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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

のしゃばりお紺の読売余話75

2015年03月13日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「これは…」。
 「そう、今朝の読売さ。今の話は全てこれに書かれてるよ」。
 (だったら何だって最初にそう言わないんだ。それよりもさっき渡した銭を返せ)。
 お紺は怒りに拳が震えた。そんな様子さえ面白そうにおすがは細い目を吊り上げてほくそ笑んでいる。
 「ちょっと待って。これじゃあ、合惚れの二人に悋気したお信さんひとりが悪者じゃないか」。
 人三化七のお信が、桜花を追いすがり、その桜花をかばいながら肩を抱いて逃げる男の挿絵が描かれ、まるでお信の狂言のように文が書かれていた。
 「おすがさんの話とは真逆じゃないですか」。
 「そうかい。あたしは字が読めないからねえ」。
 挿絵を見て、大凡の見当をつけていたらしい。
 「だからさ、あんたの読売にゃあ本当のことを書いて欲しいのさ」。
 事実を書いたとしても今更である。これだけ美談に書かれていたら、如何に事実だろうと勝ち目はないだろう。
 「どうしてあの女衒以下の男が、ここまで持ち上げられているか分かるかい」。
 (分かる筈もない)。
 「男の妹ってえのが、読売に大枚叩いて書かせたからさ。そうそう、あんた知っているかい。ちょいと前にお店もんと茶汲み娘が相対死したことをさ。その死んじまったお店もんってえのが、桜花の間夫の兄さんさ」。
 お紺の脳裏に、ひとりの芸者の姿が過る。
 「確か、柳橋の…」。
 「おや、知っているじゃないか。中井の芸者で梅華ってんだけど、一度に兄さん二人が大変なことになっちまったんだ。生き残った方は助けたかったんじゃないかい」。
 (そうと分かればこうしちゃいられない。梅華に会わなくては)。
 「おすがさん。最後にひとつだけ教えてくださいな。胡蝶のお女郎さんは皆、証文を返されて自由の身になったって聞いてますけど、どうして…」。
 「どうしてまた女郎をやってるかってえんだろう。あたしもさ、真底好いた男がいたのさ。所帯を持つ約束をしてね。だけど、所帯を持つ為に店を出したいって言うんだ。その為に銭が必要だろう。だから一年だけ、一年だけ辛抱して欲しいって言ってね」。
 お紺は目を白黒させていた。




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のしゃばりお紺の読売余話74

2015年03月11日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「木挽屋さんに…どうしてそんな目と花の先に」。
 「それさ。その男はね、木挽屋の桜花の間夫(まぶ)なのさ。そもそも、桜花を身請けする銭欲しさにほかの女を騙してるってな寸法さ」。
 「それもお信さんに伝えたので」。
 おすがはこくんと頷く。お紺の頭の中では糸がぐるぐると巻き付いていった。
 木挽屋と目と花の先の胡蝶にお信を売ったのは、ほかに引き取り手のないご面相だったからだとも言う。胡蝶は、年増や不器量でも親身に世話をしてくれるので知られていたのだ。
 「桜花以外には情の欠片もない男だからね。手前ぇで売り飛ばした女のことなんか三日も経てば忘れちまうのさ」。
 それで桜花の部屋で付け火をした訳が分かった。だが、お信が殺めたかったのは己を騙した男だったのか、それとも恋敵の桜花だったのだろうか。
 「でも、どうして付け火なんかしたんでしょうねえ」。
 「ああ、簪を髷から引き抜いて『殺してやる』って叫んでたから、揉み合っている内に行灯を倒したんだろうさ。お信だってまさか、手前ぇが死んじまうとは思ってもみなかったろうよ」。
 「殺してやるって、どっちをでしょう」。
 「さあて。桜花の方じゃないかい」。
 憎むべきは男ではないか。どうして桜花をと、お紺が言い掛けた時、それまで憎々しい物言いだったおすがが、ふと寂しげな眼差しを伏せた。
 「お紺さんって言ったかねえ。お前さん。好いた男はいるかい」。
 「えっ、あたし…あたしは」。
 予期せぬ問い掛けにお紺はどぎまぎとして、声が尻上がりに上ずった。するとおすがは、含み笑いを浮かべた。
 「女ってえのはねえ。真底好いた男は、どんな奴でも憎めないものなのさ。だからその憎しみの先が、ほかの女に向かうものなのさ」。
 「それで桜花さんを」。
 桜花にしてみれば良い迷惑である。
 「大方、桜花さえ居なくなれば、男の心変わりが止むとでも思ったんじゃないかね。どこまで馬鹿な女なんだい。お信ってえのはさ」。
 「ひとつ分からないことがあるんですがね。お信さんはどうして火消しの助けを断ったんだろう」。
 「さあて、まんいつ助かったとしても火炙りのお仕置きが待ってるんだ。火の中で死んじまっても同じだとでも思ったんだろうよ」。
 おすがは投げやりにそう言うと、煙管をつかう。
 「全く、良い迷惑さね」。
 それはそうだろう。
 「あんた、存外に良い奴だからひとつ教えてあげるよ」。
 そう言うと、懐からきちんと折り畳んだ一枚の紙切れを取り出し、お紺に差し出した。それを手に取ったお紺は、腰を抜かしそうになった。





