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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第四章 川崎尚之助 12 ~

2013年07月11日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 川崎尚之助と柴太一郎は、この手形を取り戻すため、訴訟を起こし、裁判の行われる東京に居住を移すのだが、逆に大豆取引が成立しなかった事を詐欺として訴えられという二重の訴訟となってしまうのだった。
 逃走中であった米座省三が東京で逮捕され、手形は尚之助の手に戻るも、既に米は古米となり、相場も下落。取引相手に大損害を与える結果となり、ここでも訴訟が発生する。
 詐欺罪として立件された米座は拘禁。尚之助と柴は保護観察状態に置かれるが、身元引受人の元での暮らしは困窮を極め、満足に食べる事も適わなかった程だったという。
 後に尚之助は、己の独断だったと供述し、明治7(1874)年に函館へ連行される途中に重病に陥り、東京へと戻され、慢性肺炎の為、明治8(1875)年3月20日、東京医学校病院にて永眠する(享年39歳)。
 裁判の判決は下されていなかったが、相続人無しということで、裁判は未決のまま終了となった。
 米座は禁固2年。柴は禁固100日の禁固刑に服した後、会津に戻り、大沼・南会津郡長を務め、大正12(1923)年4月28日、85歳の天寿を全うする。
 何とも…。大木仲益(坪井為春)塾の秀才であり、屈指の洋学者として知られた尚之助の後半生は、余りにも惨いものである。
 縁もゆかりもなかった会津の為に尽力し、負け戦を戦い抜いた挙げ句に、苦難を承知で斗南まで従い。その暮らしを立て成すべく、しかも己事ではなく藩の為に奔走した人間が、誰からも見捨てられ、死んで逝ったのだ。
 歴史に「もしも」はないが、山本覚馬に出会わなければ、会津の地を踏まなければ、維新後も学者として業績を残したであろう逸材である。
 また、朝敵となり郷里・出石藩には戻る事が適わなかったのだろうが、どこぞに逃げる事も可能だった筈だ。彼が斗南を選んだ理由は不明であるが、八重との結婚生活で子を生してもおらず、四方や今で言う仮面夫婦であったのではないかとの一抹の疑念も払拭出来ない。
 山本覚馬も八重(新島襄とは再婚前)も、既に地位を確率しており、尚之助の生活の援助を誰憚る事なく出来た筈である。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第四章 川崎尚之助 11 ~

2013年07月10日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 妻・八重もスペンサー銃で新政府軍を狙撃。夜襲に加わり、新政府軍に一矢報いるも、ひと月に渡る籠城戦の末、食糧補給路を断たれ、同盟軍は次々に降伏。完全に孤立した会津藩は新政府軍に屈し、明治元(1868)年9月22日、城門に降旗を翻す。
 以前は、川崎尚之助のその後の消息は分かっておらず、籠城戦の最中で行く方知れずとされていたが、近年になり会津藩の降伏後、会津藩士と同様に東京で謹慎生活を送り、会津藩が移封に伴い斗南藩へと移住した事が分かっている。
 一方の八重は、会津藩の降伏後は会津で過ごした後、米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎへ出たが、死んだと思っていた兄・山本覚馬が京都で京都府の顧問をしている事が判明したため、兄・山本覚馬を頼って京都へ移住しているので、会津降伏後に夫婦別れをしたとものと思われるが、確かな記述はない。
 だが、これは川崎尚之助、八重に限った事ではなく、妻が商家などの町屋へ嫁ぎ新たな人生を送れるようにと、多くの藩士が離縁をしている。 
 なぜなら、会津藩は二十四万石の大藩であるが、移封先の斗南藩はわずか三万石。しかもこれは帳面上の数字で、実質は一万石足らずだったのだ。
 藩としても藩士全てを受け入れる事は適わず、希望者のみとしている。斗南藩立藩の後の藩主は容保の実子・容大で、生後5カ月であった。容保は東京にて謹慎。
 斗南は不毛の地で、移住した多くの旧会津藩士が飢えに苦しむ事になるのだが、それがどれくらいかと言うと、斗南立藩後の山川浩(大蔵)が大参事(旧家老)に就任するも、妹・咲子(捨松)を函館へ里子に出すなどの苦労を強いられたくらいに生活も困窮を極めたのだ。
 農作物による収益が得られない土地に見兼ねた尚之助は、商取引によって利益を上げる事に従事する。
 取引の為に柴太一郎(旧会津藩・軍事奉行添役、柴四郎・五郎の長兄)と共に、函館へと渡った尚之は、自称斗南藩士・米座省三と知り合い、彼の仲介により、斗南藩が栽培中の大豆を担保に広東米を購入する先物取引を行ったのである。
 だが米座省三は、広東米の手形を担保に金を借り逃走。尚之助は莫大な借財を背負う事になる。
 そして斗南藩(旧会津藩)は、「藩とは関わりなし」と関与を否定したばかりか、あろう事か尚之助の事を、「我が藩士ではない」と、一切合切を尚之助に背負わせた上で、知らぬ存ぜぬを決め込んだのである。
 斗南藩の窮地を救おうとした仏心が、仇となった。
 どこかで聞いた話ではないか。そう、神保修理の場合と似てはいまいか。
 人とは、こんなにも学ばないものなのか、それとも神保修理の断罪は正しかったとこの時も思っていたのだろうか。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第四章 川崎尚之助 10 ~

