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大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

葬られた一族 野中兼山の遺族 ~土佐藩の報復 3 ~

2013年06月26日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 土佐藩は、兼山の死後3カ月の寛文4(1664)年3月2日、武力を行使して野中家を取り潰す。
 その罪状は、謀反の企てがあったと流言して人心を動揺させたとあるが、野中家の改易の理由として、3代藩主・忠豊の書状には下記のように記されている。 
 一、私欲依怙(えこ)による政治。 
 一、忠義・忠豊の離間を策したこと。 
 一、御蔵銀の恣(ほしいまま)な消費。 
 一、改替に反対して流言を放った事。 
 一、金銀を貪(むさぼ)り他国迄商売をやらせたこと。 
 一、諸法度を厳しく実施しながら自分はこれを守らなかった。
 ほかに、郷士に勝手に知行を与えたこと、江戸上り下りの船などで分を越した奢りがあったと付け加えている。
 兼山の長男・彝継(清七・一明)は、山内(安東 )左衛門佐の邸にて、姻戚関係にある、深尾帯刀、山内彦作 、山内左衛門佐の3名から野中家改易後の処置を申し渡されたのである。
 正に死人に口なし。兼山存命中ではなく、死してからという辺りが片腹痛いである。こうなると冤罪としか考えようもない。
 そして、兼山の妾 4名、兼山の子8名、譜代の家来を加えた22名は、船二艘に分乗して宿毛に遷される。正室に関しての記述が見付からないのだが、出家し法名栄順院と名乗り元禄12(1690)年まえ生きているので、もしかしたら彼女は実家のとりなしかなにかで罪を逃れたのかも知れない。
 幽閉された兼山の子の名とその当時の年齢は下記の通り(長女、三男、四男は夭逝したと思われる)。
 二女 米 高木四郎左衛門室 18歳
 長男 彝継(清七・一明) 16歳
 二男 明継(欽六) 15歳
 五男 繼業(希四郎) 8歳 
 三女 寛 7歳 
 四女 婉 4歳
 五女 将 3歳
 六男 行繼(貞四郎) 2歳
 米は高木四郎左衛門に嫁し、一女を設けていたものの、離婚させられ宿毛に送られている。
 例え兼山に関しては、冤罪だったとしても、当時の武家社会ではこのような苦杯を舐めた人も少なくはない。例えば、江島生島事件において、当人の江島は罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けだったにも関わらず、江島の兄・白井平右衛門(旗本)は、切腹ではなく斬首、弟・豊島常慶は重追放といった重い措置であった。当人の罪一等を減じておきながら、縁者というだけで命を奪われたのではたまったものではない。こういった理不尽に命を失った者も少なくはない。
 ただ、野中家に関しては、嫡男が清七一明を名乗っていたくらいなので、元服前である。改易して放逐もしくは、僧籍に入れれば済む事ではないか。しかも嫁した娘までといった仕打ちは、もはや常軌を逸しているとしか思えない。
 思うに16歳であった長男・彝継(清七・一明)、15歳の二男・明継(欽六)が、時の土佐藩重臣たちをも脅かすくらいに、かなり優秀だったのだろう。こういった恐怖に苛まれた時こそ人は、保身の為に非情にもなれるのだ。
 この仕打ちを仕掛けた孕石元政、生駒木工等、深尾出羽の人間性を疑うと共に、幾ら隠居したとはいえ藩主の父である土佐藩2代藩主・山内忠義は、手をこまねいていただけであったのか。忠義は、寛文4年11月24日に死去しているので、兼山の遺族に対しての沙汰が下りた際には存命である。
 彼らにも親もあれば子もあった筈。良心の呵責に苛まれることはなかったのだろうか。
 そして連座させられた譜代の家臣たちも、降って沸いたような災難を、如何に受け止めたのかと思うと、これまた気の毒、いや理不尽でならない。〈続く〉




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葬られた一族 野中兼山の遺族 ~土佐藩の報復 2 ~

2013年06月25日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 野中兼山良継は、元和元(1615)年播州姫路に産まれる。祖母は山内一豊の妹・合で、父・良明は土佐藩家老職にあり、5千石を領していたが、藩主・一豊は生前、良明に対し、2万9千石を与えると約束していたものの、その死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山は、父の死後、母と共に土佐に戻る。
 父の従兄弟で、土佐藩奉行職の野中直継の娘・市の入婿となり、その家督を継いだ兼山は、土佐藩2代藩主・山内忠義の命により、藩政改革に着手する。時に兼山、21歳であった。
 兼山がまず手掛けたのは、堤防の建設、そして平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行うなど藩の財源に充てる事だった。
 同時に、築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売、植物、魚類などを輸入し藩内での育成など輸出入にも力を入れる。
 一方、身分にとらわれず郷士などを有能な人材の登用や、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。
 これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになったのだ。
 だが、ここまでで感じたのは、あの身分に人一倍厳しかった土佐藩、しかも一領具足との抗争の記憶が未だ新しい時期である。兼山自体は実に発展的な考えの持ち主であろうとも、頭の固い重臣たちにはどのように写ったのであろうか。やはり郷士の取り立てなどは、上士の反発を深めていくのに十分な材料でもあったのだ。
 加えて、過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出てきた。
 その結果、兼山を重用した忠義が隠居し、忠豊が3代藩主の座に着くと、孕石元政、生駒木工等が家老・深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。兼山は失脚し、宿毛に幽閉され、その年の寛文3(1663)年12月20日に死去。48年の生涯であった。
 兼山の死後、民衆は密かに小祠を建てて神と崇め、江戸幕府の許可を得て「春野明神」と公称する。この春野明神」は、明治初年の神仏分離によって「春野神社」となり現在も続いている。
 兼山の功績は、山田堰、柏島港、手結港等の優れた技術や、積立金による丁重な葬儀を行う「念仏講」組織も等、随所に見られるのだ。
 だが、やはり土佐という独特の気質が禍(わざわい)したのか、死して尚、執拗な兼山への攻めが家族の運命を狂わせる事になる。〈続く〉