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のしゃばりお紺の読売余話73

2015年03月09日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「あたしは読売をやっている者で紺と言います。あの火事の原因を調べていましてね」。
 「それで火事を面反可に書こうってのかい」。
 「それは姐さんの話次第ですよ」。
 「お紺さんだっけねえ。面白い事を言うねえ。あたしの話次第だってぇ。そんじゃあ、まるであたしの話が面白くないみたいじゃないか」。
 女郎同士が客を取り合っての角突き合わせなら、面白くも何ともない。
 「もしも、もしもさ、あたしの話に得心がいったら、もうちょっと弾んでくれるかい」。
 袖の下を要求している。
 「いいですとも。ただし、その話が売れそうかそうでないかは、あたしが判断させて貰いますよ」。
 「ああ。じゃあ、どこから話そうかねえ」。
 「付け火をした女のことからお願いしますよ」。
 「付け火をしたのは、お信ってな名さ。惚れた男に騙されて女郎に叩き売られた馬鹿な女だよ」。
 「騙されたですって」。
 「ああ、女を込ましておいて、所帯を持つ銭がないって女郎に叩き売る、女衒より質の悪い男でねえ」。
 「じゃあ、その事実に気付いて」。
 おすがは、意地悪そうに細い目をうっすらと細める。
 「何時迄経っても気が付かないから、あたしが教えてやったんだよ」。
 「どうしてまたそんなことを」。
 「だって哀れじゃないか。毎日毎日、来る筈のない男を待って客を取るなんてね。あたしは親切で教えてやったのさ。それなのに」。
 親切心ではあるまい。意地悪な心がそうさせたのだろう。それは、お信を気に入らなかったからか。
 「どうしてそれをご存じなんです」。
 「あの男は手前ぇの女にしておいてから、叩き売るので知れているのさ」。
 「ほかにも、お信さんのような女の人が居るのですね」。
 おすがは面倒臭そうにああっと頷く。早く先を話したくて仕方ない様子である。お紺は黙って、おすがに話を渡した。
 「丁度その男が木挽屋に姿を現したんで、お信に教えてやったのさ。そうしたらお信の奴、血相を変えて飛び出して行ったよ」。





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のしゃばりお紺の読売余話72

2015年03月07日 | のしゃばりお紺の読売余話
 火付けは重罪であり、その罪は火炙りの刑に処せられるが、女郎が仕出かした場合は、その境遇を慮り遠島で済まされることもあった。かといって、世間を騒がせた罪は罪。雇い主にも管理責任の咎は及んだのである。
 「すると、見世にいた女の方たちは、宿替えですか」。
 「いや、そうじゃねえ」。
 「胡蝶の旦那ってえのが出来たお方で、何処の見世でも引き受けねえ年増やご面相の悪い女たちを雇ってたってえんだ。そこの女たちの行き場所なんか、せいぜい、あひるか宿場女郎くれえなもんさな」。
 したり顔の男が割って入った。どうやら女郎たちは、最下級の見世へと宿替えになったらしい。佃島の岡場所はあひると呼ばれていた。あひるであれば、そう遠くもない。
 「でな、どうせ沽券はお取り上げとなったんだってんで、旦那は女たちをみいんな自由の身にしてから江戸を離れなすったのよ」。
 自由の身となったとはいえ、身元引き受け人も居ない女郎上がりが全うな職にありつける筈もなく、もはや国元へも帰れない者は、やはり女郎となるしかない。夜鷹や地獄、ほかの見世へと移っていったと言う。
 「確か、あひる河岸に、火事の様子を語るってなこって、物珍しさに客が付いている女郎が居るってな話だ」。
 素人の女がひとりでは、憚られるが、朝太郎を迎えに行く間も惜しい。お紺は、あひる河岸へと橋を渡った。正確には橋を渡りながら、ここから女たちは売られて行ったのだと思うと、鼻の奥がつんと熱くなった。
 先達ての火事の模様を見て来た様に語る女は、直ぐに見付かった。それで客引きをしている女をほかの女郎たちが面白く思っていなかったからである。
 蓮っ葉な物言いで、女の名はおすがだと直ぐに教えてくれた。最も袖に銭を滑られてのことだが。
 「これは珍しいねえ。女の客かい」。
 「いえ、あたしは火事の様子を知りたいだけで」。
 ふうん。と顎をしゃくるおすがは、着物の着崩し方から髪の結い方から、何を取っても胡散臭さの漂う様な女だった。酒焼けの声も、そう思わせるには十分なものがある。
 「どうして火事の様子を知りたいのさ」。
 こういった女には、嘘の素性を語るよりも読売だとはっきり伝えた方が効果があることをお紺は知っていた。ただし、事情通を嘯き、大分上乗せして事実を話すので注意も必要である。