2013年07月09日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 川崎尚之助は、会津藩軍事取調役兼大砲頭取並びに公用人・山本覚馬の招聘により、会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導し、後に覚馬の妹・八重を娶り、会津藩士となる洋学者である。
 尚之助と覚馬の出会いは、覚馬2度目の江戸遊学の際、大木仲益(後の坪井為春)の塾であり、この時尚之助は、既に蘭学や舎密学(化学)を学び、神田孝平、加藤弘之らと並ぶ屈指の洋学者として知られていた。
 天保7(1836)年11月生まれの尚之助は覚馬より、8歳程下となるので、若干17歳で学者としての名を馳せていたとしたら、まれに見る秀才であり、かなり早期から学問に勤しんだということだろう。
 因に、覚馬最初の江戸遊学は、23歳の頃で、この時は佐久間象山の塾に入り、武田斐三郎、勝海舟らとも知合っている。
 この縁をもって、但馬国において、出石藩の医師・川崎才兵衛の子として生を受けた尚之助は、江戸から会津へと居を移すのだった。
 江戸遊学を終えて会津に戻った覚馬は、安政3(1856)年、会津藩校・日新館に蘭学所を設立。その教授方として川崎尚之助を招聘する。安政4(1857)年、尚之助20歳の時である。
 以後尚之助は、録を辞し、山本家に寄宿しながら、蘭学所の講師を務めるも、会津藩士としての取り立てはならず、その為、禁門の変の折りに、尚之助を京に呼び寄せようとしたが、藩士でないため適わなかった事も重なり(会津藩で洋式銃が扱えるのは山本覚馬か川崎尚之助のみだった)、覚馬が一計を案じ、妹・八重を尚之助に娶らせるといった策を取ったようだ。
 斯くして元治2(1865)年、尚之助は八重を妻に迎えた後、会津藩士に登用されたというのが通説になっているが、実際には、藩士の婚姻には藩主の承諾が必要であり、この時、松平容保は京在中のため、公には認められていない。
 そして慶応4(1868)年8月。新政府軍が会津領内に侵入を始めると、尚之助は会津藩・敢死隊として出陣。戸ノ口原で隊長・小原信之助が戦死したため、敢死隊の隊長に就任する。
 だが、会津軍は戸ノ口原で新政府軍を止めることが出来ずに敗走し、籠城戦に突入。尚之助も敢死隊を率いて砲台を守備した。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第三章 神保(井上)雪子 9 ~

2013年07月08日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 いよいよ斬首が執行される前夜、大垣藩の陣営を訪れていた、土佐藩の吉松速之助から脇差を借り受け、雪子はその場で自刃して果てる(享年26歳)。
 この時吉松速之助は、捕らえられ凌辱の末に生晒しにされた雪子を目の当たりにし、落城は目前である。徒(いたずら)に婦女子を殺害することは無益であり寛容をもって臨むべきことの必要を説き、放免を唱えたものの受け入れられず、雪子の懇願を聞き届けると、大垣兵の反対を押し切って短刀を与え、その自刃を見届けたと伝えられる。
 この時大垣兵は、雪子の自刃に戦慄して正視する者がなかったという。
 久し振りに土佐藩の正当さを感じさせるエピソードだが、反して初めて登場した大垣藩とはなんぞよ。
 第11代藩主・戸田氏共は第2次長州征伐に幕府群として参戦。鳥羽伏見の戦いでも旧幕府軍として新政府軍と戦った佐幕派であった。
 だが家老・小原鉄心が藩論を勤王・恭順にまとめると、氏共を説得し、戊辰戦争では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めたのだ。
 会津藩からみれば、正に裏切りの骨頂であり、大垣藩からみれば遺恨も何もない、昨日の友である。自藩を守るために新政府軍に寝返ったのは止むなしとしても、人として、そんな会津の婦女子にこんな仕打ちが出来るものだろうか。
 同じ日本人として空しさしか覚えない戊辰戦争であるが、会津の不運は、長州・大垣らが中心となったところにもあったようだ。
 長岡など越後路は、薩摩が中心となって攻めているので、これほどの残忍な仕打ちは伝わっていない。〈次回は、義に殉じた会津藩士たち 第四章 川崎尚之助〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第三章 神保(井上)雪子 8 ~