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葬られた一族 野中兼山の遺族 ~土佐藩の報復 1 ~

2013年06月24日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 土佐藩と聞いて、最初に思い浮かぶのが坂本龍馬だろう。あの能天気で底なしに明るい土佐のいごっそう。まあ、実際に龍馬があのような人物であったか否かは不明だが、今ではすっかり定着したキャラは、最初に彼を演じた役者の演技が定着したのではあるまいか。
 これは余談であるが、土佐藩は上士(藩士)と郷士の身分差別が各藩でも指折りの厳しさだったのもご存じだろうか。上士とは、関ヶ原の合戦以降土佐を治めた山内家の臣下。郷士とは、それ以前の長宗我家の家臣である。
 そして土佐藩における非業な2つの出来事をここに前置きしておきたい。まずは山内一豊における、浦戸城の引渡しを拒否しを拒否した旧長宗我部家臣下の一領具足(半農半兵の武装農民)との抗争である。
 浦戸城に篭城して抵抗した一領具足273名を斬首し、その首は浦戸の辻に晒された後、大阪の井伊直政のもとへ送られた。
 もうひとつは、幕末の土佐勤王党への弾圧である。岡田以蔵に対する拷問(正し、女も耐えた拷問に泣き喚いたとの武智瑞山(半平太)の記述もある)や徹底した勤王党への弾圧。
 山内家としては土佐を平定しなくてはならなかった。勤王党には大目付・吉田東洋暗殺容疑や、藩主・山内容堂との政治的対立もあったので、全面的に否定は出来ないが、それでも「やり過ぎだろう」感は否めない。
 反抗する者は、根絶やし。それが土佐気質なのだろうか。
 と、この事を踏まえた上で、野中家を巻き込んだ藩の政治を語りたいと思う。
 野中婉は、江戸時代初期の土佐藩家老・野中兼山良継の六男五女の四女産まれる。土佐藩と言えば20万2千石(実高は倍以上)。その家老ともなれば、裕福に育った事は明らかである。
 だが、運命は一転。父・兼山の死の翌年である寛文4(1664)年、遺族は幡多郡宿毛に幽閉される。それは、男系が死に絶えるまで約40年に渡ったのである。
 後世を医者として送った四女・婉も4歳で幽閉を余儀なくされ、43歳でそれを解かれたのであるが、婉の半生を語る前に、父親・野中兼山の罪とは何かから、話を進めよう。〈続く〉




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嫁ぎ先は死への道行き 駒姫(最上伊万) ~秀吉の陰謀 4 ~

2013年06月23日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 申の刻(午後4時)まで続いた処刑、いやもはや殺戮に鴨川の水も赤く血の色に染まる程であった。
 そして亡骸はみなひとつの穴に投げ込まれ、築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が乗せられたのだ。
 「太閤記」によれば、その夜、京には10日振りの雨が降ったとされている。さらに、目撃した人々により、辻々に「本日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれた貼り紙がなされていった。
 そして義光は、秀次と親しかった事から、閉門蟄居中であり、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ続けていたとされる。駒姫の最期の様子が報らされると、「過去の業にこそ」と発したという。
 そして8月16日、駒姫の実母である大崎夫人が急逝。この日が駒姫のふたなのかに当たる事から、自刃ではないかとも言われている。
 5年後の関ヶ原の戦いにおいて、義光が徳川方に付いたのも自然な流れである。
 しかし、この秀次事件に連座して命を失った者の数は余りにも多く、秀吉をここまで駆り立てたのものとは…。武門の習いにない、女までをも殺戮する仕打ちとは…。
 この叔父・甥が、血の濃さから女狂い、そして権力欲にいずれも引く事を知らなかったがためであったなら、余りにも悲惨過ぎるではないか。
 結局、貧しい者は金銭のみでなく、心も貧しく病んでいる。だから、私は氏素性の卑しい者は好きになれないのだ。秀吉に関しては歴史上の人物で一、二を争うくらいに嫌い。
 秀吉は、そうとう頭が切れたのだろう。ただ、現代において、秀吉のような人物が同僚にいたら、絶対にはめられる。秀吉が現代に生きていたら、レントゲンも撮れないくらいにお腹の中、真っ黒だったのだろうな。
 秀吉の立身出世物語には描かれる事の少ない、こういった陰の部分にこそ、秀吉の本質があるように思えてならないのだ(石川五右衛門の処刑しかり)。
 もし秀吉を擁護するとしたなら、彼は飽くまでもセカンド的なポジションで、補佐に従事する立場の人物だったのではないか。なまじナンバーワンになってしまったが故の汚点だったと言えよう。
 伝えられるように、母親・大政所(仲)や妻・北政所(おね)、弟・秀長に対する深い情愛も秀吉の一面であれば、逆に父親違いの兄弟や義父等にみせる非情さも側面である。
 この秀次の妻妾処刑の一件を、秀次の母親・日秀尼(とも)まもちろん、大政所、北政所がどう思い、当日までをどのように迎えたのか…資料に乏しいが、捜してみたいと思う。〈次回は、執拗な仕打ちに人生をもぎ取られた野中兼山一族〉




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嫁ぎ先は死への道行き 駒姫(最上伊万) ~秀吉の陰謀 3 ~

