこに居なすったのかえ。だったら、どうなったのさ。教えておくれな」。
 先程までの邪見な物言いが瞬時に猫撫で声に変わった。
 「そりゃあ、三國屋さん程の若旦那が相対死なんて」。
 「だろう。何の不満があって、茶汲み娘となんかねえ」。
 (茶汲み娘…。相方は茶汲み娘だったのか)。
 お紺は得体の知れない嫌悪に全身が寒気立つ思いだ。
 「あたしらには分からない、苦労があったんでしょうかねぇ」。
 「幾ら苦労があったって、手代から若旦那になれたんだ。辛抱のしがいだってあろうってもんさ」。
 にしても、その若旦那と茶汲み娘と、梅華の間柄がつかめない。どうして、梅華が事情を知っているなどと、差配は言ったのだろうか。お紺にはさっぱり分からないが、どうにか調子だけは合わせていた。
 「けど、どうして梅華姐さんは紙入れなんか忘れたんだろうねぇ」。
 「詳しい事は聞いちゃいませんが、心付けをお出しになったんじゃないでしょうかねぇ」。
 口から出任せである。だが、これが功を奏した。
 「そうさねえ、兄さんだものねぇ」。
 (兄さん、三國屋の若旦那が梅華の兄だったのか)。
 「姐さんは、兄さんを引き取りに行ったのさ。それを何も御政道通りだって、無縁仏ぬする事もあるまいに」。
 梅華が紙入れを出して、袖の下を渡したのは強ち出任せではないのかも知れないと、お紺は頷いた。
 「梅華姐さんは、相方もご存じだったのですか」。
 乗って来た小女は身を乗り出すように、大きく手を左右に振る。



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のしゃばりお紺の読売余話40

2015年01月01日 | のしゃばりお紺の読売余話
 梅華は柳橋の子ども屋・中井の芸者である。ここまでが差配が教えてくれたことであった。良く掃き清められた玄関口を訪うのは敷居が高く、お紺は勝手口へと回る。
 「ご免なさいまし」。
 しんと静まり返った室内からは、火鉢の鉄瓶がしゅんしゅんと音を立てているだけであった。
 「ご免くなさいまし。どなたか居られませんか」。
 何度目かの訪いの後に、小女らしき若い娘が、赤い前垂れで手を拭きながら漸くやってきた。
 「ご免なさいよ。井戸で洗濯をしていたものだから」。
 お紺の声が聞こえなかったのだと言う。ということは、ほかには誰も居ないのだろうか。未だ座敷の掛かる時間ではない。
 「梅華姐さんは居られますでしょうか」。
 「梅華姐さん」。
 小女の眉根が寄り、瞳には明らかに訝しがる光が讃えられる。どうせ、相対死に関わることだろうと見据えているのが明らかである。
 「あんた誰だい。梅華姐さんに何の用だい」。
 この小女は、存外に固い。大抵の小女は口さがなく、こういった場合、小女から事情を得られる場合が多いのだが、この娘に関しては期待出来そうにも無い。
 「いえね、浅草御蔵の差配さんから紙入れを頼まれましてね。梅華姐さんの物じゃないかって」。
 咄嗟の出任せである。
 「そう。それじゃあちょいと見せておくれな。姐さんの物かそうでないか、あたしにも分かるからさ」。
 「いえ、梅華姐さん本人に確かめるようにって、きつく言われていますので」。
 「何だってえ、あたしを信じられないってえのかえ」。
 そうなるわな。もっと気の効いた訳を道々思案すべきであったと後悔していた。
 「おかしな話じゃないか。本人にしか渡しちゃならないくらいに大事な物を、どうしてあんたが持っているんだい」。
 そう言われると二の句が出ない。確かに紙入れなら信頼のおける差配か書役。もしくは岡っ引きが直に手渡す筈である。お紺が岡っ引きの手下になど見えよう筈も無い。
 「差配さんが足を運べないので、あたしが変わりに来たんだけど、あたしが不満ですか」。
 こういった場合は、若干威圧的に出るに限るのだ。何せこちらには差配が付いているのだ。本当は、付いていないけれど。付いていることにして押し切るしか無い。