2013年07月07日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 雪子は、会津藩軍事奉行添役・神保修理直登に嫁した、会津藩大組物頭・井上丘隅の二女である。
 夫の修理は、婚姻後間もない文久2(1862)年閏8月1日、藩主・松平容保の京都守護職を拝命に随行し、京に上ったため、その結婚生活は短いも、夫婦仲は良かったと伝えられている。
 そして、慶応4(1868)年2月22日、修理の切腹により、再び相見える事はなかったも、夫の遺志を受け、会津を戊辰の戦乱から救うべく恭順論を唱え続ける。
 会津戦争・白河口の戦いの最中にも、今からでも遅くはないと、家老・梶原平馬、原田種竜らに建言したが受け入れられる事はなかった。
 この時、実父・井上丘隅は、幼少寄合組中隊頭として、少年兵と呼ぶには幼過ぎる子どもたちを率いて滝沢口に布陣していたが、新政府軍の猛進撃に敗退し、甲賀町口郭門まで引き揚げ防戦に務めていたが、新政府軍の進撃は留まらず、甲賀町口の退路を遮断する形となった。
 退路を断たれた丘隅(享年55歳)は、甲賀町口郭門から百間(約180m)ほどの五ノ丁角の拝領屋敷へと戻り、妻・トメ(享年53歳)、長女・チカ(享年31歳)を刺した後に自刃する。丘隅、享年55歳。
 この時、雪子も座に控えていたが、丘隅は、「神保家に嫁しかたらには、神保家と命運を共にせよ」と婚家に戻すが、既に城下は銃弾の飛来激しく、一ノ丁の神保家へ戻る道も敵方の手に落ちていたのだ。
 止むなく西へと進路を改めた雪子は、そこで中野竹子ら後に娘子隊と呼ばれる婦女子の薙刀隊に出会い合流する。
 この娘子隊であるが、そもそも会津藩中においてそのような部隊はなく、後に名付けられたものである。
 彼女たちは、城門が閉まる前に入城ならなかった場合は、坂下の法界寺にて落ち合うと兼ねてから話し合っていたとされるので、雪子もそれを周知していたのかも知れない。
 だが、大垣藩兵に捕えられ捕虜となった雪子への処断は、斬首という極めて残忍なものであった。既に戦況は決しているにも関わらず、女子に対してもこういった断罪を下す新政府軍が、果たして官軍なのだろうか。
 そもそも、この戦自体が単なる遺恨に過ぎず、無益な殺生なのだ。丘隅の幼少寄合組に属していた少年を射止めた長州藩兵は、その夜の宴席に、その少年の生首を盆に乗せ、笑いながら盃を組み交わしたといった話も伝えられている。
 こうなると、織田信長の浅井久政・長政父子、朝倉義景の髑髏の盃どころではない残忍さではないか。
 戦場といった非日常が生み出した狂気なのか、そもそもの血脈の成せる技なのか。
 明治の世で、彼らが懺悔の思いを抱き、苦しんだ事を祈りたい。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第二章 神保修理 7 ~

2013年07月06日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 慶応4(1868)年2月22日、神保修理は死に臨み、並びいる者に対し、「余もとより罪なし、然れども君命を奉ずるは臣の分なり」。己に罪はないが、君命とあればこれを守るのが臣としての道であると言い、君命と偽った命であると知りながらも、従容として自刃する(享年35歳)。
 辞世の句は、
 「帰りこんときぞ母のまちしころ はかなきたより聞くへかりけり」。
 また、前日に勝安房守海舟に送った文は下記である。
 「一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃(たお)れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ」。(「旧会津藩先賢遺墨附伝」)
 修理の交友関係には、長州藩士の伊藤俊輔(博文)、土佐脱藩の坂本龍馬などもあり、龍馬は、長州藩士・三吉慎蔵に宛てた書簡で、修理の人物を高く評価している事から、修理健在であれば、長州藩の会津攻めも違ったものになっていたかも知れずと悔やまれてならない。
 この修理の件も含め、幕末は血気盛んな武闘派により、多くの尊い人材が処断されていった事が、後々の悲劇に繋がったと言えるだろう。
 そしてまた松平容保である。修理の自刃を知り涙したと伝えられるが、どうしてこの殿様は、それに先立ち、「慶喜公に無理矢理連れ去られた。修理の知るところではなく、責務は我が身にあり」とか言えないものか。
 後の会津戦争終焉においても、容保助命の代償として家老3名の首と言われ、どうして、己が腹を切れなかったものなのか。
 因に神保内蔵助(修理の実父)、田中土佐が既に自刃していたので、萱野権兵衛が切腹して果てる。話は反れるが、この萱野権兵衛が前責任を負ったのは、時に筆頭家老・西郷頼母は城を脱出しており、家老の席次が一番上だったとされているが、首席家老の席にいたのは、梶原平馬であり、彼こそが奥羽列藩同盟結成の中心人物でもあり、会津の抗戦派の代表であった。
 順番からいったら梶原平馬だと思うのだが…。
 一説には、抗戦の罪は全て自分にありと述べ、主君を命がけで庇ったとされるが、ではまたまたこの時、容保は、梶原は…。
 臣下には慕われていたようだが、何やらぼーっとしていた殿様だったような気がしてならない、松平容保。
 また、共に責任を負わされる立場になった小姓頭・浅羽忠之助は、閉門を仰せ付けられも、後に放免され、戊辰の役には軍事奉行添役として従軍。奥羽列藩同盟に於いては、藩命により使者の役目も果たしている。
 要するに修理の切腹は、くどいようだが、妬み絡みであった感が否めず。〈次回は、義に殉じた会津藩士たち 第三章 神保(井上)雪子〉



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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第二章 神保修理 6 ~