2013年06月22日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 斬首の沙汰を受けた秀次の妻妾たちは、前日の8月1日、形見の品を整え、親しい人たちに文を書き、沐浴をして身を潔め死出の旅路への支度を整えたのだった。
 翌2日、彼女たちは、死装束の白衣身に纏い、7台の牛車に乗せられ、一条より三条河原まで市中を引き回される。
 その様を目撃した岡崎上宮寺住職・円光院尊祐の記録によれば、1台目には女性3人とその子ども3人(1~3歳の幼児)。
 駒姫は2台目に、正室・菊亭右大臣晴季の娘・一の台ら3名と共に乗せられた。
 秀次に遣えた儒学者であり医師の小瀬甫庵による「太閤記」には、間もなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母に甘えかかる幼い子どもの姿が、沿道の人々の涙を誘ったとある。
 しかしまあ、秀次の妻妾28名(子ども6名)とは、やはり秀吉の血筋としか言いようがない。
 その処刑は残忍なもので、刑場には予め秀次の首を据えた塚が築かれていおり、その前でまずは子どもから始まった。
 我が子を胸に抱く母親からは、奪い取り胸元を二刀刺して投げ捨て、また、犬の子でもぶらさげるように刺し殺していく(「太閤記」)。
 子どもの処刑が終わると、正室・一の台から首を落とされ、11番目に駒姫の番が巡ってくる。
 そして、静かに所定の場に座した駒姫は、西方阿弥陀浄土に向かって手を併せ、斬首執行の男が後方に立っても乱れる事なく、首を落とし易く心持ち頸を前にさし延べたのだった。僅か15年の短い生涯であった。
 まるで殺される為に京に上ったようなものではないか。
 辞世の句は、「罪なき身も世の曇りにさへられて ともに冥土に趣かば  五常の罪も滅びなんと思ひて 伊満(いま)十五歳 罪を切る弥陀の剣にかかる身の なにか五つのさわりあるべき」。(京都三条・瑞泉寺所蔵)
 罪なき私の身に成仏できない五つの障りなど有る筈もない。必ずや極楽浄土に逝かれる筈だと読んでいる。
 15歳の少女が、己の運命を恨みもせずに、静かに極楽浄土に思いを馳せる。悲しくも哀れな内容である。
 現代であれば冤罪(元々罪などないのだが)も良いところ。罪なく、訳なく、意味もなく、あたら若い命を散らすことに、このような毅然とした姿勢で挑める者はいるのだろうか。斬首が決まってから、彼女は何を思い浮かべ、何を考えたのか。
 雪深い陸奥から上洛した15歳の目に、京はどのように写ったのだろうか。京でひとつでも楽しい思い出があった事を祈るだけである。
 だが、秀吉の陰惨な仕打ちはこれだけで済まなかった。〈続く〉




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嫁ぎ先は死への道行き 駒姫(最上伊万) ~秀吉の陰謀 2 ~

2013年06月21日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 この知らせを受けた父・最上義光は、駒姫の助命嘆願に奔走し、各方面からも処刑せぬようにと声が挙がり、ついに秀吉が「鎌倉で尼にするように」折れたのが、処刑の当日の文禄4(1595)年8月2日とされる。
 ここからがドラマチックで、早馬を処刑場に駒姫の助命の使者を遣わすも、僅か一町の差で間に合わなかった。
 もしこれが事実であるとすれば、ここは秀吉の計算ではないだろうか。端から助命する気などなかったものの、父は最上義光、いとこに伊達政宗といった陸奥の覇者たち。さらに徳川家康も助命に一役買ったとなれば、恐らくは見過ごす事が出来ずに、助命を認めるポーズを取ったのではないかと考える。あの計算高い秀吉なら、如何にもやりそうではないか。
 真実はどうであれ、駒姫は、8月2日に首を落とされたのは事実。
 だが、駒姫は聚楽第に入ってもいなかったにも関わらず、ここまで執拗に助命を認めない秀吉の真意を知りたいものである。
 贅を尽くし後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応するなど、豊臣政権の栄華の象徴とも言えた聚楽第(秀吉の政庁兼邸宅として天正15(1587)年9月に完成。4年後の天正19(1591)年12月には、家督及び関白職を譲った秀次(姉・日秀=ともの子)に譲ったものの、1595(文禄4)年7月に秀次を高野山に追放して切腹させた後、翌1596(文禄5)年8月以降)を、惜しげもなく破却。
 それ以上に、甥である秀次を切腹まで追い込むなど、尋常ならざるものを感じる。秀次は高野山に蟄居後出家をしているにも関わらず、更には釈明の機会も与えてはいない。
 果たして、実子・秀頼に家督を譲らせたかっただけであろうか。また、秀次の謀反の企みが事実であったのだろうか。邪推ではあるが、女好きの秀吉の老人性の嫉妬が加味されたのではないかと思えなくもない。
 秀次の側室の数も尋常ではないが、時の関白の妻妾であれば、それは美しい女性(にょしょう)であっただろう。しかもそのほとんどの出時が明らかである事から、高貴な女性たちであった。
 これはもう、秀吉の好みと一致している。若い秀次が、次々に己好みの女性たちを招き寄せる秀吉の嫉妬も加味されたと考えるのは、余りにも秀吉嫌いな私論であろうか。
 秀次切腹の後、父・三好吉房も連座して讃岐国に流され、同年中に弟・秀保(秀吉の弟・秀長の養子)までもが不可解な死を遂げており、これにて秀次に関わる血は、秀吉の実姉・日秀以外に根絶やしにされたのだ。
 後に豊臣家が徳川家康に滅ぼされて後、豊臣直径の血が絶えるが、この事実を秀吉は草葉の陰でどう思っていたものか(秀長の娘2名の子孫は残る)。〈続く〉




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嫁ぎ先は死への道行き 駒姫(最上伊万) ~秀吉の陰謀 1 ~

2013年06月20日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 駒姫という名をご存じだろうか。三条河原にて処刑された、豊臣秀次の側室のひとりである。だが、彼女が側室として処刑されるに至存在であったのだろうか。
 おちゃらけた愛すべきキャラとして扱われる秀吉が、老齢に入り、老人性の我が侭や奇妙な言動の陰で、失わなくても良い未来を絶たれた、悲劇のヒロインである。
 駒姫の本名は、伊万。駒姫の由来は、郷里の御駒山からである。彼女は、出羽山形藩初代藩主・最上出羽守義光の二女として、天正7(1581)年(生を受ける。陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗はいとこにあたる。
 幼い頃から、類いまれな美しさで知られ、その噂を耳にした、時の関白・豊臣秀次が、側室に差し出すよう義光に迫ったのだ。
 秀次からの度重なる要求を断り続けた義光であったが、進退極まり無くなり、「15歳になったら、京へと嫁がせる」。と、約束する。
 一説には、九戸政実討伐の帰途、山形城に立ち寄った秀次が、駒姫にを見初めたとも言われているが、その折りには駒姫はわずか10歳である。真意の程は謎である。
 そして、文禄4(1595)年。15歳の駒姫は、陸奥からの長旅の末、京の最上屋敷に到着するのだが、到着から僅か数日の後の7月15日、謀反の疑いを掛けられ、高野山に入っていた秀次は、側近と共に切腹して果てるのだった。
 この秀次謀反の事件も、真相は定かではなく、秀吉が実子・秀頼に家督を継がせたいばかりにでっち上げた謀反とみる旨もあるが、ここでは駒姫を追っていくので、秀次の件はまたの機会にしたい。
 だが、秀次は7月8日に高野山に入っており、駒姫の京到着は、12、13日と考えられるので、側室どころか秀次と顔を合わせる機会もなかったのである。
 秀次の切腹を知り、聚楽第殿(聚楽亭殿)に住まわっていた妻妾の中には、直ぐさま髪を下ろし尼になった者もいた。だが、秀吉の怒りは留まる事なく、彼女たち妻妾と秀次の子ら30数与名全てを許さなかったのである。〈続く〉