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のしゃばりお紺の読売余話39

2014年12月30日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「差配さん、教えてくださいな」。
 「教えるも何も、御政道通りさ」。
 すると三ノ輪の浄閑寺に投げ込まれてお仕舞いということか。お紺は、上がり框に腰を降ろすと、碁板から目を反らさない差配に近付いた。
 「それで三國屋さんじゃあ、知らんぷりを決め込んだままですか」。
 「ああ、離縁して養子縁組も解消したってえんだから、三國屋とは既に縁もゆかりもないってね」。
 「なら、三國屋さんはお構い無しですか」。
 「んだな」。
 お店者の不始末は、店にも咎が及ぶ。それを恐れての処置なのだろうか。
 「んにゃ、縁切りされたのを苦に飛び込んだんだろってなこったな」。
 「それじゃあ、三國屋さんも後味が悪いでしょうねえ」。
 「だとしてもお調べも終わったこったし、読売にするようなねたも無いわさ」。
 そうなのだ。江戸にはお六が実に多い。川岸に流れ着いた土左衛門は、関わりを恐れて押し返すので、そのまま海に流れ、遺骸さえ上がらない場合もある。それに比べれば無縁仏となっても浄閑寺で弔われるだけまだ増しというものだ。
 だが、仏が余りにも哀れではないか。お紺は、読売を抜きにしても、その仏の生きた証しを知りたくなった。
 「その仏さんには、お身内はいなかったんですか」。
 すると、碁盤から離そうとしなかった差配の視線が、ふいに宙を泳いだ。そして、これ以上悲しい光はないくらいに、その瞳が憂いを帯びたのである。
 「居たさ」。
 「差配さん、何かご存じじゃあありませんか」。
 差配は弱々しく頭を振る。そして、何か言いた気に口元が動くが、それも寸の間。直ぐに口元は真一文字に閉じられた。
 「差配さん、教えてくださいな」。
 お紺は猫なで声を出す。
 「お紺ちゃん。あの男の生き様は、読売で可笑に書き立てるようなもんじゃないわさ。それでも知りたけりゃあ、柳橋の梅華ってな左褄に聞いてみな」。
 「柳橋の芸者さんですか」。
 「ああっ、会えたらの話だけどな」。
 差配の意味深な言葉が頭を駆け巡る。事情を知っているのが芸者なら、やはり相対死の相方は粋筋の姐さんなのだろうか。とにもかくにもお紺は、梅華という芸者を訪ねることにした。




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のしゃばりお紺の読売余話38

2014年12月28日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「当たり前じゃないか。好いた亭主死骸を放ってなんかおけるもんかい」。
 「そりゃあよ、お紺。お前えが真から惚れたことがねえからよ」。
 「何だってえっ」。
 思わず拳を振り上げるお紺。重蔵は夜具を頭に引っ被って「おお怖っ」などと戯けている。それがまたお紺の癇に障るのだ。
 「良いかい、亭主がほかの女と死んだんだぜ。女房にとっちゃ、面子丸つぶれさ。それこそ、憎さ百倍ってなもんさ」。
 「そんなもんかねえ」。
 お紺は、ふうっと大きな行きを洩らす。夫婦とはそんなものなのだろうか。死んでしまったら仏様ではないか。縁有って一度は添った仲でもある。生前の蟠りなどよりも丁重に弔いたいと思うのが人情なのではないだろうか。
 「だからお前えは、いつもとっつあんに甘えって言われるのよ。ここは三國屋の内状を探るのが先だろうが」。
 (そうだった)。
 お紺は胸をぽんと叩くと、重蔵が胡座をかいた敷き布団を蹴飛ばして、外に出た。
 (どうしてこうも、誰も彼もがとびこんじまうんだろうねえ)。
 八丁堀同心の娘・静江も川に身を投げた。幸い大事には至らなかったが、心に受けた傷が癒えるには時が必要だろう。
 だが、この度は、手代から店の若旦那に出世をした男が命を失っている。お店(たな)者のほとんどは、番頭になり暖簾分けをして貰うのが夢である。そして、それが夢のまま終えること方が多いのだ。
 幸いなことに所帯を持てたとしても、通いの番頭に出世した四十代になってがほとんどである。
 そんな中、手代から婿養子に収まった三國屋の若旦那ほどの幸運は、そうある話ではない。
 お紺は浅草御蔵の自身番へと急いだ。住まいのある横網町からは大川を渡り両国広小路へ出れば訳が無い。両国広小路の喧騒が、お紺の気を急かせた。
 「ご免なさいよ」。
 自身番には、顔見知りの月当番の差配と書き役が詰めている。所在な気に碁を打っているので、お六の件はもう解決したのだろう。
 「おや、お紺ちゃんじゃないか。流石に早いね」。
 ということは、お六が運び込まれたのは、ここに間違いない。




