皇太子(明仁)の吹上訪問は、毎週日曜日ということになった。ただし、小金井に学習院が移って、東宮仮御所がそこに完成した後は、1カ月にー度ぐらいとしたい、という条件がついた。
吹上訪問は、限られた時間内ではあったが、親子の気持が相通じるものだったろう。『側近日誌』(昭和20年)11月26日には、天皇(裕仁)と皇太子のこんな問答が残されている。
皇太子「共産党は取締りを要せずや」
天皇「以前は治安維持法等によりて取締りたるが、これは却って彼等を英雄化する事になる。取締らずとも有力化する虞れなし」
皇太子「警察官は随分悪いものが多きにあらずや」
天皇「中には悪い者もあろうが、一概にそー云う訳には行かぬ」
皇太子「共産党が議会にて有力化するにあらずや」
天皇「新聞には色々書くも、有力団体となるとは思わず」
10月4日、GHQは「一切の政治犯の釈放、特高警察の廃止、思想取締及び政治犯に関するー切の法令の撤廃」を指令した。これに沿って日本共産党幹部16人が、10日釈放された。雨上がりの東京・府中刑務所前には、幹部の釈放を歓迎しようと、多くの家族や同志、報道陣が詰めかけていた。
午前10時、"獄中十八年"の徳田球一、志賀義雄らが刑務所の門から出て来た。午後、直ちに東京・新橋の飛行館で開かれた「自由戦士出獄歓迎大会」に出席、運動に倒れた同志の思い出に涙を流しはしたが、今や共産主義の時代が来ると絶叫し、天皇制打倒を訴えた。
1922年の結党以来、「君主制の廃止」を網領に掲げてきた共産党は、長い非合法時代をくぐって、初めて公然と天皇制糾弾の声を挙げることができた。その後押しをしてくれたのがGHQであった。歓迎大会の後デモ行進に移ったが、お濠端のGHQ前まで来ると、「マッカーサー元帥万歳」を叫んだ。
労働争議が多発し、赤旗とムシロ旗が各地で林立した。共産党指導のデモには、必ず「天皇制打倒」の文字があった。六年生の皇太子も、共産党に関心を持つのは当然であった。
(木下道雄(著) 高橋紘(編)『側近日誌 侍従次長が見た敗戦直後の天皇』中公文庫、2017年)