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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 12 ~

2013年06月19日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
4月16日
 (左兵衛は)今朝五つ半(午前8時)頃、南ノ丸の居宅へお移りになった。
4月19日
 孫兵衛が、「左兵衛様が母方に手紙を書きたいと仰せである。先の上杉弾正様(景勝)がお預かり人をお受けしていた際には、書通は可能であった」と言うが、前々の通り殿様(諏訪忠虎)が内見の上お届けしているとの由。
 家来の両人が買い物を頼むのは構わない。
5月3日
 左兵衛様から老母様(梅嶺院・上野介正室)へのお便りと、孫兵衛・新八から妻子への文が許可される。
5月9日
 左兵衛様、6日より持病の疝気が起こり諏訪藩医・延川雲山に診察では、容体は軽いようであるが、持病なので長引くかもしれず油断なきようにとの事。
5月15日
 左兵衛様は快方に向かい、食事も摂れるようになり、最早平常である。
5月19日
 左兵衛様へ梅嶺院様より書状が届き、内見の後、治右衛門、利兵衛に渡す。
6月27日
 左兵衛様は少し風邪気味のご様子なので、延川雲山が薬を差し上げた。
6月29日
 左兵衛様の風邪完治。
 
 以降は、「左兵衛様お健やか」の記述が時折見られる程度に留まるも、元より病弱であったとされる左兵衛の様子に、「左兵衛様お健やか」の文字が時折見られるという事は、病床に着いていた時の方が多くなっていたのだろう。
 5月19日に謹慎を解かれた後、8月11日上杉綱憲は嫡男・吉憲に家督を譲り隠居。そして、宝永元(1704)年6月2日、死去(享年42)。
 同年8月2日、梅嶺院が上杉家下屋敷で死去する(享年62)。
 そして身内の死が重なった精神的圧迫も加わり、左兵衛は、幽閉から3年ほど経た、宝永2(1705)年10月頃から流謫中病気(疝気)、風邪など 度々患っていたが、発熱や悪寒といった症状に寝たきりとなる。
 「諏訪家御用状留帳」の記述を引用したい。
12月1日
 悪寒・発熱、病臥のまま正月を過ごされる。
宝永3(1706)年1月19日
 暮れから頃から小便が出なくなり、呼吸困難に陥り、明けて1月20日卯の上刻(午前六時頃)に絶命。

 翌宝永3(1706)年1月20日に20歳の生涯を終える(享年21)。
 その遺骸は塩漬けにされ、防腐処理が施された後、同年2月4日、江戸から派遣された幕府御書院番士・石谷七之助清職の検死を受けた後、地元の神宮寺村法華寺に葬られた。
 江戸から諏訪まで14日もかかっているのにも、何か嫌なものを感じるが、ここでは追求を止めておこう。
 遺臣となった左右田孫兵衛・山吉新八の両名は、左兵衛の石塔を自然石で建立して欲しいと代金3両を法華寺に納め、諏訪を後にしている。
 到底、旗本の当主とは思えない小さな苔むした墓碑だが、後世になり、吉良左兵衛義周の手向けられた石碑が隣に建つ。
「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった」。
 これでも、赤穂浪士は正しかったと言えるだろうか。大石内蔵助が、「主君の遺恨」などと大義名分を謳いながらも、仕官を目的に、吉良家を生け贄にしたのであったら、史上これ以上の生け贄はないと言えるのではないだろうか。
 因に両名は江戸の上杉屋敷を訪れた後、山吉新八は上杉家に戻るも、左右田孫兵衛は、何処からの仕官も断り、三河国吉良へ戻り余生を過ごした。
 今も昔も、変わらぬ人気を誇る赤穂浪士の討ち入り。私は、この史実を、忠義の義士・美談ではなく、日本史上最大の「言い掛かり」と位置付けしたい。我々日本人が、真に判官贔屓というなら、左兵衛こそ悲運の貴公子なのではないか。〈次回は運命の悪戯に翻弄された駒姫〉



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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 11 ~

2013年06月18日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 左兵衛が、実際に諏訪高島藩到着して後は、彼の様子が子細に記録されていくので、幽閉の左兵衛の処遇を知る事ができる、貴重な資料である。

