ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

レヴィ=ストロース氏逝く

2009-12-23 | パパ
今年、20世紀を代表する思想家で文化人類学者のレヴィ=ストロース氏が亡くなりました。彼の業績は膨大かつ難解ですが、今日は僕が興味をもった2つのことについて紹介したいと思います。



彼は世界をフィールドワークするなかで、未開と呼ばれる地域において、人間が寄せ集めのものを器用に使って道具を作っていることに着目しそれを、ブリコラージュと名づけました。西洋科学技術が、最初に設計図を準備し、ものを探し、作り上げていく発想であるとするなら、ブリコラージュは作りながら、ものを見て発想していく方法だといえます。かつての日本の名工が、木を見てからそれをどこに使うかきめたように。過剰な情報と経済合理性のみで物事が決定していく現代社会においては、ブリコラージュという言葉は葬り去られていく。そして、いつか言葉が完全に消去されたとき、人間の周りには、ただ機能としてのものが存在するだけとなり、ものに無関心となる。ウィトゲンシュタインは言っている

「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味している」と。

もうひとつ彼がわれわれに教えてくれたことは、西洋の外にいる未開人の思考のなかにも、文明人と同じような論理性があるということでした。そして、それを「野生の思考」と名づけました。西洋中心の考え方に無意識に慣らされている我々には、未開とは、西洋科学技術を獲得する発展段階の途中にある状態と捉えがちです。しかし、たとえば未開人の食物の保存や調理法などの知恵は、特定の社会や時代を超えた普遍的なものであり、ただ西洋の科学はその背後で働いている法則を数値化し概念化する手法をもっているにすぎないのです。中島敦の小説に、理性的な主人公の沙悟浄が野生的な孫悟空にたいして、語る場面があります。

「しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧と判断の高さを何ものにもまして高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある。少なくとも、動物・植物・天文に関する限り、彼の智識は相当なものだ。彼は、大抵の動物なら一見してその性質、強さの程度、その主要な武器の特徴などを見抜いてしまう。雑草についても、どれが薬草で、どれが毒草かを、実に良く心得ている。その癖、その動物や植物の名称は、全然知らないのだ。彼はまた、星によって方角や時刻や季節を知るのを得意としているが、角宿という名も心宿という名も知りはしない。二十八宿の名をことごとくそらんじていながら実物を見分けることの出来ぬ俺と比べて、なんという相違だろう!目に一丁字の無いこの猿の前にいる時ほど、文字による教養の哀れさをかんじさせられることはない」

このように、他の文化の思考にたいして、自身の文化を相対化して考えることは、グローバルな時代には非常に重要なことだと思います。海外に行ったときにカルチャーショックを受けることがありますが、それは、新たな文化を知ったからではなく、実は自身の寄って立つ文化というものが絶対的なものではなく、ただそう刷り込まれて生きてきただけなのだということを思い知らされるからにほかなりません。
僕が残念に思うのは、レヴィ=ストロース氏が未開の国が遅れた国ではなく西洋とはことなる発展の歴史をもつものだという視点をもたらしたにもかかわらず、COP15では、先進国をただ非難し、次は我々の番だと言わんばかりに一歩も譲らない中国やインドの態度に対してである。なぜ、西洋と同じ発展へと駆り立てられるのだろうか?今の中国の経済発展とは裏腹に希薄化していく若者の精神性を見るにつけ、つくづく西洋の文化グローバリズムは人間を無化させながら強力に浸透していくものだと思いました。

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