歴史は人類に神の意思を教え、価値と理想を教え、そして未来の希望を与えてきた。しかし歴史の偽造者 -----「歴史の女神」を裏切った者には女神の怒りが与えられた。
日本列島は縄文晩期以降、屢々大規模な民族移動を受け容れ、民族それ自体も変質してきた。ところが、唐の帰化人であった藤原氏は、倭人の中国支配史を抹殺して、「われわれは日本列島が大陸から分離して以来、常に単一民族であった」という虚構の史書を作り、良く言えば民族の同一性を保つことができた。しかし、このような歴史は、努力すればするほど、あがけばあがくほど、周辺諸族を差別して、軋轢をおこすことになる。
一部の者は、「譬え嘘の歴史であっても、それを信じつづけたことが重要である。今さら本当の歴史を持ち出す必要はない。この程度の国民にはこの程度の歴史でいいではないか」などという。一見理論的な意見のようだが、こういった人に限って、文化勲章をもらった某教授曰く、とか言って悦び、自分の説がムダになるような新しい学問を生理的に嫌う。
日本史は『書紀』と『古事記』だけで十分だとか、『古事記』は人類最高の思想書だなどと言って、他のー切を読もうとしない。しかし調べてみると、中国史や朝鮮史は漢字が多くて読めないだけなのである。歴史学における近隣諸国史の重要性を説明しても、聞く耳もないし、突然怒り出したりする。要するに受け売り屋、ダイジェスト文化人なのである。
そもそも海陸シルクロードにおける民族移動の歴史は、われわれにとって周辺諸族との連帯の記憶であり、友好の根源であった筈だ。
いかなる人類も移動する生物であった。人類が移動の歴史を捨てることは、人類が人類であることを否定することである。田中事件で見るように、先祖の地や近隣諸国の人々の憎悪を生み、排日の嵐を激化させている現状は、「嘘の歴史」が作り出した常識がつづく限り、決してやむことはない。そこでは、日本人対異民族という関係だけが存在し、人間対人間という関係は成立しないのである。
今日、国家の絶対性は急速に薄くなっている。
江戸時代、藩の外には別の法律があり、国家とは藩であり、幕府とは今日の国連のような性格であった。しかし、内外経済の変化はー瞬にして藩幕体制を崩壊させてしまった。今日の国家もやがて同じ運命を辿るであろう。
具体的に云うと、世界連邦を作らなければ核の脅威は絶滅しない。人類に未来と希望を取りもどせないのである。そして世界連邦を作るためには、古代世界文明を集約することに成功した日本の歴史が理想的な先例であり、日本人が「本当の歴史を取り戻す」ことが人類にとって今日ほど必要な時代はないのである。
ところが、日本の史学界は多分に芸能的でいわば家元制度が確立している。家元の作品が無価値になるような作品が決して生まれないように、シャーマニズムによって築かれた日本史の大系が、実はまったくのペテンであり、『日本書紀』は包装紙に日本史と書いただけの、別の国の歴史だということを、家元の徒弟である現在の大学教授たちに認めさせるのは、それこそ八百屋でバイブルを求めるようなのものでしかない。
明治以降、日本のアカデミイは欧米文明に追いつくため驚くべき業績をあげた。しかし、このなかで日本史の教授たちだけは、学問の進歩に抵抗し、文明を退化させるために努力しつづけたのである。
このような抵抗のなかで歴史的真実を追求することは、個人の能力を超えるものである。しかし人々が、虚構の歴史と歴史学者を見捨てさえすれば、歴史的真実は僅かずつでも近づくであろう。真実は常に人類のものであり、学問は常識を否定することによって進歩してきたのである。
(鹿島曻『日本ユダヤ王朝の謎(続)』新国民社、1984年)