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のしゃばりお紺の読売余話37

2014年12月26日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「相対死なら、相方はどこの女なのさ」。
 「さあてね。何せ、三國屋の若旦那ってえんで、話は持ち切りさ。女の方までは気が回らねえわな」。
 「いつもだけど、役に立たない男だねえ」。
 「おきゃあがれ。こちとら八百屋でい。読売にねたを売って暮らしちゃいねえやい」。
 三國屋にはもうひとつ金棒引きを掻き立てる話があった。実の息子が居ながら、その子には出店を与えて独立させ、姉娘のお美代に婿を取って稼業を継がせていたのである。
 大方の見方は、お美代可愛さと、婿養子に迎えた手代を偉く買っていたからだろうとの評判だった。
 「三國屋の若旦那っていったら、手代から婿に入ったお人だろう」。
 その祝言の様子は、お紺も読売にしていたので良く覚えている。何でも、子どもの時分から手代の佐助に惚れ込んでいたお美代が、親を説き伏せて婿にしたと聞いていた。
 お美代を猫っ可愛がりしていた三國屋藤衛門は、はなからお美代を手放す気はなく、どこぞの大店の二男、三男を婿に迎えて商いを広げたいと考えていたが、お美代に押し切られるかたちとなったのだ。
 弟の藤太郎も出来た人物で、己が継ぐ筈だった店を手代上がりが継いでも、文句ひとつ言わずに、義兄弟仲も良いと聞いていた。
 「手代からお店の跡継ぎにまでなって、何も死ぬこたあねえわな」。
 重蔵は、顎をさすりながらしんみりと言う。
 「ちょいと待っておくれな。さっき投げ込み寺って言っていたけど、三國屋くらいのお店なら、ちょいと鼻薬を効かせれば、相対死じゃなくて、足を滑らせて川に落ちたくらいに出来たんじゃないかえ」。
 賄賂を掴ませるということだ。その方が店の暖簾に傷が付かない筈だ。どう考えてもその方が利口である。
 「そんなこたあ、知らねえが、八丁堀の旦那もそこんとこをお考えなすって、手下を三國屋に走らせたが、三國屋からは、縁切りをして出て行ったんだとよ」。
 「縁切りっだって」。
 「ああ、だから三國屋のかって知ったるところじゃねえってよ。冷てえもんだな」。
 重蔵はしみじみと語る。
 「三國屋の旦那さんがそう言ったって、娘の方はどうなんだい。惚れて一緒になった亭主じゃないか」。
 「お紺よお。お前ぇ本気でそう思っているのけ」。
 重蔵は眉根を寄せて、しげしげとお紺を見る。




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のしゃばりお紺の読売余話36

2014年12月24日 | のしゃばりお紺の読売余話
 情が深いが早とちり、面倒見は良いが出しゃばり過ぎる。お紺を例えるならこのようなところだろう。お人好しではあるのだが、ちいとばかり面倒臭いのが玉に傷なのだ。何事にも顔を突っ込まずにはいられないので、付いた渾名がのしゃばりお紺。