2013年07月05日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 鳥羽伏見の戦で、130名を超える藩士が討死し、多くの負傷者を出した会津藩士の怒りは収まる事がなく、前将軍・徳川慶喜を称して、「豚いち」と蔑んだのである。豚いちとは、慶が豚肉を好んだ事と、一ツ橋家の出身である事から豚と一(いち)。もはや、将軍の威光もあったものじゃない。
 部下を置き去りにして戦線離脱の総大将なれば、致し方ない。妥当な怒りと言えるだろう。
 だが、その矛先が直接慶喜に向けられる事はなく、あろう事か江戸に戻った会津藩では、総大将が戦線離脱をした要因は、神保修理が恭順を進言したことに始まるとの意見が上がり、ついには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人としての烙印を押されるのだ。
 とんだ言い掛かりとでも言おうか、直ぐに人のせいにする日本人の悪い癖。己の手の届く範疇の人間への責任転化である。
 加えて、倒幕派の志士との接触が多かった事も、官軍と通じていたのではないか、という疑念を生んだ。
 その急先鋒は、物頭・佐川官兵衛。武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛」、「鬼佐川」と恐れられた武闘派である。武骨な佐川と知将の修理では、相見えなかったのだろう。邪推ながら、修理への妬みもあったのではないだろうか。
 斯くして神保修理は、会津藩和田倉上屋敷に幽閉される。これは、修理が会津に戻れば、反目する藩士たちから危害を加えられるであろうと懸念した容保の策でもあったのだが、この事を知った勝安房守海舟が、慶喜の名で、公命をもって修理を呼び寄せ、身の保全を計ろうとした事が災いする。
 何がどうして藩士の火に油を注ぐ結果となったのか、理解に苦しむのだが、彼らは修理の身柄を公に渡す事を拒否し、容保に修理の処断を迫るのだった。
 そして、その身柄は三田の下屋敷へと檻送される一方、公に対しては修理は病いの為、病が癒えたら召命に応えさせると偽り、数日後、主命と偽って彼に切腹を命じたのである。
 容保に面会したいといった修理の希望が叶えられる事はなく、かつ主命と偽るなど、武士(もののふ)に非ざる行為である。
 この間、容保は何をしていたのだ。臣下に主命を偽られる程、落ちた殿様に成り下がったのか。また、そんな藩士を処断しないのか。
 私的見解であるが、勝手に御所に討ち入り帝を長州に連れて行くなどと画策し、新撰組にやっつけられたり、異国の船に大砲をぶっ放してその尻拭いは幕府に押し付けたりして、ひとり相撲で負けて、「会津憎し」などと、訳の分からぬ嫉妬に駆られる長州藩と、同じ事を修理に仕出かしたのだ。
 個人的にであるが、この時、山川大蔵は、何を思ったのかを知りたいものである。〈続く〉





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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第二章 神保修理 5 ~

2013年07月04日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 戦いは避けられず、迎えた慶応4(1868)年1月3日に勃発した、 6日戊辰戦争の緒戦・鳥羽・伏見の戦いであった。
 軍事奉行添役として、会津藩の軍権を持ち出陣した神保修理であるが、旧幕府側は兵力で圧倒しながらも、鳥取藩などの寝返りによって不利な状況に転じた挙句、倒幕軍側より錦の御旗が翻り、敗戦が明らかとなる。
 大阪城へ退いた修理は、朝敵となることを恐れ、前将軍・徳川慶喜(大政奉還したので、前将軍となる)と会津藩主・松平容保に恭順を進言するのだった。
 だが1月6日夜、慶喜は、容保、桑名藩主・松平定敬(前京都所司代・容保の実弟)と数人の供を従えたのみで、ひそかに大坂城を抜け出したのである。
 これは修理も周知していない事だった。容保脱出の知らせを受け、修理は同じく容保小姓頭の浅羽忠之助は桑名藩士と共に主君を追うも、彼らが天保山に着いた時にはすでに容保らは海上にあり、立ち寄るであろう紀州を目指し陸路を急ぐが、途中で進路を伊勢路に変更して伊勢に出る。だが、容保に出会う事は無かったのだ。
 2人は、容保が忘れた孝明天皇から賜った御宸翰を持ち、陸路江戸に向う。
 この時、慶喜・容保らが江戸までの帰還に使ったのは、天保山沖に停泊中の旧幕府軍艦・開陽丸であり、艦長は軍艦頭並・榎本武揚である。
 榎本が、鳥羽伏見の戦況を知る為に、大阪城に足を運んだ隙に、乗り込み、艦長を抜きに出航させたというから、驚きではないか。
 歴代将軍の中でも聡明と言われる慶喜であるが、何やら姑息で、責任逃れに走るきらいを感じざるを得ない。
 慶喜を将軍に擁立する為に、大奥に送り込まれた13代将軍・家定の正室・天璋院(篤姫)が、彼を嫌い家茂に寝返ったのが分かる気がする。
 容保としては、前将軍に服従といったところだろうが、この殿様も、心根は優しいのだろうが、どうにも先を読む能力に欠けていると言おうか、要するにボンボンなのだろう。
 映像では、苦悩するも忠誠心のある藩主として描かれるが、私的には、楽観的で物事を斜めに見る術を知らなかったような気がしてならない。
 それが育ちの良さでもあるのだろうが、越前福井藩主・松平春嶽が、どうして京都守護職を拝命しながら2度も辞退しているのか、その本音はなどとは、思いも及ばなかったのだろう。
 何事も無ければ、藩士を大切にした良い殿様で終わったのだろうが、時代の流れを乗り切るには世情に疎過ぎたのだ。
 優柔不断で発言がころころ変わる慶喜なのだから、「上様、江戸にお戻りになられるなら、全軍撤退の命を出してからになさいませ」とか、「一軍の将が夜陰に紛れて逃れるなど、士道に非ず、わたくしは残ります」。くらい言えなかったものだろうか。
 既に慶喜は将軍ではなく、いち大名なのだ。
 いずれにしても部下を置き去りにした慶喜、容保の前代未聞の行動のつけは、修理が一身に背負う事になるのだった。〈続く〉