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のしゃばりお紺の読売余話71

2015年03月04日 | のしゃばりお紺の読売余話
 読売が売れたのには、火事でお信に恨みを抱く人々が、人三化七とまで書かれたお信を嘲笑することによって少しばかり鬱憤を晴らしているのだ。そんな庄吉の言い分も分からなくはないが、お紺は、やはり同じ女としての同情を否めない。
 「ねえ、朝さん。朝さんはどう思うかえ」。
 心に迷いを秘めたお紺は、朝太郎を訪っていた。
 「どうって、お紺ちゃんは、本当の訳を知りてえんだろう」。
 お紺は、こくんと頷く。
 「だがよ、世間にゃあ、知らなくても良い真実ってえのもあるんだぜ」。
 「なによ、朝さんもおとっつあんの見方なのかい」。
 「そうじゃねえよ。そうじゃねえけどよ。仮に真実が分かったとして、それがもっとお信を辱めるようなことだったらどうする」。
 「人三化七以上に女子を辱めることなんかあるものか」。
 お紺の声は大きくなる。その声に、朝太郎は耳を人差し指で塞ぐ動作をしながら眉を潜めるのだった。
 「あるさ。ほかの人には決して知られたくねえことがよ」。
 「あたしにはないよ」。
 「そらあ、お紺ちゃんにはねえわな」。
 子ども扱いされたのが妙に癇に障ったお紺。けらけらと笑う朝太郎のやさを飛び出した。女として、器量を妬んだだけで、あれほどの大罪を仕出かすとは信じ難かったのと、死して直、世間に嘲笑されるお信が惨めに思えたのである。
 お紺の足は、火事場の深川山本町へと向かった。そこでは、土手組が始末を付けている真っ最中だ。
 「お尋ねしますがね。胡蝶ってえ見世はどうなりました」。
 「誰だね、お前ぇさん」。
 「ええ、ちょいと胡蝶の女将さんの知り合いのもんでして」。
 男はお紺の問い掛けに面倒だとばかりにぞんざいな物言いで答える。
 「この火事の科人を出したってえんで、家財没収さね。最も焼け尽くされて家財なんぞ、何も残らなかったけどね」。
 「では、ご主人と女将さんも罪を問われて…」。
 牢に繋がれているのか。
 「女郎の仕出かしたこった。お上にもお慈悲はあらあな。江戸所払いで済んだってな話だぜ」。





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のしゃばりお紺の読売余話70

2015年03月02日 | のしゃばりお紺の読売余話
 何が起こっているのか。本来なら自身番などでじっとしている時が惜しいが、火消しの邪魔になるのであれば致し方ない。今はただ、一時でも早く鎮火を祈るのみである。
 一時の後、朝太郎が櫓から下りて来た。
 「朝さん。どうかね。火は消えたかえ」。
 「いいや、酷ぇ火事になったもんだ。それにこの風だ」。
 折からの強風に煽られ、風下へと燃え広がっていると言う。
 「木挽屋はどうなったの」。
 「全焼だ」。
 お紺は、金次が助け出せなかった女郎が、もしや生きているのではないかと、淡い期待を抱いていた。それを見透かしたかのように朝太郎が続ける。
 「これだけの火事になったんだ。付け火の罪人になぞなる前に死んで良かったのかも知れねえな」。