2月17日 
 左兵衛様は、お着きの後から、夕食、夜食などよく召し上がっていた。
 (左兵衛は)持参した反物を染めたいと言うが、お好み通りに染め付けることは難しいと答える。
 南ノ丸の普請人足は、郡人足で申し付けることになった。
 左兵衛様の鼻紙袋(懐中小袋)から出たものは、(千野)兵庫が封印して箱に入れ、(諏訪)図書が受け取り、長持ちへ入れる。
2月18日 
 左兵衛様はお健やかで、食事も召し上がり、家来両人も変わりなし。
2月19日
 左兵衛様はお健やかで、朝夕夜食とも召し上がった。
2月21日
  山中三郎右衛門へ以下のことを問い合わせる。
 月代を剃ることは禁じられているが、髪を切りたいと仰せなので鋏を差し上げたいがいかがか。
 精進のお焼香をしたい気持ちがあるのだろうが、遠慮しているので、当方より申し上げて良いか。
 左兵衛様は絵を描くことがお好きのようで、絵のお話が毎回出るが、今は気が紛れることもないので、紙を差し上げましょうかと申してみて良いか。
 書物をご覧になるならば、差し上げますと申してみて良いか。
二月晦日
 志賀利兵衛と渡辺治右衛門が、南ノ丸の御用勤めとなる。
 左兵衛様の衣服は着替えもなく、昼夜着用しており垢もついているので洗濯をし、夜着にしてはどうか。もうすぐ袷の季節になるのでその節に新しい着物を差し上げたい。
3月11日
 左兵衛様の居宅の中に、踏み石は無論、小石に至るまで置かないようにとの申し渡しがあった。
 衣服の件は許可が出た。
 左右田と山吉が、左兵衛様の月代が長くなったが、剃るのが適わないなら鋏を使いたいと言ってきたが、まかり成らずということになった。
 寝る時は昼間の帯を締めているようだが、だんだん暖かくなってきたことだし、普段三重に締めているのを、綿入れ帯を一重にしてお休みになってもらってはどうかと尋ねていただきたい。
 いつも菓子として氷餅ばかり差し上げているが、ほかの菓子を出してはどうだろうか。可能ならば、諏訪には相応の菓子がないので、江戸より届けてもらいたい。
 番所の刀の置き場所について、刀懸けは不用心であるので、御歩行番所の中に押入棚もあるし一坪ほどの物置もあるので刀置き場にしたいので尋ねてみてほしい。
3月21日
 左兵衛様居宅(二ノ丸)に出来てきたが、公儀へ伺ってから移るか、それとも出来次第移ってから報告するか。
 新宅へ移るため乗物(駕籠)に乗る際には、錠をかけるか。また、家来衆は歩きで移動するのか、駕籠に乗せるか。
3月26日
 寝間着の帯の件適ったので、お届けしたところ左兵衛様も喜んで使っているご様子。
 菓子の件は役所に問い合わせ中。刀置きは見繕うように。月代を剃ることは無用である。髭は鋏で切るようにとの申し付け。
3月28日
 左兵衛様の傷が治り、薬の必要がなくなる。
 左兵衛様と孫兵衛、新八に下された袷の着物を杢左衛門に届けてもらった。
3月晦日
 左兵衛様はお届けした着物に満足し、江戸へもよろしく伝えてくれるよう申されておられた。
4月4日
 左兵衛様居宅が完成した後、何日に移るか申し上げるように。移る折りには(乗物に)錠をし、家来は歩行にて、人を付けるようにとの申し付けあり。

 ここまでが諏訪到着から二ノ丸に移るまでの記録である。こうしてみると、諏訪高島藩の手厚さが計り知れる。が、反面、こんな事までお伺いを立てるのか。もっと柔軟性を持てとも思えなくもないのだが、江島の件を取っても、化粧、茶の回数までも幕府へ伺いを立てているので、致し方ないと言えばそれまでなのだ。
 だが、2月4日に配流が決まり、諏訪領内が準備であたふたし、手が回らないうちに、江戸藩邸が予め幕府へ尋ねておけば良いものをと思えなくもない。
 そして、後々語られる衣服の洗濯が適わず、垢染みた件、月代や髭をあたれない件も、小石すら取り除く徹底振りなのだから、剃刀の使用を認めないのは分かるが、洗濯も着替えもさせない理由を知りたいものである(諏訪高島藩からの書状で許可される)。
 これも幕閣や評定所の浅野贔屓の役人たちによる、嫌がらせと受け止めるのは早計だろうか。〈続く〉





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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 10 ~

2013年06月17日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 左兵衛配流の知らせを受けてからの諏訪高島藩の対応は、同藩の「元禄十六年御用状留帳」に、知る事ができる。これは諏訪から江戸藩邸宅に向けた手紙と、一部日記で構成された記録であり、元禄16(1703)年2月4日の評定が国元に知らされたと思われる同月7日から始まっている。

2月7日
 「4日、昼九つ前(正午)に、預け人があるとの老中連名の文が届き、夕七つ時(午後4時)に評定所へ沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平助が向かったところ、吉良左兵衛様をお預けするので受け取るようにと仙石伯耆守、丹羽遠江守、長田喜右衛門からの申し渡しがあり、暮れ前にお屋敷へ恙なくお連れした」。との文を(江戸表)拝見し、栗田三右衛門、高山理右衛門、三輪喜右衛門、岩波六郎右衛門を早々に(江戸に)差し向けるように連絡あり。明朝発つ予定。
2月9日
 秋元但馬守より、当方の受け入れが出来次第、左兵衛様を遣すようにと申し渡される。
 (幕府の指示では左兵衛を)南ノ丸に住まわすようにとあるも、作事が成るまでは、志賀利兵衛の屋敷にお囲いすることとし、利兵衛に屋敷を空けるように申し渡す。
 左兵衛様の家来2名が駕篭で参ることとなった。
 道中、蘭方医・金沢良玄を遣わすこととする。
 江戸よりの飛脚が届いた日(2月7日)から、毎日2名の足軽が(諏訪まで)来る。江戸藩邸も右往左往しているとの事である。 
 一行の道中は、上州通り(中山道)になるかもしれず、上州と郡内(甲州)へ飛脚を遣わした。
 左兵衛様が到着した後の番人については、近々、お沙汰がある。また、到着した時、熨斗蚫(のしあわび)をお出しし、一汁五菜の料理を用意する件は承知。
 南ノ丸の住宅の図面と地割りの図を1枚遣わす。
 左兵衛様は明日10日か11日にも江戸を発つらしい。
2月10日
 志賀利兵衛家が昨日の昼屋敷を空け、小沢弥次右衛門がそれを受け取り、大熊善兵衛が見分。
 左兵衛様のお部屋に火鉢を所望されているが、その指示はないのだが、炬燵(こたつ)なら良いだろうか。もし苦しからずとの指示があれば飛脚を走らせてもらいたい。
2月11/12日
 左兵衛一行の江戸出立や、天候を案じた文、志賀利兵衛屋敷の囲いのの普請などの様子を連日手紙で江戸に知らせている。
2月13日
 「11日にいよいよお発ちになるはずであろう」という書付が来たので一覧した。
 左兵衛様に付いて参りたいと願い出ていた家来の内、左右田孫兵衛、山吉新八という両人がお供するとの事、承知。
 左兵衛様がお預かり心得の書付(帳面)2冊拝見。家臣の勤め方や番所、また誓紙のことは帳面の指示に従う。
 一行が到着したなら、(江戸表へ)早速飛脚を出し無事を知らせる。
 左兵衛様は、郡内海道(甲州街道)をお越しだということを、宿泊・休憩する駅宿問屋へ飛脚を遣した。
2月14日
 左兵衛様の道中2日目の、宿割の書付が昨日届き一覧。別条なく過ごされ、天気にも恵まれ安心している。明晩金沢町へ一泊する由、宿の用意も整い、明後日の16日昼前に到着予定との手紙を(江戸に)出す。
2月15日
 上野原まで恙なくお通りだということだったが、鶴川に宿泊の予定が上野原にて宿泊。
 上野原では町中隠便であったそうだ。高島でも見物などに出ないように申し付けた。金沢町はことに隠便にするよう申し渡す。
 左兵衛様の部屋に炬燵(こたつ)を設えたいとの伺いに、「相成らず」との返事が来たが、こちらはまだ寒く、炬燵がないと到底過ごせないので、再度嘆願する。
 (左兵衛の)行水道具の用意も出来た。
 明日、諏訪へお着きになるので早速江戸へ飛脚を遣した。
 炬燵の許可は下りた。
 左兵衛様の御祖母様のお願いで、長持二棹、葛籠一口、寝具入りの長持一棹、家来衆の葛籠、挟箱が許され、お持ちするそうだ。
2月16日
 左兵衛様は今朝六つ半過ぎ(午前7時)に金沢を発ち、昼四つ時(10時)、居宅へ到着。道中ご無事で、家来の孫兵衛、新八も無事にお供し、お付きの藩士たちも無事に着いた。
 番人等に、帳面通り指図し、心得を申し付ける。
 左兵衛様がお着きの後、参上しお目にかかり、家来両人にも会った。
 お着きの後、高島藩医師・井出仙庵・沢田玄賀が(左兵衛の)脈を取る。
 
