野村秋介(しゅうすけ)という右翼がいた。一九三五年、東京に生まれた。・・・右翼というよりも文芸批評家、あるいはアナーキーな哲学者というほうが野村の風貌にふさわしい。しかも行動右翼であった。河野一郎邸を焼き討ちにして獄に十二年間入った。さらには経団連本部を襲撃して再び六年間の獄中生活を送った。野村秋介は一九九三年、五十八歳のとき、朝日新聞東京本社内で拳銃自殺した。(中略)
野村の言葉を引用する。
「僕はこれまで、南の端から北の端まで、いろんな親分に会ってきたけれど、百人のうち九十八人の親分は、「立派だ」と思う人ばかりだった。逆に教えられることもいっぱいあった。それは、この世界で男を磨いてきたからだ。
僕も若い時分に、親分から可愛がられ、賭場で雑巾掛けや、洗濯をやっていたことがある。電話が入って、時間になると、お客がやってくる。当時は提灯もって「誰々さんお出でです。いらっしゃいませ」って、二階にある賭場にあげて、下駄を揃えたり、おしぼりを出したりした。お客は堅気の人だから、堅気を大事にするという構図が、ここにあった。それで、そのお客が勝てば「ご苦労さん」と、小遣いをくれたりする。その小遣いが欲しいがばっかりに、頭も下げる。
僕がまだ十代だった頃、道の真ん中を歩いていると、「お天道の真ん中を歩いちゃいけないんだ。ヤクザは日陰者なんだから、日陰を歩くものだ」と教えられた。
そういう、古き時代は、本当にあったんだ。」
私はこの野村秋介の文章を読みつつ、幼い頃の自分と重ねていた。私が住み続ける別府という温泉町のヤクザに思いをはせた。そこには全く異質のヤクザたちがいた。田岡一雄の山口組系の「石井組」が別府の町の暴力団だった。私は野村秋介よりも三歳年下である。だから、古き時代のヤクザも見ている。私の見続けたヤクザのほとんどはゴロツキだった。しかし、これは仕方がない。ヤクザの中で生活した者と、傍観者的立場の違いである。私は二十代から三十代にかけてヤクザとよくケンカした。彼らのほとんどは、いつも逃げ出した。田岡一雄の菱紋を身につけていたのに、である。野村秋介は続けて興味あることを書いている。
「日本はアメリカのセカンド・ワイフでいい。そのためには、ナショナリズム抜きの反共団体が必要だった。それが、政府のつくった反共抜刀隊構想という考え方だ。そうして、街宣車をもった、「任侠右翼」が誕生した。本来、右翼には、街宣車なんてなかった。当然、僕だって、もってはいなかった。いわゆる反共抜刀隊構想という考えからすれば、本来、右翼がもっているはずの思想を一変したかったわけだ。そこで一番てっとり早かったのが、ヤクザの親分を右翼にすることだった。そうして、児玉誉士夫氏に言われて、ヤクザの親分が皆、政治結社になった。それが「任侠右翼」の誕生の顚末だ。」
この野村秋介の説に全く異論はない。ヤクザは、ゴロツキであろうとなかろうと、戦後のある時期までは「日陰者」だった。しかし、日本という国家と児玉誉士夫がタイアップして「任侠右翼」に仕上げた。それは「てんのうはん」のためとされた。「田布施システム」を守ってもらうために、ヤクザを日陰者から解放した。そのよき例を山口組三代目田岡一雄に見ることができる。
(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)
野村の言葉を引用する。
「僕はこれまで、南の端から北の端まで、いろんな親分に会ってきたけれど、百人のうち九十八人の親分は、「立派だ」と思う人ばかりだった。逆に教えられることもいっぱいあった。それは、この世界で男を磨いてきたからだ。
僕も若い時分に、親分から可愛がられ、賭場で雑巾掛けや、洗濯をやっていたことがある。電話が入って、時間になると、お客がやってくる。当時は提灯もって「誰々さんお出でです。いらっしゃいませ」って、二階にある賭場にあげて、下駄を揃えたり、おしぼりを出したりした。お客は堅気の人だから、堅気を大事にするという構図が、ここにあった。それで、そのお客が勝てば「ご苦労さん」と、小遣いをくれたりする。その小遣いが欲しいがばっかりに、頭も下げる。
僕がまだ十代だった頃、道の真ん中を歩いていると、「お天道の真ん中を歩いちゃいけないんだ。ヤクザは日陰者なんだから、日陰を歩くものだ」と教えられた。
そういう、古き時代は、本当にあったんだ。」
私はこの野村秋介の文章を読みつつ、幼い頃の自分と重ねていた。私が住み続ける別府という温泉町のヤクザに思いをはせた。そこには全く異質のヤクザたちがいた。田岡一雄の山口組系の「石井組」が別府の町の暴力団だった。私は野村秋介よりも三歳年下である。だから、古き時代のヤクザも見ている。私の見続けたヤクザのほとんどはゴロツキだった。しかし、これは仕方がない。ヤクザの中で生活した者と、傍観者的立場の違いである。私は二十代から三十代にかけてヤクザとよくケンカした。彼らのほとんどは、いつも逃げ出した。田岡一雄の菱紋を身につけていたのに、である。野村秋介は続けて興味あることを書いている。
「日本はアメリカのセカンド・ワイフでいい。そのためには、ナショナリズム抜きの反共団体が必要だった。それが、政府のつくった反共抜刀隊構想という考え方だ。そうして、街宣車をもった、「任侠右翼」が誕生した。本来、右翼には、街宣車なんてなかった。当然、僕だって、もってはいなかった。いわゆる反共抜刀隊構想という考えからすれば、本来、右翼がもっているはずの思想を一変したかったわけだ。そこで一番てっとり早かったのが、ヤクザの親分を右翼にすることだった。そうして、児玉誉士夫氏に言われて、ヤクザの親分が皆、政治結社になった。それが「任侠右翼」の誕生の顚末だ。」
この野村秋介の説に全く異論はない。ヤクザは、ゴロツキであろうとなかろうと、戦後のある時期までは「日陰者」だった。しかし、日本という国家と児玉誉士夫がタイアップして「任侠右翼」に仕上げた。それは「てんのうはん」のためとされた。「田布施システム」を守ってもらうために、ヤクザを日陰者から解放した。そのよき例を山口組三代目田岡一雄に見ることができる。
(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)