 「お六を見ちまったよ」。
 隣の八百屋の重蔵が、如何にも嫌なものを見たとばかりに、血の気の引いた顔で戻るや否や、夜具を引っ被って寝込んでしまった。
 「ちょいと、お六ってどういうことさ」。
 お六とは土左衛門のことである。長屋の前で米を研いでいたお紺は、釜を投げ捨て重蔵にくっ付いて上がり込み、その夜具を引き離そうと大いに揺らす。
 「だから土左衛門だ」。
 「何処でだい」。
 聞けば、浅草広小路から少し北に行った御蔵の近くのらしい。それならばとお紺は袖を捲し上げた。
 「今から出張ったところで遅せえや。もう運ばれちまっただろうよ」。
 鼻の穴を膨らますお紺を、夜具の隙き間から垣間みる重蔵。
 (全く、どんな土左衛門か聞かなくて良いのかよ)。
 重蔵は、先走るお紺に突っ込みを入れたくなる。
 「ちょいと、自身番まで行ってみるよ」。
 「まあ待ちねえ。行ったところで、もう投げ込み寺さ」。
 言われてみればそうである。
 「だったらどんな土左衛門さ」。
 (そうこなくっちゃ)。
 重蔵は夜具を撥ね除け、布団の上で胡座をかいた。
 「何と、相対死よ」。
 「相対死…」。
 心中である。それも、お店(たな)の若旦那だと重蔵は告げる。
 「そのお店ってえのが、日本橋の小間物問屋の三國屋だってえから驚きさ」。
 三國屋は中店ながら、近年、独自の美人水を売り出し、これが滅法良いと評判を取り、商いを大きくしていた。お紺も、三國屋の美人水の評判は耳にしていたが、何処に行っても売り切れていて未だ使った試しがない。




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のしゃばりお紺の読売余話35

2014年12月22日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「それも定めだと思われますか」。
 静江の声が湿っている。
 「へい。定めだと思いやす。あっしに兄さんが居たとして、兄さんが養子に出されたとしても、それが不幸だとは限らねじゃねえですか。家を継ぐよりも肌に合うかも知れやせん。それに兄さんの思い人を嫁に迎えるのは、ちいとばかり気が咎めやすが、それは最初だけの事。兄さんがその人を思っていたよりも、長い時を過ごしているうちに、ゆっくりとあっしの方を向いてくれりゃあ良いと思いやす」。
 「ゆっくりとですか」。
 「今は、全てが悪りい方に動いているように思えるかも知れやせんが、十年後、二十年後に笑っていられたらそれで良いと思いやす。何も今直ぐに結論を出す必要はねえんじゃねえですかい」。
 「十年後、二十年後ですか。随分と気の長い話ですね」。
 静江の声が軟らかくなった。
 「なあに、あっと言うまでしょう。家の親父なんぞは、大昔をまるで昨日のことのように喋ってやすぜ」。
 気を抜いた方が良い。どれだけ長い間、気を張り詰め己を責めてきたのだろう。金次は静江と、妹のお町とを重ね合わせていた。
 お町もおえんという情婦のいる太助と一緒になる。最も太助とおえんとは、とうに切れてはいるのだが、おえんはそうは思ってはいなかった。そして太助はお町を選んだのではなく、火消しの娘だから選んだのだと。頭の娘でなければ、そんな不器量な女を男が選ぶものかと、女子にとっては辛い言葉を浴びせられもしたのだ。
 お町は何事もなかったかのように笑っていたが、内心は随分と傷付いたことだろう。だからといって出自や器量は己の努力ではどうにもならない。どうにもならないからこそ、ほかの部分で補おうと精進するのが人なのではないだろうか。
 お町は決して器量良しではないが、性根は優しい心配りの出来る娘である。おえんとて、決して恵まれたと言えない出自を自らの器量で生き抜いてきたのだ。
 誰もが何かが欠けている。それを補えるだけの強さも持っているのが人である。そして時の流れが傷付いた心を癒してくれる。今は辛くても、いつか笑い話になると、金次は語る。
 静江の目尻がやや下がったのを見て、金次は安堵感を得た。
 「お辛いことがありやしたら、何時でも来てくだせえ。あっしで良ければ話し相手にしておくんなせえ」。
 