 左兵衛の配流決定から、信濃国諏訪に到着までの12日間の書付だが、道中の手配りから、食事、防寒の用意などの気配りが伺えるも、網乗物での移送、そして仮宅には竹矢来を張り巡らすなど、罪人としての扱いも伺える。〈続く〉




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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 9 ~

2013年06月16日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 元禄16(1703)年2月11日に江戸を発った左兵衛は、5日後の16日に諏訪に到着する。道中の様子を伺い知る事はできないが、窮屈な乗物に5日も揺られたとあっては、そうとうに傷も痛んだだろうと思われる。
 幕府からの指示は、高島城内の南ノ丸での身柄預かりだったが、左兵衛預かりが諏訪高島藩に知らされたのは2月4日。あまりにも急なことに、作事が間に合わなかっっため、急遽、藩士・志賀利兵衛に屋敷を明け渡させ、ここに留め置く事となった。
 諏訪高島城内の南ノ丸は、寛永3(1626)年に、徳川家康の6男・松平忠輝が配流された地でもある。余談であるが、忠輝は、天和3(1683)年7月3日、高島城南ノ丸にて92歳にて死去している。
 77年振りに左兵衛を預かる運びとなった諏訪高島藩には、万全の対応を心掛けた、24項目に及ぶ「南之丸勤方覚」が残されている。

一、 左兵衛、左右田孫兵衛、山吉新八の事、一切口外無用
一、 孫兵衛、新八は預かり人ではないが、油断するべからず。また、無礼が無いよう。
一、 左兵衛の要旨は志賀利兵衛、黒沢猶右衛門に報告し、両人の指示に従う。
一、 左兵衛への手紙や口上の取り次ぎをしてはならず。
一、 出火の折りには、当番の番人が左兵衛を屋敷の堀の外へお連れする。
一、 左兵衛が南ノ丸より外へ出る時は、乗物を用意する。
一、 左兵衛の髪結は、当番の中小性が行う。
一、 利兵衛、猶右衛門が不在時は井出八右衛門と浜八郎兵衛が同様に勤める。
一、 孫兵衛、新八に当家の様子を話してはならない。
一、 番所に詰める折には、高声、高話はしてはなず。
一、 左兵衛の衣類は定めの通り木綿。ただし、五節句などの時は裃着用。
一、 左兵衛様の気分が優れない場合、利兵衛、猶右衛門に報告する。
一、 用人は毎月1人ずつ様子伺いをする。
一、 利兵衛、猶右衛門は、1日置きに様子伺いをする。
一、 家老の1人は必ず在宅。また1人は、毎日様子伺いをする。
一、 左兵衛の様子伺い等の際には、脇差、扇子、鼻紙袋を番所へ預ける。
一、 左兵衛の書いたものはもちろん、両家来の反古(紙)でも他出させない。
一、 左兵衛、両家来からも、貰い物を受けてはならず。
一、 料理人の六兵衛、源蔵は昼夜(番所に)詰め、諸用、使いなどに勤め、火の元には重々気を配るべし。
一、 門の両脇には、足軽2人ずつ、中間2人ずつを配置する。西ノ番所は暮6つ時に木戸を締まめ、北ノ番所の足軽、中間は、夜間一刻ごとに拍子木を打ちながら回り火の番をする。
一、 余所者を一切城内へ入れてはならず。
一、 左兵衛が髪を結う際、湯行水の際、庭へ出る際、爪を切る際、ものを書く際、鋏を使う際は、利兵衛、猶右衛門、八左衛門、八郎兵衛のいずれかが立ち合う。
一、 左兵衛、家来両人への郷外よりの文は殿が内見してから渡す。
一、 医師衆は2~3日に一度様子窺いをする。

 要約したが、文書には、「左兵衛様」と敬称がつけられ、一方では敬いつつも、融通が利かないというか、髭や月代をあたるにも約2週間も待たされ、髭は鋏で刈るのは許されるも月代を剃ることは許されない。着替えもさせて貰えずに垢まみれになったなど、大名の子にして高家旗本の当主だった左兵衛にとっては、堪え難い過酷な処遇だったに違いない。
 そもそも、この高島藩内がぎくしゃくしており、変わった藩だった事も災いしているのだ。事は譜代の家老家と、藩主と姻戚関係にある家老家の勢力争いにあるのだが、4代藩主・諏訪忠虎は江戸在府のまま領内へは戻らない状態にあったため、いちいち江戸藩邸や幕府へお伺いを立てるために、時を費やしたのだ。
 加えて、左兵衛の自刃を恐れた事にある。
 そもそも身分ある者が配流になった場合、配流が解けた後は元の身分に戻るので、そうそう冷遇される事はないのが常である。
 ここが時の権力者であっても、身分は大奥女中のひとりだった江島(役者・生島との密会を疑われ信濃国高遠藩内藤家にお預け。大奥時代は絵島、配流後は江島)との違いである。
 次回は、実際の諏訪高島藩の処遇を具体的にしていこう。〈続く〉