 火事は翌朝の明け六つになり、漸く鎮火の兆しを見せ始め、自身番に引き揚げて来た火消しの口から出た情報を乗せた読売は飛ぶ様に売れた。
 だが、拵えたお紺にしても、読んだ者にしても気になるのは、お信が桜花に嫉妬しての付け火だという事実であった。その嫉妬の根本が、単に器量だけとは信じ難い。お信本人に真相を正すのはもはや適わないことではあった。
 だが、お紺ののしゃばり振りが頭をもたげ出す。父の庄吉が「もう火事の一件はお仕舞ぇだ」と、言うのを、「幾ら器量を嫉妬したとして、付け火までするもんか。もっと大きな訳があった筈だ」と言い張ったにであった。
 「だって、幾ら科人だってさ。死んじまってからも人三化七のように言われて、可哀想じゃないか」。
 そう書いたのはほかならぬ、庄吉である。
 「けどよ、火事のお陰で桜花の人気は鰻上りって話だぜ」。
 全焼した木挽屋は仮住まいで営業を再開していたが、読売で評判となった桜花をひと目見ようと、連日く大賑わいだと言う。
 「おとっつあん。だからもう良いってえのかい。死んじまった方はどうなるのさ。死んでからも辱められなくても良いじゃないか」。
 「どうにもなんねえな。死んじまったんだから。お紺、良いか、どんな事実があったにせよ、お信ってな女郎はなあ、あれだけの火事を起こした科人だ。手前ぇひとりが死ぬなら良いがよ、いってえどれくらいの人が命を落としたと思ってるんだ。その責任があるわな。辱めくれえで済んで御の字だと思いやがれ」。
 「でもおとっつあん。あたしは本当のことを知りたいんだよ」。
 「だから知ってどうなるってえんだ。巻き添えで死んじまったもんや、燃えちまった家財は元には戻らねえんだ。そういったお人の恨みはどうなる。えっ、お紺」。




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のしゃばりお紺の読売余話69

2015年02月28日 | のしゃばりお紺の読売余話
 自身番には普段は月番の差配や大家、書き役が詰めているが、火事の時は火消し共々出動する。この時は書き役が留守を守っていた。
 「この火事はいけないねえ」。
 書き役の男は五十絡みの温厚そうな男だが、場合が場合だけに苦渋の表情を張り付かせている。
 「思った以上に、火の回りが早い。これじゃあ、おろくが幾人出ることだろうねえ」。
 「火元は何処なんでしょう」。
 「聞いたところじゃ、木挽屋だってえ話だけど、どうやら女郎の付け火らしいねえ」。
 「付け火、付け火ですか」。
 お紺の胸がぎゅっと痛む。
 「どうしてまた…」。
 付け火は重罪。捕まれば火あぶりであった。
 「女郎には、女郎の苦しみがあるってもんさ。あたしらには分からないこってすよ」。
 こうしている間も、櫓の上では擦り晩鐘が激しく鳴らされ、火事場の近さを物語っている。
 お紺の脳裏に、先程屋根の上から見た、木挽屋の開け放たれた二階の障子から覗いた青ざめた女の顔が浮かんだ。
 (もし、あの女(ひと)が火付けをしたなら、死ぬ気なのだろう)。
 死ぬのも火に巻かれ、生きても後は火あぶり。同情はするものの、全く関係ない多くの人を巻き添えにし、世間を騒がせるその行為は許し難いものである。
 「さて、そろそろここも忙しなくなるから、娘さん、あんたも覚悟しておいておくれな」。
 書き役の男の言葉の意味が、死骸が運ばれて来るということだと、お紺は瞬時に理解した。最もこれだけの火事で、死人が自身番になど収まり切れる筈はない。多くは、近くの寺がその収容場所になるだろう。
 「付け火をしたのが誰かは分かっているのですか」。
 「いいや。未だ分からないが、どうやら木挽屋の桜花ってな女郎を逆恨みしたらしい」。
 「逆恨みですか」。
 「ああ。桜花ってえのは評判の器量良しだからねえ。何でも吉原の花魁にも引けを取らないほどだって噂だよ」。
 「けど、幾ら器量を妬んだって、付け火をしますかいねぇ」。



