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畑倉山の忘備録

日々気ままに

最後の陸軍大臣・阿南惟幾(2)

2017年08月12日 | 歴史・文化
4月9日——東郷(茂徳)が鈴木(貫太郎首相)から戦争終結実現への白紙委任状をとりつけて外相に就任した日——陸軍は本土決戦のための陸軍高級人事を発表した。前陸相杉山元元帥は第一総軍(東北、関東、東海、総司令部は東京市ヶ谷台)の司令官に、畑俊六元帥は第二総軍(近畿、中国、四国、九州、総司令部は広島)の司令官に、河辺正三(まさかず)大将は航空総軍司令官に、河辺虎四郎中将は参謀次長に、それぞれ任命された。参謀総長は昭和19年7月以来引き続き梅津美治郎大将である。

このとき軍務局長に就任した吉積(よしずみ)正雄中将は、参謀本部第一(作戦)部長である宮崎周一中将に、「勝利の目途如何(いかん)」と質問したところ、宮崎は「目途なし」と答えた。「然らば速やかに終戦に持っていくべきではないか」との質問に対して、宮崎は統帥部は継戦あるのみ、統帥部自ら戦争を放棄することは出来ない」と答えたという。

作戦の責任者である第一部長が「勝つ見込みは全くない」と言い切っているこのとき、国民は竹槍で敵と闘う訓練を強制されて、空襲の度に栄養失調の弱い足をひきずって逃げまどい、多くが無惨な死を遂げていた。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(1)

2017年08月12日 | 歴史・文化
昭和20年にはいって、日本本土に対する空襲は激化の一途をたどっていた。2月25日、東京は「気象台開設以来第二位に記録される30センチの積雪」という大雪のなかで、大空襲を受け、神田一帯は火の海となった。続いて3月10日零時過ぎからB29、334機(大本営発表130機)により、東京は夜間初の焼夷弾による大空襲を受け、約25万戸が焼失し、死傷2万、罹災者100余万という被害を受けた。

10日は陸軍記念日だった。陸軍当局は軍楽隊を繰り出し、煙と悪臭と焼死体が残る焼野原の大通りに、髪を焼かれ眉をこがした避難者やリヤカーが往(ゆ)きまどう中を縫って大行進を行った。どういう神経がさせた行為であったのか。

その後も12日名古屋、14日大阪、17日神戸と、息つくひまもなく大空襲は続く。米軍は占領したばかりの硫黄島を、B29を掩護する戦闘機や中型爆撃機の基地として、日本本土空襲の威力を一段と強めていた。

3月18日、天皇は東京の戦災地を巡視した。身一つに焼け出された住民は遠ざけられていたものの、一望の焼野原は、常に生命の危険にさらされている国民の絶望的な状態を如実に示していた。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)




悠久の生命哲学

2017年08月11日 | 歴史・文化

沖縄の民話を読んでいて「オヤ?」と思うことがある。ただ食っては寝ている怠け者が、思わぬことから幸運を手に入れて安楽な生涯を過ごし、勤倹力行して労働に励んでいる者が思わぬ災害で大損をする、という小話が幾つも出てくるので、働くことが最上の美徳だとマジメに育ってきたわたしなどは、なにかバカにされたようで気に引っかかてしまうのである。

しかしよく考えてみると、長い年月の間、大自然の猛威に耐え、薩摩や大陸からの征服者に屈従を強いられながら生き抜いてきた沖縄人にとっては、真面目に働きさえすれば幸運が訪れるというのは、全くナンセンスな幻想でしかなかっただろう。

彼らはそうした現実に無理に逆らおうとはしない。力を持つ者には從っていればいい。金を持ってる者からは貰えばいい。だからといって、その権力者たちがどんなに威張ったところで、沖縄の土は自分たちのもので、この土の上に住む〈主人〉はオレたちなのさ——といった悠久の生命哲学のようなものがどっしりと根を下ろしているようである。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)

 


生死を睹けた対決

2017年08月11日 | 歴史・文化

人は交通事故などでは呆気なく昇天してしまうが、人の力で〈殺す〉となると、これは大変な仕事になる。日本刀で一刀で斃(たお)すというのは、据物でないかざり、どんな名人でも不可能に近い。