 このような話がなされているとは露知らずのお紺は、静江の為に何か出来まいかと、持ち前ののしゃばりで、半月もの間、読売をそっちのけで金次の家を見張っていた。当の静江はとっくに組屋敷に戻っているとも知らずに。結局静江には会えず仕舞。それに費やした半月の間に、なんら働きもしなかったと、父親の庄吉からは大目玉を喰ったお紺であった。
 そして、そんなお紺を近所の人々は、「大方金次に岡惚れした娘が、付け回しているのだろう」と笑っていたのだが、お紺が知る由もない。



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のしゃばりお紺の読売余話34

2014年12月20日 | のしゃばりお紺の読売余話
 三十俵二人扶の同心に、娘を武家屋敷に奉公に出す仕度金などそう易々とは用意出来るものではない。いや、そんな事よりも、娘には女子として幸せになって欲しい。
 平三郎、静江、真之介。三者三様に重苦しい日々である。
 
 金次は深くは詮索しないが、ひと言だけこう言った。 
 「静江様は、真之介様がお嫌いなんで」。
 こう問い掛けられたのは初めてだった。これまで家名のことだけを言われ続け、姉・初江への遠慮の思いに捕われていた静江にとって、真之介との縁組だけを思えば、これ程幸せなことはない。
 「御武家様の事情は、あっしら町屋のもんには分かりゃしやせんが、御自分の事をいっちに思って良いんじゃありやせんか」。
 虚ろに宙を彷徨っていた静江の視線が金次に向けられた。
 「金次殿、それが大切な人の不幸の上にあってもでしょうか」。
 金次の元へ身を寄せた静江が、初めて口を開いた言葉である。
 「幸せや不幸せってえもんは、今直ぐに分かるもんじゃありやせんぜ。それこそ白髪が生える時分になってしみじみと思い起こす事じゃありやせんかね。あっしはそう思いやす」。
 「白髪の生える頃ですか」。
 「それに人様の幸不幸なんぞを、ほかのもんが決め付けるなんぞは、穿った考えですぜ」。
 「わたくしが穿っていると」。
 「へい。誰にも定めはございやす。どんなに苦しくても、その定めの中でよりどころを見付け出す強さも人にはあるもんですぜ」。
 「ならば、好いた相手と別れさせられ、違う相手に嫁がされたとしても、不幸ではないと言われますか。それが誰かほかの者のせいでも運命とおっしゃられますか」。
 静江の口調が荒々しくなるのが、金次には好ましく思えた。それは、感情が戻った証しでもある。
 「へい。元よりの定めだと思いやす」。
 だが金次には、意にそぐわない婚礼が静江なのか、ほかの者がそうなのかは計り知れずにいた。とんだやぶ蛇にならないように、慎重に話を進める必要があった。
 「このお江戸、いや日の本中で、どんだけのもんが、合惚れで夫婦になっているでしょうか。特にお武家様ではあっしらには分からねえ面倒事があるんでござんしょう。ほかのもんのせいでとおっしゃいやすが、世の中ってえのはほかの誰かに操られて思い通りにならないもんでさ」。
 静江は胸の石ころを抱いているような感情に捕われた。所詮町屋の者などに分かろう筈も無い。それを、したり顔で解く金次が憎々しく思えたのだ。
 「もし、あなたに兄様がおられ、その兄様が陽子に出されてあなたがお家を継ぐとしたら…そして迎えた嫁御は兄様の思い人だったとしたら…あなたは如何するでしょう」。
 とぎれとぎれに嗚咽を堪えながら話す静江に、金次は全てを理解した。