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のしゃばりお紺の読売余話68

2015年02月26日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「あたしらは読売のもんでさぁ。さっきのお前ぇさんの働きを描きてえと思っておりやして」。
 「ああ、駄目だ。駄目だ。遊すびゃねえんだ。お前ぇらがいたら足手まといよ。とっとと消えつくんな」。
 「そう良いなさんな。あたしらだって遊すびゃありやせんよ。読売で火事の恐ろしさを伝えて、少しでも火事がなくなればと思ってやってるんでさ」。
 金次が目を細めて朝太郎を見る。一方の朝太郎も口を真一文字に結んで、いつになく神妙な面持ちだ。背後に炎が写る中、男前二人が面付き合わせる。
 (滅法界絵になる。これだけでも読売になるかしらん)。
 そう思ってから頭を横に振るお紺。
 (いけない。いけない。何でもかも読売に結び付けるよになっちゃあ、おとっつあんと同じじゃないか)。
 そう、人様の不幸を飯の種にしているだけでも罰当たりなのだ。お紺は常々そう、庄吉を非難してきたが、いつの間にか、己もそうなっている、いや未だそれに近付いていることに己を嫌悪した。
 このような場面で、己に不幸がなくても、先ずは人々の安堵を願うのが人の性であろう。それだけは忘れたくはない。
 「どきやがれ。こちとら命を張ってるんだ。じゃますんな」。
 金次の肩越しから前に出た若い衆が、朝太郎に怒声を浴びせる。
 「おきゃがれ。命を張ってるのはこちとらも一緒よ。こういった不幸を繰り返さねえためにも、絵に焼き付けて世間様に知らすのがこちとらの役目だ」。
 お紺は、朝太郎が声を張り上げるのを初めて耳にした。
 「読売風情が命を張ってるって。笑わせんな」。
 「太助、止しな」。
 低く腹の底に響く様な声であった。
 「家のもんな失礼しやした。そちらさんも役目でしょうが、あっしらは何よりも人様の命や財を担っておりやす。そちらさんが突っ立っているために、火を消すのが遅くなったらどうしやす。そのために死人が出たら取り返しがつかねえじゃねえですかい」。
 「頭…」。
 五十絡みの三組の頭であった。若い者では話がつかないと、業を煮やしていたのだろう。朝太郎は、頭の言葉に静かに頷くと、決して火消し衆の邪魔はしないと言い、火の見櫓に上る事を許されていた。櫓の上であれば、火消しの邪魔にはならず、絵を描くには一部始終を見渡せる打ってつけの場である。
 ただ半鐘を鳴らす役目の男が上っているので、くれぐれもその邪魔はするなと釘を刺されてはいたが。そして、幾らおてんば娘でも、お紺が櫓に上れる筈もなく、櫓下の自身番で待たせて貰うことになった。



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のしゃばりお紺の読売余話67

2015年02月24日 | のしゃばりお紺の読売余話
 それでも悲しいかな、直次郎のほかには男に甘い言葉のひとつ掛けられたことのないお信の憎悪は、激しい嫉妬となって桜花へと向けられた。
 やり場のない怒りで右手を振り上げ、桜花の頬を打った瞬時、それ以上の力で直次郎に打ち据えられ、お信の左頬はみるみる赤く腫れ上がった。
 「手前ぇ、何しやがる」。
 「ちくしょう」。
 直も桜花に掴み掛かろうとするところを、直次郎に突き飛ばされ、その拍子に有明行灯が倒れた。直次郎は桜花を逃すと、布団を掛けて炎を消そうと試みるが、その背にお信が飛びかかり、火を消すよりもお信を振り払うことに懸命になるうちに、布団を媒体にした炎をみるみる燃え広がっていった。
 木挽屋の男衆が駆け付けた時には、もう手の施しようもなく、女郎たちを逃がす三段へとその手は駆り立てられていったのであった。
 「燃えちまえ、みんな燃えちまえ」。
 お信の瞳に写る紅蓮の炎は、直次郎の嘘を燃え尽くしてくれるような気がしていた。今さっきの出来事は全て幻であり、炎が収まれば、いつもの優しい直次郎がいる。いや、所帯を持つために出稼ぎに行っている直次郎が深川に居る筈がないのだ。

 こうして山本町を舐めるように燃え広がった火事であった。朝太郎とお紺が廓の前まで辿り着いた時、木挽屋の二階から梯子を下りる金次と、間一髪で崩れ落ちる家屋。朝太郎の絵と違っていたのは金次の背に女の姿がなかったことである。
 「若頭」。
 「おう。女は駄目だ。柱が倒れちまった」。
 金次の半纏からはぶすぶすと煙が上り、鬢も火の粉を被った様子であった。ほつれた鬢が妙に色っぽい。不謹慎ながらお紺は胸にぐっと込み上げてくるものがあった。
 「お前ぇたち、何やってんだ。ここは危ねえ、早く逃げな」。
 火事場に近付けば必ずそう言われる。お紺と朝太郎も、何人の火消しに言われたことだろう。その度に有耶無耶にしていた。
 「駄目だったって」。
 お紺は金次に話し掛けた。
 「お前ぇ。あの女郎の知り合いけ。んにゃ、女郎じゃねえな」。
 お紺の足下から頭の先へと金次の視線が走る。
 「あたしは…」。
 お紺がそう言い掛けた時、朝太郎が話を引き取った。