第一刀で刃こぼれが生ずるし、血の脂がついてしまうので、第二撃以後は斬ることも突くこと出来ない。斧のように叩きつけて使うしかない。

ピストルの場合も、やくざの話では、45口径以下ではー発で致命傷を与えるのは至難の業であるという。小口径のピストルは5メートル離れたら、めったなことでは当らない。それで乱射乱戟になってしまう。

〈殺人〉の現場が往々にして目をそむけるような凄惨な光景になるというのも、加害者の方が恐怖感に襲われて、盲目状態に陥ってしまうからである。人間の生命力というのは、それほど強靭なものだ。

生死を睹けた対決というのは、全生涯のエネルギーを数秒間で使い果たしてしまうほど、激しい気力を必要とする。

戦時中、大陸や南方を転戦した陸軍の中隊長だった人に聞いた話では、内地から補充できた新兵がはじめて鉄砲で敵兵を射ち斃すと、どういうわけか死体の側にあぐらをかいて、煙草を一服するものだ、と言う。ハンター気取りでポーズをとっているわけではない。生きていることと死んだことの画然とした認識が喪われてしまい、敵兵である死者に奇妙な愛着が生じて、離れ難くなってしまうためらしい。一種の酩酊状態で、それもやはり〈殺人〉という異常な行動が、どれほど人のエネルギーを奪うかのひとつの証左だろう。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)


海軍中将・大西滝治郎

2017年08月09日 | 歴史・文化

歴史上の人物を探してみても、悲劇的な末路を遂げた人物の多くは勝利を夢みつつ失敗してしまった連中ばかりで、たとえば西郷隆盛なども破滅を意識して鹿児島で挙兵したわけではない。こうして、厳密に選んでゆくと、「破滅の美学」にふさわしい事例はじつは皆無ではないかとさえ思われてしまうのだが、わたしの知る限り、たったひとり、そうとしか呼びようのない人物がいる。

過ぐる太平洋戦争末期に、悪名高き「特攻」(特別攻撃隊=人間爆弾)を発案し実行したといわれる、海軍中将・大西滝治郎その人である。

大西は、「特攻」は捷一号作戦のみに限る、と言明していたが、敗勢打開の妙策を持たない陸海の首脳は、大西の尻馬に乗って「特攻特攻」と念仏のように唱えつづけた。

結果、陸海併せて五千人もの若者たちが「特攻」死した。大西はそのすべての責任は自分にあると、自覚していた。その自覚はやがて「二千万人特攻」論に発展していった。

〈大西の思想〉を探るため、・・・・児玉誉士夫氏に取材を要請した。児玉氏は晩年の大西中将に形影相伴うごとく仕え、戦後には淑恵未亡人を自宅に引き取って世話を看つづけた人である。児玉氏は快諾して下さり、数時間にわたって終始謹厳誠実な口調で、大西中将の苦衷を語ってくれた。

「二千万人特攻論は当時でも狂気の沙汰と言われて、大西さんは戦後も狂信的な徹底抗戦派の首魁にされてしまったが、合理主義者の大西さんがそんなことを心底から考えるわけがない。だいいち二千万人もの人間を特攻にだすほどの飛行機も兵器も日本にはなかった。大西さんの直意は、天皇陛下(昭和天皇)に最前線に立って玉砕していただきたい、ということだったと思う。その際は大西さん自身はもちろん、海軍大臣も軍令部総長も首相以下の閣僚も、すべて陛下に供奉して死を倶(とも)にする。そうなってこそはじめて戦争に終止符を打ち、新生日本を誕生させることが出来る。皇統は皇太子(現天皇)がご健在だから心配ない。とにかくこの戦争に責任を持つ成人男子のすべてが死ななければ、民族の蘇生など出来ない、というのが大西さんの結論だった。二千万人特攻論はそのための名目だった。なん千人もの部下将兵を特攻に送り出した大西さんとしては、そう考えなくては居ても立ってもいられなかったのでしょう。」

上(かみ)御一人に御盾として身命を擲(なげう)つのが本分である軍人が、その至尊に「死」を慫慂(しょうよう)するのは大不忠である。末代まで辱(はじかし)めを受けても甘んじなければならない。それでもそれを主張しなければ、「天皇陛下」の御名のもとに「特攻」を命じた大西としては、軍人であるより以前に、男として、人間として、一歩も引けなかったのであろう。

