天皇制を悠久の昔からのものと考えることは出来ない。天皇家と天皇制はひとつにして見るべきではなかろう。天皇制は近代百年の政治的創作で、新しいわれわれと同時代のものである。戦後、ある日、総理大臣吉田茂が、突如昔のように天皇に対して臣茂と言いはじめ、人びとを驚かしたが、昭和のはじめ、わたしの子どもの頃には、昼間の銭湯には、伊藤博文がはじめて臣博文とやらかした時のことを、覚えている老人たちが集まっていた。禁裡様から天子様、天皇陛下へ移り変ったことをかれらは知っていて、天皇ファンが多かったが、大した出世をしたものよ、と感心されてもいた。一代の成り上り者明治天皇を偉いとほめ、息子の大正天皇の精神異常のエピソードをさまざまに公言する老人たちの寄合は、数年後にはもう銭湯からも姿を消した。安政 · 万延 · 文久生まれが急速にいなくなったからである。
天皇様をお作り申したのは我々だとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことであった。近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったものの天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家という考えは、思想として獲得されたものであり、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。だから彼らが求めている天皇と現実の天皇がいくらか融和できるうちはよいが、その矛盾が激化すると、天皇を取り替えてしまうほかなくなる。我が家に空襲で焼けるまであった孝明天皇の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた蜜月時代にもたらされた物だろう。騎兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応二)の暮れに、孝明天皇は謀殺されてしまった。もちろん仕組んだのは江戸幕府ではない。それは志士側で、天皇が倒幕の障害になり始めたからである。今日ではもうそのことは、公然の秘密となっている。
(益田勝実「天皇史のー面」『終末から』1974年8月号)