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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 8 ~

2013年06月15日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 元禄16(1703)年2月4日。吉良左兵衛義周は、寄合・荒川丹波守、先手・猪子左太夫の両名の同道により、大目付・仙石伯耆守の呼び出しで評定所へと向かう。彼らに同道されたことから、それまでも軟禁状態だったことを伺い知る事ができる。
 そして、大目付・仙石伯耆守、南町奉行・丹羽遠江守ら列座の上、処分を下された。
「浅野内匠家来共、上野介を御討候節、其方仕方不届に付領地被召上 諏訪安芸守之御預被仰付者也」。つまり、上野介を見殺しにしたことは、不届き千万なので、領地召し上げの上、諏訪(高島)藩・諏訪安藝守忠虎への配流という事である。
 神妙に聞き入った左兵衛は、腰から脇差しを外すと、静かに前に置き一礼する。
 そのまま迎えの高島藩士・沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平助に伴われ、市ヶ谷の高島藩邸に身柄を移されたのだった。
 弁明の機会も与えられず、最も弁明も何もない。突然多勢に襲われ奮闘したが、傷を負って戦線離脱。その事実のどこが、見殺しなのだか皆目見当もつかす、この時の左兵衛の口惜しさを思うと、胸が詰まる。
 そして、2月11日の日暮れに、市ヶ谷の高島藩邸から信濃国諏訪まで、網乗物にて、高島藩士130名の警護で護送される。網乗物とは、士分以上の重罪人を護送するのに用いた駕篭で、罪人の証しである縄を掛けた状態であり、旗本格の物とは違い、家臣用の物であった。
 因に、一般的な辻駕篭とは違い、武家の用いた装飾が施され引き戸のついた駕籠は、乗物と呼ぶ。
 左兵衛の伴を許されたのは、元吉良家家老・左右田孫兵衛と左兵衛の近習・山吉新八郎盛侍の僅か2名のみ。彼らもまた乗物での出立となったが、これは高齢の左右田と、赤穂浪士に斬り付けられた傷が癒えていなかった山吉への配慮であるとされる。そもそも彼らは、自らの申し出で諏訪まで向かうため、罪人ではないので網はかけられていない。また、左兵衛の傷も癒えておらず、蘭方医・金沢良玄も諏訪まで同道している。
 左兵衛に許された荷物は、長持2棹、寝具入りの長持1棹。そして左右田と新八郎には葛籠(つづら)、挟箱(はさみばこ)がそれぞれ1個だけの、とうてい高家当主としての扱いではなかったのだが、それでもこれらの持ち物が許されたのは、吉良上野介義央の妻・梅嶺院(富子)のたっての願いからであった。
 この頃、上杉家では、幕命により、生き残った吉良家家臣を任されるも、綱憲は勇戦が認められた7名のみを召抱え、戦わなかった家臣はすべて追い払っている。奮戦者としては小林平八郎と清水一学が有名だが、実際には、山吉新八盛侍、新貝弥七郎など上杉家から派遣された家臣たちだったのだ。〈続く〉






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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 7 ~

2013年06月14日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 赤穂浪士討ち入り…いや、旧赤穂藩士による夜襲としたい。その夜襲の後の吉良家にはどのうよな動きがあったのだろうか。
 浪士たちが本懐を挙げたことに沸き上がり、以外とどこでも語られていない、持ち去られた上野介の首級はどうなったのか。
 泉岳寺の浅野内匠頭長矩の墓前に捧げられた後、箱に入れられ同寺に預けられ、僧2名により、吉良家へと戻されている。
 その後、幕府の官医である蘭学医・栗崎道有の手で胴体とつなぎ合わされ、吉良家菩提寺の万昌寺に葬られたのだ。
 一方、白金の上杉家下屋敷へと移っていた妻の富子は、上野介の死を知らされると、直ぐさま落飾して梅嶺院と号している。
 そして幕府評定所では、連日のように事件の決議が行われる。評定所の構成内訳は、「忠臣蔵の真実 7」に記してあるので、参照されたし。
 彼らが出した結果は、「夜分秘かに襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいたが、十里四方鉄炮改兼帯・仙石伯耆守久尚を始めほとんどが「浅野の忠義」を重んじ、中町奉行・松前伊豆守嘉広に至っては、赤穂浪士に感涙さえ流したと伝えられる。
 よって評定所から老中・稲葉正通への決議提出は、「吉良家の家臣で戦わなかった者は侍とは認められぬ故、全員斬罪。吉良の実子である上杉綱憲は父の危機に何もしなかったため領地召し上げ。吉良義周に至っては義父を助けられなかったことにより切腹。浅野家遺臣は真の忠義の者たちであるので、お預かりにしておいてご赦免するべき」。という、なんじゃそりゃあ、といった内容だったのだ。
 こんな理屈が通るなら、世の中に法はいらない。今ならさしずめ、「警察はいらない」といったところだが、当の警察に当たる奉行たちがこうなのだから、いやはや何とも…。
 余談ではあるが、後の世の「桜田門外の変」において、当日、井伊直弼の警護に当たっていた家臣たちは、「殿をお守りできなかった」として、無傷・軽傷者は、全員切腹。重傷者は、井伊家の飛び地である下野国佐野に幽閉された。
 お武家様のすることは、どうにも理解し難いものである。
 話を戻し、この上告を受けた、幕府の最高機関で異を唱えたのが、儒学者・思想家・文献学者として五代将軍・綱吉に重用されていた荻生徂徠である。助命を主張する林信篤や室鳩巣ら学者に真っ向から異論を唱えたのだ。
 「四十六士の行為は、義ではあるが、私の論である。浅野内匠頭長矩が殿中も憚らず罪に処されたのを、吉良を仇とするのは誤りである。公儀の許しも得ず、幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然、法をまぬがれるものではない」。
 として切腹を主張した。
 だが、綱吉は助命を望み、皇族から出された恩赦という形を得るため、上野寛永寺輪王寺門主の公弁法親王(後西天皇の第六皇子)に拝謁。恩赦を依頼するのだが、「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことではあるが、この者どもを助命し晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。恐らく、義挙にまで傷が入ることにならぬは言えぬ。だが今死を与えれば、忠義は後世まで語り継がれていくことになるでだろう。時には死を与えることも情けとなる」。
 法親王の意見に綱吉は、赤穂浪士の切腹を命じたのだった。〈続く〉