自分の命はもちろんのこと、海軍も、国家も、天皇のお命までもすべてを賭けて、民族の再生という後世の「勝利」を掴もうとした大西の情念は、アナーキーといえるほど純化されたものであった。これを「破滅の美学」と言わずしてなんと呼べるだろうか。

しかし大西の主張は軍首脳にまったく黙殺され、生き残り得た天皇の御聖断によって一気に大戦の幕は閉ざされた。

敗戦の比の翌日、昭和20年8月16日、大西は渋谷区南平台の官邸二階の八畳間で、古式にのっとり、軍刀で腹十文字に掻き切り、咽喉と心臓部も刺して自刃した。だが絶命したのはそれから十数時間後であった。苦悶の息のうちで大西は駆けつけた児玉たちに、「生き残るようにはしてくれるな」と語気鋭く叱った、という。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)



伊藤博文暗殺考

2017年06月20日 | 歴史・文化

「伊藤博文を暗殺したのはのちに朝鮮の英雄となった安重根ではなく、ロシア陸軍の狙撃兵であった。伊藤とその仲間たちに対する弾痕を合計すると12発で、7連発の安のピストルの弾丸よりも多かった。かつて閔妃虐殺のとき、伊藤は真犯人をかくして関係ない朝鮮人を犯人にしたてて処刑させたが、安重根もこの手で犯人に仕立てられた。このことをいうと朝鮮人の間では評判が悪いが、事実を事実として認めなければ真の友情はない。」(鹿島曻)

「伊藤を倒したのが、ハルビンで安重根の撃ったブローニングの拳銃弾ではなく、随行した貴族院室田義文がいうようにフランス騎馬銃であったとするならば、それは明石元二郞が指揮する、韓国駐在日本憲兵隊の手先である朝鮮人、つまり韓国憲兵隊補助員ではなかったか、と考えられる。
(中略)
ハルビンの伊藤暗殺犯に疑義を抱いた室田義文貴族院議員は、駅の二階の食堂からフランス騎馬銃によって狙撃がおこなわれたと考えた。ということは、ロシア警備隊が注意を払うはずの、二階の食堂に陣取るために、ロシア警備隊に賄賂をつかませるなど、警備隊の協力がいる。そうした謀略にかけて、明石元二郞ほどの人材がいるだろうか。」(上垣外憲一)

「安の主張は、次に引用する伊藤博文射殺の理由——「伊藤博文罪状十五ヵ条」に集約されていた。
第一 今より十年前伊藤さんの指揮にて韓国王妃を殺害しました。
第二 今より五年前伊藤さんは兵力をもって五ヵ条の条約を締結せられましたが、これは韓国にとりては非常なる不利益の箇条であります。
第四 伊藤さんは強いて韓国皇帝の廃位を図りました。
(中略)
第十四 今を去る四十二年前、現日本皇帝の父君にあたらせらるるお方を伊藤さんが弑逆(しぎゃく)しました。そのことは皆、韓国民は知っています。」(斉藤充功)

「弁護士水野吉太郎は、安重根に刑の執行を見届けるように望まれたが、その気になれず、安重根が書いた「志士仁人ハ身ヲ殺シテ仁ヲ成ス」(高知県・小松亮所蔵)の書を生涯大切にし、その死を惜しんだ。また看守千葉十七は看守として囚人安重根に接するうちに、信服するようになり、ある日、安重根に書を書いてもらえないだろうかと依頼した。しかし安重根は今はその気になりませんと断ったが、死刑執行の朝、「国ノ為ニ身ヲ捧ゲルハ軍人ノ本分ナリ」と書いて千葉に贈った。安重根が死刑判決後、頼まれた書の揮毫は二百枚とも三百枚ともいわている。彼は依頼された人の人柄と立場に応じて、自分の心と共鳴する辞句を選んで見事な書を残している。」(中野泰雄)

