畑倉山の忘備録

日々気ままに

英国からみた二・二六事件

2017年02月26日 | 歴史・文化

明治維新の頃から情報収集してきた英国は日本の権力構造を見抜き切っていた。

そして、英国は秩父宮について、もう一つの情報も握っていた。

1938年2月、ネヴィル・チェンバレン内閣のイーデン外務大臣が退任した。後任はエドワード・ハリファックス卿(きょう)、オックスフォード大学を卒業し、下院議員から閣僚を歴任してきた名門出身の人物だ。

就任直後、彼の元に、ある十ページの文書が届けられた。タイトルこそ、「日本支配層に於ける水面下の分裂、その内政・外交上の影響」とそっけがないが、中身は、皇室の深刻な派閥抗争を伝えるものだった。それによると、宮中では、それぞれ昭和天皇と秩父宮を中心とする二大勢力が対立を深めているという。

天皇を支持するのは元老を始め、薩摩・長州の藩閥、資本家、大地主など、すでに富と権力を保持する者だ。欧米と友好関係を保ち、現体制を維持することが彼らの利益に適(かな)うことでもあった。

これに対し、秩父宮を取り巻いたのは、桜会、神兵隊など陸軍の将校、北一輝など右翼運動家、今の天皇に不満を抱く皇族だ。彼らにとり、現状を打破するには、クーデターでの体制転覆も止むを得なかった。

事態をややこしくしたのは、昭和天皇と秩父宮の母、貞明皇太后だった。

大正天皇が崩御した時、皇后は四十代だったが、ハリファックス卿ヘの報告は、彼女の異性関係(注・英文で illicit relation)まで記述している。

また、貞明皇太后が秩父宮をことさら贔屓(ひいき)し、かわいがっていた事、しばしば昭和天皇に政治的助言を与ヘ、それを天皇が嫌がっている事などを紹介した。

昭和天皇は周囲の環境の産物であるとして、こう指摘した。
「自分の地位の脆(もろ)さ、目前や見えざる敵の存在に、昭和天皇は精神的に不安定になり、疑り深くなっている。(中略)二・二六事件は、力づくで彼を追放しようとして失敗した企てだった」(1938年3月12日、英国外務省報告)

二・二六事件の当日、一報を受けた昭和天皇が、悲痛な声で「とうとうやったか、……私の不徳のいたす所だ」とつぶやいたことは、戦後、侍従が証言している。

また、二・二六事件の決起将校と秩父宮が結びついていたとする「秩父宮黒幕説」も流された。

これれらの報告書は、秩父宮を黒幕と名指しこそしないが、彼を擁立して体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると結論づけている。

ジョージ六世戴冠式(たいかんしき)で英国は秩父宮を最大級の国賓として迎え、日英友好を演出した。その華やかな会場の裏では天皇家の内幕を冷徹に見つめていたのだった。

(徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮文庫、2009年)