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のしゃばりお紺の読売余話33

2014年12月18日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「何故だ。そなたはわしを好いておったではないか」。
 静江の元には連日、松本真之介が足を運んでいた。奉行所への届け出はふいに目眩がし足を滑られて川に落ちたとされている。だが、己から断りを入れる事があっても、四方や静江が、身投げをする程に己を嫌っているなど、あろう筈もない。
 真之介が膝を詰めれば詰める程、静江は俯いて身を固くするばかりであった。
 「わしのどこが不満なのか、聞かせてはくれまいか」。
 幾ら口裏を併せようと、いつしか事は露見する。奉行所内で縁組を嫌っての身投げと、解れば真之介の立つ瀬は無い。また、現に奉行所内で訝っている同輩もいる。何としても早々に祝言を挙げて面子を保ちたいのだ。
 次第に真之介の膝に置いた拳が小刻みに震え出す。
 「どうあっても訳を話してはくれぬのか。そなたわしに恥をかかせたいのか」。
 静江のうなじがぴくりと動き、微かに横に振ろうと動く。真之介に問い質されればされる程、己が惨めになってくるだけだった。己の器量が悪いばかりに、家名迄も巻き込み、姉と真之介の仲を裂いた結果になってしまった事に、ただただ恥じ入るばかりなのだ。
 身の置き場がないとはこの事だろう。真之介が言うように、姉との仲を知らずに確かに真之介に淡い思いを抱いてもうた。だから尚更、姉が手に入れる筈だった幸せを己が全て手に入れる訳にはいかないのも事実。
 「あなたなど産まれてこなければ良かったのに」。
 あの優しかった姉に、そこまで言わ示したのは誰あろう自分なのである。
 父・平三郎は、初江にとっても静江にとっても、最善と思い下した決断だったのだ。反れが全て裏目に出たと言っても過言ではない。
 初江は好いた相手との仲を引き裂かれ、泣く泣く異に沿わぬ相手に嫁がされ、静江はそんな姉への自責の念に胸を押しつぶされ自らの命を絶とうとした。
 もし、静江の相手が真之介でなければ、万事が丸く納まっていたのかも知れない。運命の悪戯としか言いようの無い真実。静江は、この現実から逃れる為に平三郎にこう申し出た。
 「真之介様を御養子に迎えられ、しかるべき嫁を迎えられ御家を継いで頂いてくださいまし」。
 そして己は武家屋敷に奉公に出ると。
 平三郎にとっては青天の霹靂であった。静江の行く末を慮ってので真之介との縁組だったのだ。それを静江が拒もうなどとは思いもしないことである。
 ならば何故に初江を嫁に出したのだ。平三郎の意をくみしない静江に怒りが込み上げるのだった。
 「ええい、武家の娘が親に逆らうなど言語道断」。 





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のしゃばりお紺の読売余話32

2014年12月16日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「要するに、仲の良かった姉様の人生を、奪っちまったと思い悩んで身の置き場がなくなっちまったんだろうよ」。
 お紺はしゅんと鼻を啜る。
 「辛いねえ。姉様の思い人と姉様が継ぐ筈の御家名だったなんて」。
 「で、どうするつもりさ」。
 朝太郎は、これでも面白半可に読売に書き立てるのかと言っているのだ。
 「馬鹿だね。これ以上追い詰めてどうするんだよ。読売なんかにするもんか」。
 「そうこなくっちゃ。流石に情の分かるお紺ちゃんだ」。
 八の字に曲げた朝太郎の眉がきりりと上がる。
 「だけどお父っつあんには内緒だよ。お父っつあんなら、膝を叩いて大喜びで悲恋仕立てに書くに決まっているからね」。
 お紺の父・庄吉は常日頃から、人様の不幸を面白半可に話し回るようじゃあ、そこいらの金棒引きと同じ。諸手を挙げて小躍りして喜んでこそ、読売稼業の神髄と公言して憚らない。
 お紺は、人様の不幸が飯の種とは、あんまりだと悲しくもなったこともあったが、今では勾引しや火付け、盗人など事をあからさまにし、どれだけの罪に問われるかを知ら示す事で、少しでも犯罪が減れば良いと心している。
 なので同じ稼業の父娘ではあっても、その意味合いは違うのだった。もうひとつ大きな違いは、銭にならない事には全く興味のない庄吉に反し、お紺は情で動く。一文の銭にならなくても顔を突っ込む事にのしゃばるのが、その名の所以である。
 (放っちゃおけないねぇ)。
 お紺の胸に火が付いた。それにしても毎度気になるのが朝太郎の調べでであった。聞いてみても、「ねたはばらしても、ねた元は喋っちゃいけねえのが読売稼業の決まり」と突っ放なされるのだ。
 お紺の足は、静江が身を寄せていると聞いた、本所・深川三組火消しの頭のやさへと向かっていた。出張ったところで静江に会えるとは限らないし、仮に会えたとしても見ず知らずの己に何が出来ようかと思わなくもないが、事情を知ってしまった以上、知らんふりは出来ない性分なのである。
 庄吉に知れれば、「馬鹿野郎、ねたにしねえか」と、大目玉を喰うだろう。朝太郎に言えば、「よしなせえ。人様には触れられてくねえ事柄があるもんだ」と、嗜められるだろう。自分がのしゃばりだとはよくよく承知の上である。 



