畑倉山の忘備録

日々気ままに

事実と認識(3)

2016年08月10日 | 歴史・文化
日本の戦争責任があいまいになったもうーつの理由は、アメリカの国益を最優先させた日本占領政策のなかにある。

GHQ(連合国軍総司令部)は日本占領のコストを軽くするために、当時まだ大きな力をもっていた天皇の権威を利用しようと考え、彼の戦争責任を免責した。また、日本の官僚機構を温存し、占領統治に利用した。一方で民主改革を要求しながら、他方で天皇や官僚の責任を不問にするこうした矛盾した政策が、戦争責任の追及をさまたげたことはたしかである。

くわえて日本政府が、文部省の教科書検定などに見せたように、戦争についての公平な、世界史のなかに日本を置いて過去を見直すという歴史教育を排除し、むしろ日本の大陸侵攻を「侵略」ではなく「進出」と教えさせるなど、歪(ゆが)んだ教育を強制してきた。そのことが、戦後世代に大きな歴史認識の欠陥と空白をもたらした。(中略)

日本政府は第二次世界大戦中の戦争責任を十分に認識し、その犠牲者ヘの国家的補償を十分に行なおうとする意志を持たなかった。それどころか、国の内外からの批判を永い間、かたくなに忌避してきた。しかし、近年「従軍慰安婦」にされた韓国婦人はじめアジア諸国の女性たちから告発されて、はじめて政治課題となり、国内でも論争の焦点となっている。こうしたことは「慰安婦」問題にとどまらない。日本が怠ってきた戦争による多くの未解決の問題を浮上させている。

核廃絶の問題にしてもそうであろう。日本は唯ーの被爆国でありながら、国際舞台で積極的に核廃絶の運動のリーダーシップをとろうとしてこなかった。それどころか、米英など核大国の側に立って、核爆弾の全廃を求める第三世界の国連総会ヘの動議に反対票を投じてきた。こうした態度も戦後の日本のあり方からきているものといわざるをえない。

日本が世界から尊敬される国家になるためには、こうした問題解決を21世紀に先送りしてはならない。この点で日本の政府がいつまでもしっかりした自覚と対策をもたないのは、それを監督する主権者たる人民がしっかりした歴史認識をもって、政府に実行を迫らないからである。

今からでも遅くない。日本の近代の戦争と戦後の歴史を、世界史のなかに置いて、しっかりと学び直そう。そのとき、いちばん大切なことは国家指導者や政治家や評論家などの国家本位の言動にまどわされることなく、民衆の視点に立って歴史を見直すことだと私は思う。

21世紀のこの国の運命や人類の未来は、若い人びとの肩にかかっているのだから、まず若い人びとの学び直しと、その行動力に期待したい。

色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書、1998年)

事実と認識(2)

2016年08月10日 | 歴史・文化
日本国民は1941年、アメリカの経済制裁(日本にたいする全面的な石油の禁輪など *)にあって止むなく開戦し、その後、本土大空襲、原爆投下、ソ連軍の侵攻などによってひどい目にあった。そうした被害者としての感情をもっている。その「被害」の面と、日本国家や将兵らが実際に行なった「加害」の面とを歴史的に関係づけて、しっかりと認識することをしていない。(中略)

こうした被害者感覚は、敗戦のときの国家指導者の中に、その原形が早くもはっきりとあらわれている。興味深い史料がある。

1945年8月14日、日本降伏の発表(玉音放送)の前日、当時の内閣情報局総裁の下村海南が、報道機関の代表を集め、「大東亜戦争終結交渉に伴う国民世論をどう指導するか」指示したものである。そこには、次のようにある。「この未曾有(みぞう)の国難を招来したことについては、国民ことごとくが責任を分かち、上(かみ)陛下に対し奉り深く謝し奉」らなくてはならないと。また、「この敗戦の混乱に伴って、共産主義的・社会主義的言論は厳重に取り締まるべし。軍及び政府の指導者に対する批判はー切不可とする」と。