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のしゃばりお紺の読売余話66

2015年02月22日 | のしゃばりお紺の読売余話
 愕然とするお信に追い打ちを掛けるようにおすがが言う。
 「直次郎が、どうして女衒みたいな真似をしているか判るかい。それもこれも、あの桜花を身請けするための銭を拵えるためさ」。
 桜花を色里から救い出すために、ほかの女をそこに沈める。そんな非情なことが人に出来るのだろうか。だが、おすがの目は、真実だと物語っていた。
 それでも直次郎を信じたい。例え、おすがは騙されたとしても己だけは違う。いち年の後には夫婦になる筈なのだ。そして裏長屋で貧しくても良い。二人で働いて平凡な日々を送るのである。遊郭に居たことなど、何時か忘れられる筈である。
 お伸は我を失っていた。脱兎の如く見世を飛び出し、男衆が止めるのも聞かずに、木挽屋へと上がり込む。
 「桜花はどこさ。えっ、桜花、桜花ー」。
 「うるせえな。桜花は客は取らねえぜ」。
 甘い言葉を囁かれた直次郎の聞き慣れた声であったが、それは尖ってお信の胸を抉る。
 「直さん…」。
 振り向いた直次郎の目は、見知らぬ女を見るように冷ややかに感じられた。
 「お前ぇ、誰でい」。
 「……」。
 「えっ、どこのどなたさんか知らねえがな、勝手に人様の室に入ってくんじゃねえ。出ていってくんな」。
 「あんた、あたしを知らないと言うのかい」。
 「ああ知らねえな。見たこともねえ。どこの女郎だい」。
 大方切り見世だえろうと、直次郎が蔑んだ。
 「直さん…」。
 「なあに、心配えすんな。大方お頭(つむ)がおかしいんだろうよ」。
 桜花に向ける甘い声が、お信の辛うじて保っていた理性を狂わせた。
 「どこの女郎か知らねえが、無粋なことは止めてとっとと帰ぇんな」。
 「お前さん、本当にあたしを知らないってえのかい」。
 「ああ、お前ぇみたいな人三化七、見たことがねえな」。
 「人三化七…。あたしをそんな風に思って…」。
 お信の鼻の奥はつんと熱くなり、身体が震え出すのを感じていた。おすがの言ったことは真実だとこの時初めて知ったのである。いや、おすがは未だ親切だったかも知れない。直次郎にとってお信は、覚えていないくらいに軽んじた存在だったのだから。



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のしゃばりお紺の読売余話65

2015年02月20日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「ちょいと、おすがさん。教えておくれな。あの桜花ってえのは直さんの情婦(いろ)に間違いないのかえ」。
 「ああそうさ。間違いないよ」。
 「嘘だよ。だって可笑しいじゃないか。おすがさんが言うように、仮に直さんがあたしを騙して売ったとしたって、何も情婦の居る山本町になんか売る筈はないじゃないか」。
 岡場所なら数え切れないくらいある。顔を合わすかも知れない山本町よりも、もっと安全に騙し通せる筈だ。だからやはりおすがのやっかみなのだとお信は思う。
 「あんたも相当目出たいねぇ。鏡、見たことあるのかい」。
 「止めないか、おすが」。
 お陸の平手がおすがの頬に飛んだ。打たれた頬を手で押さえながらもおすがの口は閉じること忘れたかのように滑らかである。
 「そのご面相じゃあ、ほかの女郎屋には売れないからさ。ここのお父さんは人が良いからねぇ。他所じゃあ銭にならないような女でも引き受けてくれるのさ。心当たりがあるだろうよ」。
 言われてみれば、幾つかの女郎屋を直次郎に連れられて回った。だが、それは飯炊き女だと聞かされていたのだ。断られると直次郎は、「寸の間遅かったようだぜ。今さっき決まっちまったそうだ。気にするなほかを当たろうぜ」。と言っていた。
 もし、おすががほかの女に言っていたなら、得心出来る話ばかりである。だが人は不思議なもので、己のことに関しては何事も良い方に、良い方に曲げて思い込んでしまう。
 それが目の前で、真実を見せ付けられたとしてもだ。
 桜花は、お信よりもひと回りは若いだろうか。透き通るような白い肌に、濡れたような黒目がちの一皮目。紅をさした口元も、鼻筋も非の付けようがない。どれもがお信にはないものだった。
 「そこまで言うなら何か確証があるんだろうね」。
 おすがは、薄く笑う。
 「直次郎に売り飛ばされた女はあんただけじゃないって言ったろう。あたしもそうだからさ」。
 なら、今までおすがの口から飛び出した悪態は、おすが自信のことでもあったのだ。
 「あたしはもう五年になるかねぇ。いち年だけの辛抱だって言われて、それっきりさ」。
 「その間、顔を合わせなかったのかい」。
 「会ったさ。何度もね。だけどあいつは、とうにあたしの顔なんか忘れちまっているのさ。そういう男だよ」。
 では、自分もこの地獄からは抜け出せないのか、所帯を持つためにしてきた辛抱は泡のように儚い夢だったのか。