「安重根の夥しい数の遺墨は、それ(監獄における安の待遇が特別のものであったこと)を如実に物語っている。遺墨は、ありあわせの紙や筆でなく、書家が使う絹の白布、または紙に書いてある。死刑囚に、しかも自国の元勲を殺した属邦の罪人に、おおっぴらに墨と筆、白布を差し入れて揮毫を許す獄舎が、どこの世界にあろうか。また揮毫を求めたのが排日派の韓国人ならばともかく、安重根を裁いた当人、または関係者たちなのである。常識では考えられない事態が、旅順監獄で起きていたのである。この異常な事態は、何を意味するのか。おそらく、平石(氏人)、真鍋(十蔵)、栗原典獄そして千葉十七らまでもが、陰謀を薄々察しながら、その人身御供となる安重根に、心から同情を寄せていたに違いないのである。」(大野芳)

「明石元二郞または彼の代理人が旅順の牢獄に入る前の安重根に「十五条」からなる伊藤博文への告発状を渡し、取引をした。安重根はこの取引に応じた。一方、明石元二郞は裁判関係者(ほとんどが土佐出身)に、それとなく田中光顕が作成した「十五条」を安重根が提出する前に教え、特に「第十四条」を裁判までカットさせるなと命令した。
 それゆえ、劇的な場で、それとなく誰でも分かる瞬間がやってきて、タイミングよく、伊藤博文が逆賊であることを人々は知るようになった。孝明天皇暗殺は今でこそ公然の秘密とされているが、明治四十三(1910)年の時点で、伊藤博文が孝明天皇を暗殺したと知るものは一人しかいなかった。これを計画したのは岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、そして、実行したのが伊藤博文。この伊藤博文を補助したのが吉井幸輔(友実)と田中光顕。田中光顕以外は全部死んでいる。(中略)
 伊藤博文は非戦論者であった。日清戦争のときも勝海舟とともに非戦論を説いた。日露戦争にも反対した。そんな伊藤博文を殺そうとしたのは玄洋社の頭山満だった。彼は絶えず命を狙われ続けた。そして遂にハルビン駅頭で倒れた。(中略)
 伊藤博文が暗殺され、日本は韓国を併合する。大アジア主義を唱える玄洋社の時代がやってきたのである。平成の今日、頭山満を称える声が高まりつつある。
 結論を簡単に記すことにしよう。
 伊藤博文を暗殺したい男がいた。頭山満、内田良平、明石元二郞。そしてもう一人いた。それは伊藤博文に恨みを抱く田中光顕。暗殺の費用は田中光顕が出した。その金の出所は、大谷光瑞ならびに三菱財閥。明石元二郞が作戦を練り、暗殺に成功する。のちの裁判は田中光顕が指揮した。この二人の暗殺の指導者は未だ闇に隠れたままである。」(鬼塚英昭)


サンフランシスコ講和条約の調印

2017年05月22日 | 歴史・文化

対日講和条約の米英共同草案がまとまった直後の1951年7月9日、ダレスは、吉田首相に書簡を送り、講和会議に吉田自身が出席してほしいこと、講和全権団の構成は「超党派的なもの」が望ましいことなどの意向を伝えた。

社会党は、平和条約と安保条約をめぐって党内で激論中であった。講和全権への参加要請にたいしては、「平和三原則の党是により参加できない」と政府に返答した。参議院緑風会は参加の方針を決めた。

国民民主党は、三木武夫幹事長以下の野党派が反対、保守連繋派が賛成という複雑な党内情勢で折衝が難航したが、結局、参加の方針を決めた。緑風会も国民民主党も、臨時国会で政府が経過説明を行なうことを要求した。

8月16日から18日までの三日間の会期で臨時国会が開催された。このとき、吉田は、アメリカ軍の日本駐留は日本側から希望したものであると述べた。

購和会議への全権委員は、首席全権吉田茂のほか、自由党の星島二郎と池田勇人、国民民主党の苫米地義三、緑風会の徳川宗敬、日銀総裁一万田尚登が任命された。一行は8月30日に東京を出発した。

9月4日からサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された対日講和会議は、講和問題を協議する場ではなく、調印のための儀式にすぎなかった。

トルーマン大統領みずからこの会議に出席して演説し、対日講和は「和解」の講和であること、アメリカ国民は「パール・ハーバー」を記憶しており、両国の友好のためには努力が必要であること、アメリカの最大の関心は日本を侵略から保護するとともに日本が他国の安全を脅かさないようにするという点にあることなどを強調した。