そして、敗戦の理由について、下村総裁は次のように明確に断じていたのである。「敗戦は残虐な原子爆弾の使用とソ連のー方的条約破棄という、敵の理不尽によってもたらされた民族の悲運である」と。

この考えこそ日本を被害者、受難者とするものであり、そこには「侵略」ヘの反省などかけらもない。こうした考え方は日本軍国主義の徹底的除去を指示したポツダム宣言に反するので、占領下ではきびしく否定された。だが、講和成立(占領統治の終了)後はたちまち保守勢力によって復活され、今でも生き残っている。国家の戦争責任の公認拒否、戦犯追放者の復権、旧軍人らヘの恩給復活(その総支払い額は20兆円に達する)もそのー例である。

敗戦の受けとめ方がドイツなどとたいへん違うのはこの点である。その結果、日本は天皇制の国体を残し、本土や官僚機構や主要産業の壊滅的な破壊をまぬがれ、天皇家をはじめ旧支配勢力を温存することになった。日本の軍部や大政翼賛会も、ドイツにおけるナチスのような徹底的な処罰をまぬがれた。また天皇は開戦責任も敗戦責任も問われることなく、かえって国民が「一億総懺悔(ざんげ)」して、天皇に敗戦の罪を詫(わ)びるという逆立ちした意識を残した。

「一億総懺悔」といったのは、敗戦時の内閣の東久邇宮(ひがしくにのみや)首相であったが、国民すべてが天皇にたいしてお詫びせよといっているのであって、その逆ではない。また、日本がしかけた戦争の犠牲となった中国人民やアジアの民衆に詫びているのでもない。

色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書、1998年)

* 実は石油や軍需物資は裏で供給されていた。

事実と認識(1)

2016年08月10日 | 歴史・文化
かつて日本は中国にたいする15年間にわたる戦争を「満州事変」「支那事変」などとよび、その侵略を「東亜新秩序の建設」「東洋永遠の平和」のためだと美化した。

また、アメリカ・イギリス・オランダなどのアジアの植民地に侵攻した戦争を「大東亜戦争」とよび、それを白人の帝国主義支配からアジアの民衆を解放する正義の戦い(「聖戦」)だといい、「大東亜共栄圏の確立」のためだと主張した。こうした考えは、日本が戦争に負け、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって詳細な証拠をあげて否定されたが、日本の指導者の中にはそれを「勝者による一方的な裁き」だとして反発し、認めないものが現在でも多数いる。国民の中にも、その意見に同調するグループがあり、その人びとが力を持っていることもたしかである。

もちろん、勝利した連合国による「東京裁判」には重大ないくつもの欠陥がある。自分を裁いていないー面的なところや、国益のために追及を途中で止めてしまっている課題もある。だからといって、膨大な実証を積み重ねて行なった、その基本的な認定をすべて否定することはできない。裁判だけではない。その後の日本や中国や韓国や東南アジア諸国の歴史研究者によって、さらに日本の侵略の事実は立証され、確認されている。日本の指導者がどんなに「過去」を自分の都合のよいように解釈しても消し去ることのできない事実は残るのである。

こうした事実を無視して、戦後50年経ってなお、あの戦争は日本の正義の戦い、大東亜解放戦争だと唱えている保守的な人たちは、素直にまた公平に歴史を認識する努力をしなくてはなるまい。

このことは、当時の一部の日本の国民や兵士たちが、「アジア解放」という与えられた理想を信じ、止むに止まれぬ「自衛の戦い」だと真剣に思い込んで、祖国のために勇敢に戦ったということとは、別問題である。日本国家が行なった侵略と抑圧の客観的な事実と、国民や兵士の個人的な戦場体験や主観的な願望とを混同して、自分の感情だけから歴史判断をしてはならないと思う。

私も、上官の命令に従い、任務を遂行するうえで、日本の兵士が勇敢であったということと、「祖国の防衛」と「アジア解放」の理想を信じて戦った人びとがいたということを疑うものではない。それにもかかわらず、日本にとってあの戦争は、朝鮮民族にたいしては35年間にわたる植民地支配を強要したこと(台湾の植民地支配は50年)であり、また中国にたいしては、満州事変以来15年にわたる侵略戦争であって、それを否定することはできない。そして中国との戦争の最終段階になって、行き話まりを打開するために「自存自衛」と「大東亜共栄圏の確立」という名目を掲げ、太平洋戦争を起こしたのである。