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のしゃばりお紺の読売余話64

2015年02月18日 | のしゃばりお紺の読売余話
 「未だ分からないのかい。直次郎ってえのは女衒さ。おっと、そりゃあ女衒に失礼だ。あいつはね、女を騙して売り飛ばしている非情な奴なのさ」。
 「あんたに、直さんの何が分かるんだい」。
 おすがは、意地悪そうに鼻で笑う。
 「あたしはね、ここで何人もの女を見てきているんだ。直次郎に騙されて連れて来られたのはあんたが初めてじゃないってこった」。
 「……」。
 お信は言葉が続かない。
 「いい加減におよしって言っただろう」。
 古参のお陸が割って入る。
 「おすが、もう良いだろう」。
 「だってねえ、姐さん。あたしゃは意地悪で言っているんじゃないんだよ。騙されているお信が可哀想で言っているのさ」。
 「そうかい。随分と親切なこったねぇ。あたしには面白がっているようにしか見えないけどねぇ」。
 「姐さん…。だけど、誰もが知っていることじゃないか。黙って陰で笑っている方が酷くないかえ」。
 「おすが、ほかの者んも良くお聞き。あたしらの商売は、先の希望もありゃしないんだ。そのほんの小さな支えを奪う様なこよをおしでないよ」。
 お陸がおすがを見据える。
 「けど、姐さん。何時まで待っても来ない男を思っていたって仕方ないじゃないか」。
 「人は支えがなくなったらどうなるえ。よしんば来ないと分かっていたって、四方やと思いながら生きていた方が良いんじゃないかえ」。
 真実を知るべきだと言うおすが。一方のお陸は、知らない方が良い真実もあると言う。そんな二人のやり取りの渦中にいた筈のお信であったが、二人の口論さえも耳の入らず、木挽屋の暖簾を潜る直次郎と桜花の姿が、残像として瞼に焼き付いていた。
 再び、今居る場所が切り見世で、周りに居並ぶのは女郎であり、自分もその中のひとりだと気が付くまでにどれくらいの時を必要としただろうか。寸の間だったのか、長い間だったのか。
 放心から戻ると、おすがに言われるまでもなく、男が好いた女を女郎屋に置き去りにする訳もない。直次郎が銭に困っていたって、夫婦二人で働けば貧しいながらも暮らしはなりゆくであったろう。





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のしゃばりお紺の読売余話63

2015年02月16日 | のしゃばりお紺の読売余話
 木挽屋は、山本町の女郎屋の中では切り見世とは違い格上で、揃えている女たちも吉原に引けを取らないとの評判である。中でも桜花を名乗る女郎は、吉原の花魁にもなれようかといった器量良しであった。
 「なんだい、おすがさん」。
 「良いから見てご覧よ。桜花さんの隣をさ」。
 おすがが指さした先には、客を迎える桜花の姿があり、その桜花と向かい合い、ちょうどお信の背を向けた棒縞の着流しには見覚えがある。そしてその男が振り向いた瞬間、斧部は息を飲んだ。
 「直さん…どうして…」。
 お信が夫婦約束をしている男は、いち年間高崎宿まで働きに行き、銭を貯めて戻るから、それまで辛抱してくれとお信に言い残したのだ。その男がどうして目と鼻の先に居るのか。
 「お前さんが言っている男ってあいつじゃないのかい」。
 おすがが意地悪そうな目を送る。部屋の隅からは「およしよ」。と、声が掛かるが、おすが初め数人の女郎たちのここぞとばかりに日頃の鬱憤を晴らすかのように、お信を追い詰めるのだった。
 「ありゃあ、桜花さんの間男(まぶ)だよ」。
 おすがが、お信の肩越しに囁く。
 「間男だってぇ」。
 「そうさ、ああやっていち日とおかず通って来るのさ。最も花代は桜花さん持ちだがね」。
 お信は頭(つむり)を雷に打たれたかのような衝撃を受け、言葉も出ない。後方から、古参女郎が、「いい加減に、およしよ」と声を掛けていたが、それも頭中を素通りしていく。
 「あんたはね、あの男に騙されているのさ」。
 誰の言葉とも分からないが、騙されてと聞いた瞬時、お信は我に返った。我に返ったのではなく、我を失ったと現した方が適切かも知れない。
 「ちょいと、それはどういう意味さ」。
 「だから、その目で見ただろう。あんたの男は桜花さんの間男なのさ」。
 「そんな訳はないよ。あれは似ている男さ」。
 高崎の直次郎が深川に居る筈は無い。よしんば深川に戻ったなら自分の所にまず顔を出す筈である。何せ、夫婦約束をしているのだから。そして、お信が女郎になったのも、その約束を果たす銭を稼ぐ為なのだから。