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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第二章 神保修理 4 ~

2013年07月03日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 神保修理直登は、会津藩内の名門家のひとつである家老・神保内蔵助利孝の長子として生まれる。代々の家禄は千石だが、内蔵の功により二百石を加増されていた。
 修理自身も学問に秀で、藩校・日新館では秀才と謳われ、雅やかな雰囲気を漂わせていたと伝えられる。
 そして、安政の大獄、尊王攘夷運動など時代が大きく動き始めた幕末には、異国の情勢に目を向け、国内の小事より国をひとつにして外国に対すべし、という持論を強く持ち、藩主・松平容保も彼の将来を嘱望し、文久2(1862)年閏8月1日、京都守護職を拝命して後は随行し、側近として国事に奔走する。
 時を同じにして、軍事奉行・野村左兵衛直臣の仲介で、大組物頭・井上丘隅の次女・雪子を妻に迎える。この井上家も会津家中において、最高格の御式内御納戸紐を許される班席に列し、34家のみの六百石以上の禄高の名門家である。
 言わば、家中生え抜きの貴公子であった。
 そして、慶応2(1866)年、藩兵組織と教練方法を西洋化すべく、長崎視察を命じられ、その優れた国際感覚による改革・教練を受けて誕生したのが、後の白虎隊である。
 将来を嘱望され、会津藩の中枢となる筈であった修理であったが、幕末の情勢の不安定と、時代を見極めるには武骨過ぎた、会津藩に脈々と流れる主戦論により、修理の運命も一転する。
 慶応3(1867)10月、大政奉還により、長崎から大坂へ帰還した修理は、同年12月の王政復古により事態の収拾が不能となると、不戦恭順論を将軍・徳川慶喜に進言。江戸にて善後策を練ることを強く説いた。
 幕臣の勝安房守海舟もまた修理の意見に賛成であった。因に修理と海舟は友人関係にある。
 だがこれにより、会津藩の内部において主戦派急先鋒である物頭・佐川官兵衛直清らと激しく対立してく事になる。〈続く〉





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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第一章 柴司 3 ~

2013年07月02日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 ともあれ、明保野亭事件から2日後の元治元(1864)年6月12日、柴司は、土佐藩の検死役、加賀屋左近、親族の見守る中、兄・外三郎の介錯によりその生涯を閉じたのだ。享年21歳。
 享年は、死した年も加えるので、実際には20歳。また、昔の年齢は数え年であったので、現在の年齢で言えば19歳に当たる。
 柴司が、どのような人物だったのかを伝える資料は乏しい。また、戊辰戦争以前に亡くなっているので、その名を知っている人はかなりの会津通とも言えるだろう。
 そんな彼の人間像を探る上で、親交のあった新撰組がその切腹を知り、どんな行動を追ったのかから、計り知る事が出来る。
 先にも述べたが、局長・近藤勇と二番組組長・永倉新八は、柴司の行動を間違いではないと支持しており、元治元(1864)年6月12日の早朝に柴司が屯所を出た事を知った近藤、土方、永倉が、会津藩本陣の金戒光明寺まで、大急ぎで後を追い、京都町奉行所と松平容保に、新選組として柴の無実と助命嘆願したとも言われている。
 そして、柴司の葬儀には、副長・土方歳三、六番組組長・井上源三郎、五番組組長・武田観柳斎、勘定方・河合耆三郎、諸士調役・副長助勤・浅野藤太郎(薫)の5名が参列し、遺族と共に墓所まで見送った。
 柴司の長兄・幾馬の書状には、新撰組隊士たちは遺体を撫で、声を挙げて号泣したと記されている。特に、土方歳三が号泣したのは有名。
 また、武田観柳斎は、そのやり切れない思いを、こう読んでいる。
 「我も同じ 台やとわん 行く末は 同じ御国に 会うよしもがな」。
 明保野亭で柴司が用いた鎖帷子と槍は、永倉から借りていたもので、遺族に望まれ、永倉は遺品として贈っている。
 いかがであろう。藩を守る為に非なきも一命を捧げた柴司。未だ未だ人生これからという年齢であったにも関わらず、潔く散って逝ったのだ。その精神力や計り知れず。また、新撰組の態度からも、誠実で真っ正直な青年だった事が伺えよう。あの新撰組が隊を挙げて、柴司に非はなしと認め、かつ涙するくらいに、愛されていた人柄だったのだ。繰り返すが、あの新撰組が。あの土方がである。
 武家社会のしがらみの中で犠牲となったひとりである。土佐藩がもう少し寛大な態度を示していれば失われる事のない命でもあった。
 藩主・松平容保は、司の潔い最期に対して、柴家三男・外三郎に禄を与え、別家を興させている。
 こういった惜しい人材が、詰まらない事で次々に命を落としていくのはやり切れない思いだが、これだけで悲劇は終わらなかった。柴司の藩を守る為の犠牲的な死は、会津の悲劇への、未だ予兆に過ぎないのである。〈次回は、義に殉じた会津藩士たち 第二章 神保修理〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第一章 柴司 2 ~