色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書、1998年)

「昭和の終焉」(色川大吉)

2016年08月10日 | 歴史・文化
私は1925年に生まれた。従って私にとって昭和の歴史は私の人生のすべてであり、自分史を通して、この時代を内側から検証できる立場にある。私が生まれた時、日本帝国はアジア最強の軍事大国であり、私が小学校に入学した時、日本の満州占領は終わっており、中学に入った時、中国との全面戦争が始まった。私の住む関東の小さな田舎町の駅頭でも、出征兵士を見送る旗の波や万歳の声が絶えることなく、それは私が同じ駅から見送られる時までつづいていた。

私が念願の高等学校に合格した昭和16年の12月8日(駅頭では遺骨の出迎えの方が多くなった頃)突然「朕の陸海軍将兵は全カを振って米英との交戦に従事せよ」との大元帥陛下の命令で、国民は大戦争に突入した。

この瞬間から私の運命も確実に狂い、正常な勉強はおろか、青春の享楽も絶望となった。修業年限は短縮される。大学進学の喜びもつかのま、徴兵猶予を停止され、私も「学徒出陣」の名目で軍隊入りを強いられた。

そして大空襲、艦砲射撃、原爆を浴び、再び天皇の命令によって私たちは銃を棄てた。私は兵営を出、超満員の列車で、一面の焼け野原と化した廃墟の東京に帰ったが、多くの学友は二度と学園に戻ることはなかったのである。

この時まで深く天皇の高い道徳性を信じていた私は、天皇が率直に内外の国民に「悪かった、すまなかった」と詫びてくれることを願っていた。

しかし、昭和21年1月の詔書では「朕と爾(なんじ)等国民との間の紐帯(ちゅうたい)は終始相互の信頼と敬愛とに依(よ)りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず」と述べられ「現御神(あきつかみ)」を「架空なる観念」と否定し、戦前の神国史観による「国体明徴」教育の事実を無視した他人事のような説明に終始された。この時の失望の深さは、私の日本観を根本から変えるものとなった。

私たちにとって、戦前の天皇は疑うことを許されない「現人(あらひと)神」であり、つねに軍服を着た皇帝であり、颯爽(さっそう)と白馬にまたがっていた大元帥であった。

当時の国民が天皇に人間としての親愛の情を寄せるなど不可能なことであり、学校で礼拝される一枚の写真ですら「御真影」といって神格をあたえられていた。この写真を火災から救い出すために何人もの校長や教員が焼死し、美談とされた。

こうした天皇と国民との関係を「架空の観念」とか、神話に依らない人間間の「終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ」たものとみなすことは事実に合わない。

また、終戦の「聖断」を当時の歴史情況から切り離して文学的に解釈し、天皇は国民の命を救ってくれた恩人だと力説して、ポツダム宣言受諾を遅延させ、原爆投下やソ連侵攻を招いた責任の方を不問にすることは歴史の真実に反する。

私はなぜ日本人があれほどまでに皇国思想や天皇に捉(とら)われたかを解明したいと思って、歴史学徒の道を進んだ。(中略)

・・・天皇は地方巡幸の旅の中にあった。それは国民ヘの謝罪の旅ではなかったのだが、心優しい民衆は背広に着がえた天皇を身近に見て、到る所「陛下万歳」の歓呼で彼を迎えた。その時ほど、天皇が国民に守られていたことはなかったろう。その圧倒的な国民の支持を見ては、天皇を「東京裁判」の法廷に喚問せよと主張していた者たちも断念せざるを得なかった。天皇はこうして二度目の危機をも乗り切った。この時も沖縄を犧牲としてーーー。

色川大吉「昭和の終焉」『毎日新聞』1989年1月12日付(色川大吉『自分史 その理念と試み』講談社学術文庫に収録)