ソ連代表グロムイコは、中国(北京)代表の参加問題を取り上げるように迫り、ポーランドとチェコスロバキアの代表がこれに同調した。議長をつとめたアメリカのアチソン国務長官は、それは議題と関係ないと述ベ、採決によって否決した。

グロムイコは、満洲、台湾を含む中国全土に北京政府の主権を認めること、樺太、千島について全面的にソ連の主権を認めること、小笠原、琉球は日本の主権の及ぶ範囲に含めること、講和発効後90日以内に連合軍は日本を撤退し、いかなる国も日本に軍事基地をおかないことなどを提案した。

グロムイコはまた、日本の軍備は自衛に必要な限度とし、地上軍15万人、海軍2.5万人、7.5万総トン、空軍は戦闘機200機、輸送機など150機、兵力2万人とし、戦車200台とすることなども提案した。

各国代表の演説を終わり、9月8日に調印式が行なわれた。日本を除いて51カ国が会議に参加したが、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドの三カ国が署名を拒否し、48カ国が署名した*。

署名した国の数は多いが、連合国側に同調した中南米諸国やドイツと戦争をした関係で日本にも宜戦したヨーロッパ諸国などが多数を占めていた。日本と直接戦火を交えた国は、アメリカ、イギリスおよび英連邦諸国、オランダなどと若干の東南アジア諸国に限られていた。中国は大陸側・台湾側のいずれの政府も招請されず、インドとビルマは、前述のように、中国代表権問題などにたいする不満を表明して会議に参加しなかった。

平和条約調印式終了後、同じ9月8日のうちに、サンフランシスコ市内のアメリカ第六軍司令部で日米安全保障条約の調印が行なわれた。日本側は吉田首相一人が署名、アメリカ側はアチソン、ダレスなど四人が署名した。吉田は、平和条約以上に安全保障条約には反対の空気が強いことを考慮して、自分一人が責任を負うかたちにした。(中略)

1952年1月26日、アメリカからラスク特使が来日し、日米安保条約に関連する行政協定の交渉が開始された。野党は行政協定反対の共同声明を出し、国会での審議を提案したが、2月に衆参両院で否決された。2月28日、行政協定が調印され、安保条約の基礎が固められた。このときの行政協定は、国会の審議・承認なしに安保条約発効と同時に発効することになった。

アメリカの上院が対日平和条約と日米安全保障条約を承認したのは1952年3月20日であった。

* 日本以外の調印国は以下のとおり。アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カンボジア、カナダ、セイロン、チリ、コロンビア、コスタリカ、キューバ、ドミニカ、エクアドル、エジプト、サルバドル、エチオピア、フランス、ギリシャ、グァテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インドネシア、イラン、イラク、ラオス、レバノン、リベリア、ルクセンブルグ、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パキスタン、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、サウジアラビア、シリア、トルコ、南アフリカ連邦、イギリス、アメリカ、ウルグアイ、ベネズエラ、ベトナム。

(正村公宏『戦後史(上)』筑摩書房、1985年)


憲法改正をなぜ急いだか

2017年05月03日 | 歴史・文化
マッカーサーは、なぜ、徹夜で(憲法改正)草案を作らせるほど急いだのだろうか。

連合国はミズーリ号艦上で降伏文書に署名はしたものの、占領下日本の管理は事実上、米国の単独統治の感があった。45年12月、米英ソ三国外相会議がモスクワで開かれ、米国独占を排除するためワシントンに極東諮問委員会の設置を決めた。その後、極東委員会(FEC)と改められ、拒否権がある米英ソ中4ヵ国のほか計11ヵ国で構成され、ワシントンに置かれた。FECとセットのかたちで東京に対日理事会が設けられた。第1回会議が(46年)2月26日ワシントンで開かれ、それに間に合わせようとしたのである。占領行政の主導権はFECに移ってしまい、下手をすればマ司令官の天皇温存策という目論見は、崩れてしまうのだ。

それに大事件が起きた。2月27日の『読売報知』に「皇族方は挙げて賛成 陛下に退位の御意思 摂政には高松宮を 宮廷の対立明るみへ」いうトップ記事が出たのである。筆者はAP通信のラッセル・ブラインズで、東久邇宮のインタビューをもとに書いたのだ。内容は、天皇自身は適当な時期に退位したい、理由は自分には道徳的、道義的な戦争責任があるからだ、というものだった。