2013年07月01日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 会津藩としては、土佐藩との友好関係にひびを入れない為には、麻田時太郎(時次郎)が切腹に至った原因でもある、柴司を見過ごす訳にはいかなくなったのである。
 だが、任務に従ったまでの柴司には、毛頭責任などない。誰もが承知の上である。
 土佐藩さえ、柔軟な考え方をしていれば…。「武士道」という大義名分の下、折角助かった藩士・麻田時太郎(時次郎)さえも切腹に追いやるその心理とは如何に。
 ただ暢気に酒を呑んでいただけで、いきなり刺された挙げ句に腹を切らされた、全くの被害者である麻田時太郎(時次郎)の無念の程も如何ばかりか、この麻田の切腹に「片手落ち」だと激怒した、若い土佐藩士たちが、兼ねてより快く思っていなかった「新撰組に襲撃をかける」と会津藩に申し入れているのだが、これもどのようなものだろう。
 麻田を切腹させたのは己が藩ではないか。また襲撃をかけるのをわざわざ、会津藩に知らせたなら、もはやそれは襲撃ではない。
 猪突猛進と言ってしまえばそれまでだが、どうにも考え方が偏っていると言おうか、根本的に冷静な判断が出来る人間が少ないのではないだろうか。
 時には目を瞑る事も大切である。一領具足弾圧や野中兼山一族への報復にも見える、執拗さはここでも健在であった。
 島国でありかつ山に囲まれた土地柄には、頭の固い人間が育つものなのか。歴史上のスーパーヒーロー・坂本龍馬のお陰で、土佐のイメージは良いものであるが、紐解いていけば、血塗られた藩であると言えよう。
 加えて、この幕末において、暗殺や斬り合いが多発する中、夜な夜な三条大橋西詰の制札を引き抜いたみたり、土佐藩士のおぽんちぶりは些か…。この一件は、「三条制札事件」として、新撰組によって厳粛される。
 話を柴司に戻そう。もはや、穏便にことを収めることが出来なくなってしまった会津藩では、土佐藩との友好関係を保には、同等の処断を余儀なくされたのである。
 藩主・松平容保は涙ながらに、柴司の組頭である加賀屋左近に、「柴に一命を捧げよとは我が口には出来ず」と、語ったと伝えられる。
 ここからは諸説あるが、一説には、容保始め重臣たちもが困り果てるのを知った、司の三兄・外三郎が、壬生村の新撰組屯所の司の元へ遣いを出し、司に切腹を促したとされる説。
 京在勤の柴家の親族らが、代役を立てようと相談したところ、司が自ら望んで切腹に至ったとする説。代役って、いったい…。
 後者が真実であれば、代役に立てられる者はたまったものじゃない。多分、中間や小者といった軽輩だろうが、これもまた悲運で哀れな会津藩のイメージを大きく払拭する話ではないか。当時在京中だった山川大蔵や山本覚馬辺りの見解が、どうであったか知りたいものである。〈続く〉




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義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第一章 柴司 1 ~

2013年06月30日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 「義に死すとも不義に生きず」。これは松平容保の言葉である。この言葉の下、会津魂を全うし人生半ばで散って逝った会津の武士(もののふ)たちを紹介していこう。

 トップバッターは、新撰組が一躍世間に名を知らしめた池田屋事件=元治元(1864)年6月5日から、わずか5日後の6月10日に起きた明保野亭事件により、運命を狂わされた会津藩士・柴司である。
 柴司次正は、柴友右衛門次直の四男として、弘化元(1844)年2月14日会津城下に産まれる(兄は、幾馬次俊、寛次郎次久、外三郎次元)。
 当時は、藩主・松平容保の京都守護職着任に伴い、京に駐留し、先の池田屋事件にて、隊士に欠員が生じた新撰組からの要請で、会津藩から新撰組へと派遣された藩士のひとりであった。
 6月10日、幕府から諸藩へ、池田屋事件の残党狩りが命じられると、東山の料亭・明保野(曙)に浪士数人が密会をしているという情報を得た新撰組は、副長助勤の武田観柳斎指揮の下、隊士15名(10名説あり)と、会津藩からの助っ人、柴司・田原四郎・石塚勇吉・常盤常次郎・両角太郎ら5名が現場へ急行する。
 因に会津藩が新撰組へ貸し出した藩士は、いずれも二男・三男、それ以降の男子であり、嫡男は一切派遣していない。
 柴は1階を受け持っていたが、2階から不貞浪士と思われる2名が逃げ下り、垣根を破って逃走しようとしたので、背後から槍で腰(股説あり)を突き、捕縛する。
 または、踏み込んだところ、酒を飲んでいた中の1人が突然逃げ出した。庭を捜索中に隠れていた2人の不貞浪士らしき男が2階から、飛び下りてきたとする諸説あるも、いずれにしろ、武田の指示により柴が背後から刺したらしい。
 刺された男が、「止めとおせ。あしは、土佐の麻田時太郎(時次郎説あり)やか」と叫んだことから、その場で解放した。
 だが、会津藩士が、当時は同盟中であった土佐藩士を傷付けたとなると、事は厄介である(土佐藩は勤王党や脱藩藩士による尊王攘夷が盛んに叫ばれるが、藩としては佐幕である)。
 明保野亭から新撰組屯所に戻った柴は、動揺を隠せず顔色もない。一部始終を耳にした、新撰組二番組組長・永倉新八は、「相手が逃げたのだから当然である。間違いではない」と。新撰組局長・近藤勇も、「お役目を果たしただけ。気に止むことはない」と柴を力づけたと伝えられている。
 実際に、先の池田屋事件の折りにも、誤認による殺傷も数あり、近くを歩いていた土佐藩士が斬り殺され、騒ぎに藩邸門まで姿を見せた長州藩士が腕を斬り落とされ、その傷が元で翌日切腹して果てている。余談ではあるが、この時まで長州藩邸の門戸は開かれていたので、早い時期に池田屋を逃げ出した者は、駆け込み一命を得ている。
 会津藩本陣(金戒光明寺)にて子細を聞いた松平容保は、公用人の手代木直右衛門・小室金吾左衛門、藩医・渋沢昌益を河原町の土佐藩邸に派遣する。
 これに対し土佐藩側も、名乗らなかった麻田にも落ち度があると柔軟な態度を示し一件落着かと思われたのだが、渋沢昌益の手当は拒否。そして、一夜明けた翌6月11日、「背後から刺されるとは、士道不覚悟」として、土佐藩は麻田に切腹命じ、即日執行されたのだ。麻田時太郎(享年35歳)。これにて、柴司の運命は一転する。〈続く〉