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のしゃばりお紺の読売余話31

2014年12月14日 | のしゃばりお紺の読売余話
 静江が、このようなやり取りが再三持たれた後、初江が渋々輿入れしたなど思いも寄らぬことであった。自分に冷たくなったのも、嫁入り前の不安からであろう。家を離れる寂しさからかなどと思い巡らせ、輿入れの日の涙も、悔し涙などとは予想だにしなかったのである。
 事次第を静江が知った時、静江に婿取りの話が決まっていた。そして同時にその相手が姉・初江と言い交わした間柄だったことも。
 静江の相手は、平三郎と同じ、南町同心の三男の松本真之介である。幼い頃から武勇に優れ、同心の娘はむろん、町屋の娘たちも放ってはおかない男ぶりであった。現に日本橋本町に大店を張る両替商や、廻船問屋からの懇願もあったと噂されている。
 静江も胸の奥で密かに思っていた相手であった。
 だが平三郎から話を聞いた時は、全身が燃え盛るように熱くなり、喜びに打ち震えたのだったが、その後幾ら経っても一向に話は進まずにいた。
 そうこうするうちに姉が嫁ぎ、漸く真之介からの色良い返事がもたらされた時には、静江は己の愚かさを思い知ったのであった。
 真之介は三男、初江は姉妹の長女。相惚れの二人に障害などあろう筈もなかったのである。それが、静江の器量を推し量り、家付きでなくては嫁の貰い手もないだろうといった親心から、初江が家督を継ぐことがなくなり、真之介と初江は泣く泣く分かれたのだった。
 だからといって家名の為にだけ、静江との縁組を真之介は拒んだ。一番には、好いた相手の妹と一緒になるのを躊躇してのことだが、それまでに断り続けた縁組が幾らでもあったのも事実。冷や飯食いで生涯を終えよう筈もないと踏んだからである。
 だが、一度断られた娘の親からすれば、これ程の恥辱はなく、真之介に再び嫁しても良いと思う者はいなかったのである。
 真之介が静江との縁組に色気を見せ始めたのは、初江が嫁いでからいち年の後であった。そして、ずっと心に秘めていた真之介との縁組を真底喜んでいた己を恥じた。
 恥じて、恥じて。姉には申し訳ない思いを抱き、一度は断られながらも家名欲しさに静江を妻にしようという真之介に嫌悪を抱いても良かろうところ、それでも嬉しさが先立つことを、更に恥じ入ったのであった。
 常に葛藤を続け、居たたまれない思いで溢れんばかりの静江を知ってか知らずか、祝言より先立ち、真之介と田所家との養子縁組が整い、真之介は見習い同心として奉行所に出仕していた。
 そんな折りにお町とおえんに出会したのある。家付き娘と器量自慢。まるで静江と初江を彷彿とさせる諍いであった。




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