[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

ベスト学習会 www.bestkai.com
別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

754年 唐の高僧・鑑真が来朝

2006-01-16 | 歴史カレンダー
754年の今日、1月16日に、唐の高僧・鑑真が遣唐副使・大伴古麻呂に伴われて日本にやってきた。5度の航海失敗で失明し、6度目にしてやっとその思いをかなえることができた。

なぜ、鑑真が国禁(当時は国外に出ることは禁じられていた)と命の危険を冒してまで、日本に渡ったのか。また、それをなぜ、弟子でなく高齢で地位も確立した鑑真に望んだのか。中学の歴史の教科書にもそのような記載はなく、ただ、盲目になりながらも日本に渡航した偉いお坊さんというように紹介されているだけだ。

日本に仏教が伝えられてから200年経った、天平文化で有名な聖武天皇の時代には鎮護国家の思想の下、中央に東大寺・薬師寺などが、地方に国分寺・国分尼寺が建立されて、仏教は大いに栄えていた。しかし、そのような時においても、なお日本にはまだ正式な僧侶は存在しなかった。何故かというと、仏教において正式な僧侶となるためには、三師七証(3人の僧と7人の証人)による授戒が必要であるが、戒律(仏教において守らなければならない、道徳規範や規則)を伝え、それに基づいて僧侶の認定を出来る資格を持った僧が日本にいなかったからである。国家仏教を完成させるためには、中国(唐)から日本に授戒僧を招くことが必要であり、聖武天皇は強くそれを望んだ。

鑑真は、唐の揚州江陽県の生まれで、14歳のとき出家。今で言えば中学2年生にして出家したということになる。当時律宗が盛んで、鑑真もあちらこちらと高僧を歴訪して研鑽を重ねていた。733年の遣唐使とともに入唐した興福寺の僧・栄叡と大安寺の僧・普照は、中国各地を旅し授戒僧の派遣を懇請したが、目的を達することなく、むなしく10年が経過した。揚州に入り、大明寺の高僧鑑真に会い、授戒僧の日本への派遣を懇請した。しかし、鑑真の弟子たちは、誰一人、この要請に応じる者はいなかった。日本行きは国禁を犯す重罪であるばかりでなく、日本への渡海は、航海技術の未熟な当時においては、命懸けの危険なものであったからである。その時、鑑真は既に55才と高齢であったが、留学僧たちの熱心な懇願に、「誰も行かぬなら我行かん」と決然と応えたという。

しかし、日本へ渡ることを決意したものの、鑑真の徳望を惜しむ皇帝の反対や、暴風・盗賊などの難にあい5度にわたり失敗し、ついに潮風に侵されて失明した。第6回目は密かに遣唐使の船に便乗し、753年12月、数々の苦難を経て、渡航を志してから12年目にして九州に到着した。東大寺大仏開眼の次の年であった。ときに鑑真67歳。度重なる困難にも負けず初志を貫徹した鑑真等の不撓不屈の精神力は驚くべきものである。

翌年1月平城京に到着。勅命(天皇の命令)により東大寺に居を定め、戒壇(僧侶に戒律を授けるために設けた壇)の建立と授戒伝律を一任された。

同年4月には、東大寺大仏殿前に戒壇院を設け、上皇から僧尼まで400名に戒律を授けた。759年に、わが国唯一の戒律専修道場として、唐招提寺を創立した。

鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。そして、763年、76歳で波乱の生涯を終えた。

私、小魔人は、国宝になっている、鑑真の弟子の忍基がつくった鑑真和上坐像をこの目で見てみたいと、かつて唐招提寺を訪れたことがある。が、ちょうどそのとき、唐招提寺の本殿の大改装工事が行われている最中だった。

入り口の受付のおばちゃんに、「今、改装中ですから~、残ネ~ン!」みたいなことを言われた。

 ( ー_ー)_中☆{{{Д}}} カ・ル・ロ・ス ゴーン!!

  <(゜0゜;)> え…マジ? 

鑑真和上像を見られないのなら、お寺だけを見てもなあ…と、結局、中に入らずに、薬師寺に行った。その後、まだリベンジを果たせぬままである…。