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葬られた一族 野中兼山の遺族 ~土佐藩の報復 6 ~

2013年06月29日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 繼業(希四郎)の死後も婉は手紙により、谷秦山から学ぶ事を止めなかった。
 そして寛文4(1664)年の幽閉から実に39年後の元禄26(1703)年に、唯一生き残った六男・行繼(貞四郎/41歳)が死去すると、その年の9月に、獄舎に生き残っていた三女・寛、四女・婉、五女・将の3姉妹は、漸く赦免されたのである。
 約40年。獄舎に押し込め、見張りを付けていた土佐藩もご苦労なこったとしか言いようもない。忘れてはいなかった訳だ。
 だが、約40年の間には、藩政に関わる人物も大分様変わりしていた筈である。釈放してやろうといった男はいなかったのか。
 第一、命を下した3代藩主・忠豊さえ寛文9(1669)年8月5日に死去、後を継いだ4代藩主・豊昌も元禄13(1700)年9月14日に死去。既に3代も変わった5代藩主・豊房の治世であったのだ。
 釈放後に婉が読んだ句である。
 「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり」
 家族を失った婉が、己を小枝に例え、つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。と辛い心境を現している。
 僅か4歳で幽閉され、全く世間と関わらなかった婉が、43歳の老齢(当時は)に入り、どのように暮らしていったのか。まるでタイム・スリップしたような感覚といった表現もあるが、婉の場合は、4歳で隔離されたのだ。全く見知らぬ世間とみた方が妥当だろう。
 だが、彼女は新たな人生を前向きに歩み出す。三女・寛と五女・将は、宿毛に永住する道を選ぶが、四女・婉だけは、高知城下へと戻ると、旧臣・井口家を頼り、土佐郡城西朝倉の多寳院に住まいを定め、谷秦山に師事しつつ漢方医として開業する。時に43歳であった。
 この時、80歳だった老母・池氏と乳母を伴っていたとの記述もあるが、獄舎での生き残りは姉妹3名とされる資料が多いので、池氏と乳母は幽閉されていたのか、または罪一等を許され何処かで逼塞(ひっそく)していたのかは不明であるも、池氏(兼山の妾)は 赦免の翌冬82歳にて病死したのは事実である。
 婉の診察は、糸を用いて橈骨動脈を診るという特色ある診断法は「おえんさんの糸脈」と称され、その診察によって調合した薬が、世間の評判になったと言われている。
 また、婉は庶民の診察に従事し、困窮者からは薬療も取らず、反面、藩の役人の診察は拒絶し続けるなど、一族を滅ぼした藩を許す事はなかった。それに関しては、こんな逸話も残されている。
 藩主より、格下の家臣の元へ嫁ぐように命じられるも、己は家老・野中兼山の娘であると固辞し、眉を落とさず歯を染めず生涯独身を通す。またある時は、駕篭にて往診の途中、藩主の若君の乗物に出会うも下駕篭せずにそのまま進んだ等である。
 藩主の権勢に生涯屈せず生き、宝永5(1708)年9月22日、一族の菩提を弔うためのお婉堂(野中神社)を香美郡野地村(現在の土佐山田町)に、参る者もなく荒廃していた潮江山の墓地に墓石を建立する。獄中にて、「 天 我に生を与ふれば、必ず赦を得べし。然れば 他所に移りて其時を期して祖廟を造らん 」との誓いを成就させたのだ。
 後に土佐藩から8人扶持を与えられ、享保10(1725)年12月30日、家老の娘から罪人へ、そして医師へと数奇な運命をたどった婉の生涯に幕が下りた。
 4年後の、享保14(1729)年、三女・寛の死を持って、野中兼山の血は絶える。これぞ、土佐藩が望んだ結末だろうが、実に70年の年月。土佐っぽの執念深さには恐れ入る。
 生きながら、下界と遮断された生涯を閉じた、また半生を送った人々。そして、兄たちの死と引き換えに与えられた自由。悔しかっただろう。無念だろう。それこそ、血の涙を流した事だろう。
 前の吉良左兵衛義周や江島に代表される幽閉においても、ここまで非情な事例は少ないだろう。そして、このような理不尽がまかり通ったのも、事実なのだ。
 さて、婉に光を与えた谷泰山は、宝永4(1707)年の政変で破れ蟄居。10余年に及ぶ幽閉生活の後、享保3(1718)年6月30日に55歳の生涯を閉じていた。土佐藩という怪物に翻弄された人生。婉と入れ違いに逼塞の身と成った恩師に、婉はどのような思いを抱いたのであろうか。〈次回は、義に殉じた会津藩士たち 第一章 柴司〉