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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 6 ~

2013年06月13日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 重傷を負いながらも、左兵衛が記した文章は下記である。

 昨十四日夜八ツ半過、上野介並に拙者罷在候処へ、浅野内匠頭家来と名乗り、大勢火事装束の体に相見え、押込申候。表長屋の方は二個所に梯子を掛、裏門は打破、大勢乱入致、其上弓箭槍長刀など持参、所々より切込申候、家来共防候得共、彼者共兵具に身を固め参候哉、此方家来死人、手負多有之、乱入候者へは手を負せ候ばかりにて討留不申候、拙者方へ切込申候に付、当番之家来傍に臥居候者共之を防ぎ、拙者も長刀にて防申候処、二箇所手を負、眼に血入気遠く罷成り、暫く有て正気付、上野介俄無心許存、居間へ罷越見申侯へば最早討れ申候、其後狼籍之者共引取、居不申候
       十二月十五日      吉良左兵衛

 昨十四日、午前三時過ぎ、父・上野介及びわたくしの元へ、浅野内匠頭家来と名乗る火事装束のような衣服をまとった者が多勢押し込んで参りました。
 彼らは、表長屋の方は二カ所に梯子をかけ、裏門は打ち破り乱入して参りました。
 そして、持参の弓矢や槍、長刀などで四方より斬り込んで参ったのです。
 当家の家来たちが防戦いたしましたが、彼らは兵具に身を固め武装しており、当家側の死傷者が続出いたし、乱入してきた者に、負傷させ申したが討ち取るには至りませんでした。
 わたくしも斬り込まれ、当番の者がこれを防ぎ、わたくしも薙刀で防戦致しましたが、二カ所に負傷し、目に血が入り気を失いました。
 暫くの後、目を覚ますと父のことが気がかりで居間に行ってみたところ、すでに父は討たれており、狼藉を働いた赤穂浪士は引き揚げた後でございました。
        十二月十五日      吉良左兵衛

 実戦など初めてであろう僅か17歳(当時は数え年なので、現代でいえば16歳)の青年である。上野介始め、家臣たちの遺骸の中でである。精神的なショックも大きかっただろう。しかも身気を失うほどの傷を負った身にも関わらず、冷静に状況を踏まえ、かつ子細に書き留めているではないか。
 因に、幕府は、上杉家には高家の畠山義寧を使者に立て、泉岳寺にいる赤穂浪士たちを襲撃しないようにとの差し止めを申し渡している。
 これらを踏まえた上で、吉良家は夜襲をかけられた被害者。上杉家並びに上野介の兄弟は全くもって無関係としか考えようもないのだが、幕府は信じられない裁定を下すのだ。
 上杉綱憲・吉憲父子は事件後、謹慎だが、討ち入りに先立つ元禄14(1701)年8月21日、浅野贔屓の世評の高まりに応じるかのように、 上野介の五弟・東条冬重(三兄・東条義孝の養子となり書院番士を務める)には隠居。さらには、「そのつとめに応ぜざるにより」として解任。
 大目付の旗本・庄田安利(浅野内匠頭長矩を庭先で切腹させるなど、厳しい態度で臨んだ検死役正使)、高家肝煎の大友義孝(上野介腹心の部下)にも同日、冬重同じ沙汰を下している。
 この沙汰をみる限り、吉良屋敷を本所松坂町へ移したのも、幕府の策略と受け止められるのではないだろうか。〈続く〉





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美談に泣いた不運の貴公子・吉良左兵衛義周の生涯 ~忠臣蔵の陰 5 ~

2013年06月12日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 非番で長屋に戻っていた左兵衛の近習・山吉新八郎は、異変を感じると直ぐさま差料を手に左兵衛の元に駆け付ける。
 そして、左兵衛は薙刀を手に、中小姓・斎藤清左衛門と共に表へ出て果敢に戦うのだった。
 だが、相手は武装の上に3~4人ひと組で挑む戦法をとっており、言うなれば、万全の構えだったのだ。そこに不意を喰らった者と、覚悟の者の違いもあろう。
 四方を敵に囲まれた左兵衛は、不破数右衛門に背から斬り付けられるが、それでも薙刀を離さず敵に向かい、武林唯七に額を割られる。その額からの血が目に入り意識が遠のき、ついに気を失いその場に倒れたのだった。
 その時追った傷は、背は六尺(約18センチ)。額は二尺(約6センチ)の痕が残るほどの壮絶なものだった。
 左兵衛が昏睡から覚めた時には、既に上野介の首級は挙げられ、浪士たちは立ち去った後だったとされる。
 明六つ(午前6時)になり、上杉家から奥取次・野本忠左衛門ら2名が物見役として吉良家に遣わされた時には、惨劇と呼ぶに相応しい一面の血の海と死体。斬り落とされた肉片などが散らばる無惨さだった。
 野本から赤穂浪士引き揚げの知らせが入ると、上杉家は先発隊40名を吉良家に派遣。
 幕府からの使者が動き出したのは、朝五つ(午前8時)になってからであり、幕府の官医である蘭学医・栗崎道有が駆け付けたのは、その後とみて良いだろう。
 それまで医師の手当も受けないまま、家臣の糟谷平馬を使者に、月番老中・稲葉正通に討ち入りの様子を書き送っている。(※前に月番目付と書きましたが、過ちです。正しくは老中です。後ほど訂正します)
 そしてこの日・元禄15(1702)年12月15日を境に江戸市民は、「阿呆浪士」、「腰抜け侍」と罵っていた旧赤穂藩士たちを、「義士」と奉り、吉良家並びに上杉家に対し、「不甲斐なし」と落書きや中傷を繰り返すのだ。とかく世間と言うものは、無責任極まりない。〈続く〉
 ※表は、吉良家の死傷者一覧。







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