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畑倉山の忘備録

日々気ままに

明治維新の謎(5)

2016年09月24日 | 鹿島曻

ゴルバチョフによるソ連改革の試みは、戦争によっては失うものが余りに大きいという核戦争の実状によってなされたことは否定しえないが、われわれは天皇ヒロヒトの独裁時代に八方美人で何も決断できない近衛やゴマすり男の東条だけが権力の中核を占め、一人のゴルバチョフもいなかったことが悔やまれてならない。

このことは明治以降、西南の役で軍旗を奪われたために、追放されて然るべき乃木のごき軍人が将軍として旅順攻撃の指揮を任せられ、その結果余りにも膨大な戦死者を出した、というひたすら忠誠重視の国体から生まれたのである。ライプニッツは「すべて高貴なるものは困難であり稀である」といったが、この時代に天皇に対する忠誠は珍奇なものであったからこそ重用されたのであった。

だからこの間の歴史を大観すると、こののち日本の国策を転換できたのは、憲法上、参謀本部を自己の指揮下において軍の最高指導者であった天皇ヒロヒトただ一人であったが、その天皇は独裁の座に酔い、軍機の秘密といって情報を独占し、戦闘能力を失ってゴマスリ競争だけに励んだ将軍たちに囲まれていた。

そのために、日本はノモンハン戦争においてソ連を攻撃ししかも全滅して、自己の軍事力の劣化に気づきながら、突如としてソ連に侵攻したヒットラーの戦力を天の助けとして他力依存して、なお戦争をつづけるというキ印的な戦略に逃避した。そしてそれは問題の解決でなく、ただ大破綻の先のばしにすぎなかったのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)