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葬られた一族 野中兼山の遺族 ~土佐藩の報復 5 ~

2013年06月28日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 幽閉生活がどのようなものであったのか、吉良左兵衛義周のようなに子細な資料は見当たらないが、下の子たちは、長兄・彝継(清七一明)や二兄・明継(欽六)から、国学、漢学、本草学を学んだとされる。
 幽閉から3年後の寛文7(1667)年、二女・米(21歳)が、次いで延宝7(1679)年に長男・彝継(清七・一明/31歳)、天和3(1683)年に次男・明継(欽六/34歳)が悶死する。
 兄と姉を失った兄弟姉妹たちは、さぞや悲しく心細い思いだったであろう。
 だが、幽閉から23年後の貞享4(1687)年、獄舎に初めての客が現れ、残された兄弟姉妹たちは学問という新たな光を見出すのである。
 それは、海南学派再興に努めていた山崎闇斎門下の学者でもある谷秦山であった。谷は、敬慕する野中兼山の遺児たちを哀れむと同時に、五男・繼業(希四郎)に才を見出し、何とか学問だけでもと思ってのことである。
 しかし、獄吏の警固物々しく対面は許されなかったが、余りの痛々しさに慟哭・嗚咽したと言う。その場を空しく去ったものの、 秦山は諦めずに、繼業(希四郎)に手紙を送り、慰諭激励する。
 このことから繼業(希四郎)は遥かに書を寄せ、秦山に師事していくのだった。同時に26歳になっていた四女・婉もまた秦山に師事し、経学、儒学、詩歌、医学を学んでいくのである。
 学ぶ事が、生きる一筋に光となったのだ。
 だが、元禄11(1698)年に五男・繼業(希四郎/42歳)の命も尽きてしまう。
 余談になるが、土佐藩の郷士に産まれ、17歳で上洛。山崎闇斎、浅見絅斎、渋川春海に師事し、儒学、神道、天文暦学などに頭角を現し、土佐南学継承発展させた秀才である。
 後に藩の儒官として出仕するも、45歳の折りに、藩内の事件に連坐。蟄居を命ぜられ、死に至るまで許される事はなかった。
 己も野中兼山の遺族と同じ道を辿るとは思いもしなかっただろう。どうにも、土佐藩とはかなり執念深い。やはり中岡慎太郎のスマイルでもカバー出来ないくらいに執拗な気質を育てる風土だ。
 因に西南戦争の折りに、籠城の上、熊本城を死守した明治期の軍人・政治家である谷干城は、秦山の子孫になる。
 またまた話は反れるが、この谷干城こそ、新撰組局長・近藤勇の斬首を強引に押し進めて譲らなかった人物であり、その熊本城の援軍には、新撰組三番組組長・斎藤一も含まれていた。こういった不思議な巡り合わせが、歴史の面白さでもあるのだが、斎藤はこの事実を知っていたのだろか。それはまた後ほど触れよう。〈続く〉





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葬られた一族 野中兼山の遺族 ~土佐藩の報復 4 ~

2013年06月27日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 兼山の遺族22名は、土佐の西方にある幡多郡宿毛の北方(現在の宿毛小学校)の、竹矢来に囲まれた人里離れた山峡の一軒屋にて、山内左衛門預けにて幽閉される。 昼夜獄吏に見張られ、四外界と完全に接触を断たれ
厳重な監視下での監禁は、一軒家ながらも、牢番により室の鍵がかけられた獄舎に近いものであり、厳重な座敷牢一室に22名が閉じ込められたといった方が相応しい。
 思うに陽の光も、満足には届かなかったのではないだろうか。外の景色どころか空気に触れることもできない40年。気が遠くなる。
 元は山内一豊にも通じる家計(兼山の祖父・良平の妻は一豊の妹・合)であり、土佐藩家老家の息男・息女として何不自由無く育った者たちには、到底耐え難い苦痛でもあり、頑是無い子どもにとっては、何が何やらさっぱり理解出来ないといった有様だったのではないだろうか。
 言わば、生きながらにして葬られたのだ。
 ただ、思うに監禁直後から数年くらいは、何時の日にか罪が許される、ただそれだけを願い暮らしていたのだろう。その一筋の光が絶たれたと知った時の絶望感を想像すると、目頭が熱くなる。
 さらに何より驚かされた記述が、「親族筋があり偉人・兼山の子孫だというので兼山の妻へ四百石の扶持をつけたので衣食に事は欠かなかった」。おいおい、勝手に監禁しておいて、生活費は己持ちとは、これ如何に。
 こういった残忍な刑を容赦なく行う土地柄において、後世、あんなテンションの高い男が産まれるのだろうか(龍馬のことだけど)。郷士としての身分に恨みつらみや妬みなどなかったのだろうか。ふと、そんな思いも抱いてしまうのだが、現存する中岡慎太郎の笑顔の写真に免じて、この野中兼山事件だけが異例としておこう。
 だが、この執念深い気質は、幕末に勤王党の弾圧時に再現されるのだ。〈続く〉





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