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のしゃばりお紺の読売余話62

2015年02月14日 | のしゃばりお紺の読売余話
 ふた時前に遡る。深川山本町の切り見世・胡蝶では、お茶を挽いた女郎たちが四方山話に花を咲かせていた。それがいつしか浮き世話を信じ切っているお信への当てこすりへと変わっていったのであった。
 「お前さん。未だそんな夢みたいなことを信じているのかい。目をお覚ましよ」。
 「夢…。それならここを出たら、小さくても良いから二人で倹飩屋でも出来たら良いって」。
 夢みたいな話とは、お信は、好いた男の借財の為に女郎に身を売ったのだが、それは一時も早く、二人で出直す為であると常日頃から、それだけを信じていたのである。
 「良く考えてごらんな。誰が手前ぇの女を女郎になんぞ叩き売るもんかね」。
 「あたしは、売られたんじゃなくて、手助けをしようと進んでここに来ただけさ」。
 「だけど、あんたの男はそれを止めなかったんだろう」。
 「けど、あたしの手を握って、『本当に良いのかい』って何度も何度も言っていたものさ。仕方なかったんだよ」。
 お信は若くもなければ器量も良くない。女郎にしてもせいぜい場末の切り見世程度の女であった。
 そんな女が、口を開けば、相方と夫婦になる為に、この稼業に入ったのだ。いつかきっと相方が迎えに来るのだと言うのである。女郎は、同じく惨めな境遇の者たちである。最初こそ互いに身の上話で慰めあってはいたが、何時まで経っても絵空事を話すおの信は、鬱積とした女たちの悪意を呼び覚ましたのであった。
 「本当かねえ。あんたの相方ってえのは一度もここの顔を出さないじゃないか」。
 「それは…借財を返す為に、江戸を離れて働いているからさ」。
 「ふうん。それにしても文の一通もこないとはねぇ」。
 「文、文なんかこなくても、心はひとつなんだよ」。
 こんな不毛なやり取りが暫く続くと、お信は、夫婦約束をしている自分を、皆がやっかんでいるのだと思う。
 一方で、あてこすりをする女郎としては、男に売り飛ばされた現実を見られずに、甘い言葉を頭から信じているお信が歯がゆくて仕方ない。
 いつもなら、どちらかに客が付いて話は終わるのだが、生憎とこの日は、終焉がみえなかった。
 そして、二階の障子越しに通りを眺めていた別の女郎が振り向いた。
 「お信。ちょいとこっちに来て見てご覧な」。
 お信はてっきり自分を助けてくれているのだと思った。
 「ほうら、あすこ。木挽屋の前さ」。





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のしゃばりお紺の読売余話61

2015年02月12日 | のしゃばりお紺の読売余話
 朝太郎は、「ああ」と、大きく頷く。
 「まあ、見てきたように書くのが読売だからな」。
 だが、間近で見て描きたいという絵師の本性が疼くようで、屋根瓦を器用にひょいひょいと跨いで火事場に近付いて行くのだった。
 一方のお紺は、上った屋根に座っているのが精一杯。屋根伝いに歩くなど、到底出来ない話であった。
 「朝さん、おいて行かないでおくれな」。
 
 火の粉が紙にも髪にも舞い落ちる距離まで詰めた朝太郎が、無心で矢立てを動かす。その顔は、火に照らされ、熱いほどである。火消しも同心も、逃げ惑う人々と炎に気を取られ、屋根の上の朝太郎に気付く者などいよう筈もないのだ。
 そんな中、朝太郎は、屋根の上で盛大に回る纏は南三組。それを振るのは若い火消し。そしてその直ぐ下の二階の開け放たれた障子からは、南三組の若頭の金次が女郎を背負うようにして梯子を下りる姿を描き付けた。
 これ全て朝太郎の想像であるが、金次の顔をしっかと描けたのは、一度大川で武家娘を助けた折りに描いていたのと、今目の前で燃え盛る火の粉を浴びながら火消しの采配を振るっているのが、正に金次その人であったからである。
 (これ以上、長居をしたらこっちの身が危ういことになる)。
 朝太郎が踵を返そうとしたその時であった。目の前の障子の奥から、ひとりの女が亡霊のようにふらりと姿を現したのである。
 (逃げ遅れたか)。
 描いたものの、実際に人が未だ中に居たとは信じ難い朝太郎。既に二階屋を煙突のように煙が這い上がり、火の勢いは衰えることことを知らないようだ。
 外から様子を眺めただけでも、女のいる二階へ上るには、外から梯子を立るしか手段はなさそうである。
 だが、それも瞬時に行わなければ、既に障子にも火は燃え移っていたのだ。女に生気がないのは、もはや諦めたためであろうか。
 その時、金次が動いた。火桶の水をざばんと頭から被ると、若い者に梯子をかけさせ、それを上り始めたのである。
 今さっき、朝太郎が描こうとした光景がそこに写し出されようとしていた。




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