ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

大人と若者

2010-05-13 | パパ
ロシア革命を導いたウラジーミル・レーニンは書いている。
「大衆が黒パンに窮しているときに、わずか少数の人間に甘い美味なビスケットを持ってゆくべきだろうか」と。






今日、新聞をひろげると、定年を迎える教頭先生の言葉に素直に喜べない女子高校生の記事が眼にとまった。教頭先生はあいさつの中で次のように述べる。

「定年後は近くの公共施設で働きますから、また皆さんに会えるかもしれません」

女子高校生は釈然としない。なぜなら、世の中が不況で若者が働く環境を見出せないでいることを身近で感じている立場の人が、自分は軽い作業で高い収入を得られるこれからの近況を、自嘲もせず先行き不安な彼女らに語る無神経さが目に付くからだ。

以前見た番組をふと思い出した。大人を信じれず就職に踏み切れない高校生の男の子が、周りの先生や友達の気配りで、就職を決意しある一つの会社を見つけ、履歴書を送付するのである。でも、いつまでたっても連絡がこない。
そして、その会社に電話をするのだが、書類選考の結果、不採用にしたとのそっけない返事が返ってくるだけだった。
彼は悔しさを隠しながらインタビューに答える。

「それならそれで早く言ってくれればいいのにって言う気持ちですかね。向こうが来てもいいと言ってそれでこっちから送っているのに電話してこなかったから腹が立ちましたね。大体なんかやるのは大人だしその大人のありかた一つで子供にすごい影響がすぐでちゃうんでなんか好きじゃないです。だから自分が成長したときは、そういうことがないようにしていきたい。」

この番組に取り上げられている高校では、家庭が貧しくアルバイトの収入で家計を助け、学校に通いながら就職を見つけていかなければならない環境にある生徒ばかりだ。でも、大人たちは厳しい現実を容赦なく彼女たちに突きつけていく。
甘い考えかもしれないが僕は思う。今すぐに彼女たちを働かせなければならないのかと。そして、彼女らの鼻先に、にんじんをぶら下げて、一方的に評価していけるだけの大人社会に反省する余地はないのかと。学ぶ喜び、そしてどのような立場に置かれても、耐え考え抜く力、現実を想像力によって乗り越えられる視野が彼女らには、面接の練習よりも有意義ではないのかと思う。意識は生活によって決定されるのだから。

今の若者は夢がない、忍耐がないと大人たちは言う。でも僕から言わせると、高度成長時代を経験した大人たちには、本質がないと。そして、自分を見つめる力がないと。彼らと現代の若者との違いは、ものがないかあるかの違いだけだ。そして始末が悪いのは、彼らが学生時代のロマン的な学生闘争と日本を豊かな社会に築き上げたという英雄伝を、家族、共同体を崩壊へと導いた自覚なしに喧伝する節操のなさにおいてである。彼らは食べ過ぎたのである。自分たちが生きていけるに足る以上の未来の若者たちの分まで。現代の若者たちは、親たちにパラサイトしているのではない。先に食べつくされたものを返してもらっているだけなのかもしれない。賞味期限はいささか切れつつあるが・・・。

会社は考えなければならない。自社の社員は何を考えて働いているのかと。そして、それを前提に、これから会社に入ってくる若者たちに理想ではなく現実をぶつけるべきではないか?でなければ、どんな優秀な人間が入ってきても、実態を知って失望するしかない。そういう意味で、僕は働くこと、生きていくことの意味を、個人、夫婦、家族、社会といった多元的なレベルで考え、組織を超えた単独者として新しく社会に入ってくるものに節操をもって接していきたいと願う。それが、大人の礼儀である。








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