皇族で首相を務めた人物が天皇の心情を公にしたことは、マッカーサーにとって大打撃だった。

3月5日、木下(道雄侍従次長)はマッカーサーが憲法案の作成を急がせるのは、「天皇退位の件」がもとだということを聞いた。(中略)

『芦田均日記』にも、「退位反対は幣原と宮相のみだとか(東久邇宮が)申されたことは、マッカーサーに一大打撃である、と総理は繰り返し言われた」とあり、米国側は11日迄は待てぬ、米国側の原案を採用するか、それでなければ天皇のpersonも保障できぬ、とまで言ったと、木下と同じ内容の記述がある。

新聞の天皇退位説を読んで、天皇は自分の気持ちを3月6日、木下に語っている。

「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日の様な苦境を味わわぬですむであろう」が、退位して皇太子が即位すれば摂政がいる。秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若くて無理である。「東久邇さんはこんな事情を少しも考えぬのであろう」と宮の軽率な言動を非難した。

探拠のない退位説が広く知られれば、マ司令官の意図とは大きく違い、天皇制の否定につながる。第一、米国務省内にも天皇が退位すれば戦犯として逮捕するという意見もあったほどだ。FEC構成国11ヵ国の中には、拒否権があるソ連ばかりではなく、オーストラリアも天皇戦犯・廃止説を唱えており、ほかにもオランダなど同調する国が出るおそれがあった。だから一刻も早く憲法に明記して天皇制を安定させたかったのである。

憲法はポツダム宣言にある通り「自由に表明されたる国民の意思に基づ」いて作られた。天皇の軍事大権は廃され、政治的な活動・発言さえしない。戦前の姿から一変した天皇像を前文に続く第一章に書き込み、第二章では戦争放棄を謳っている。日本は軍備を放棄し、日本民族の象徴として"人間天皇"を戴いている。天皇を温存しても国際平和には何の差障りもないことを、マッカーサーは天皇戦犯説を採る国々に示すのが狙いだった。

2回目のFEC総会は3月6日だった。出来立ての日本国憲法を持って、ハッセーが特別軍用機でワシントンに飛んだ。各国代表から質問があれば、それに応対するのが彼の役目であった。(中略)マッカーサーは第一条と第九条をセットにして、中央突破を図ったのだ。だから絶対変更は許さないと言ったのである。こうした動きは東京裁判の開廷が近づき、天皇無罪論に備える“潔白の証明”づくりなどとも連動するものであった。

(高橋紘『昭和天皇 1945-1948』岩波現代文庫、2008年)


英国からみた二・二六事件

2017年02月26日 | 歴史・文化

明治維新の頃から情報収集してきた英国は日本の権力構造を見抜き切っていた。

そして、英国は秩父宮について、もう一つの情報も握っていた。

1938年2月、ネヴィル・チェンバレン内閣のイーデン外務大臣が退任した。後任はエドワード・ハリファックス卿(きょう)、オックスフォード大学を卒業し、下院議員から閣僚を歴任してきた名門出身の人物だ。

就任直後、彼の元に、ある十ページの文書が届けられた。タイトルこそ、「日本支配層に於ける水面下の分裂、その内政・外交上の影響」とそっけがないが、中身は、皇室の深刻な派閥抗争を伝えるものだった。それによると、宮中では、それぞれ昭和天皇と秩父宮を中心とする二大勢力が対立を深めているという。

天皇を支持するのは元老を始め、薩摩・長州の藩閥、資本家、大地主など、すでに富と権力を保持する者だ。欧米と友好関係を保ち、現体制を維持することが彼らの利益に適(かな)うことでもあった。

これに対し、秩父宮を取り巻いたのは、桜会、神兵隊など陸軍の将校、北一輝など右翼運動家、今の天皇に不満を抱く皇族だ。彼らにとり、現状を打破するには、クーデターでの体制転覆も止むを得なかった。

事態をややこしくしたのは、昭和天皇と秩父宮の母、貞明皇太后だった。

大正天皇が崩御した時、皇后は四十代だったが、ハリファックス卿ヘの報告は、彼女の異性関係(注・英文で illicit relation)まで記述している。

また、貞明皇太后が秩父宮をことさら贔屓(ひいき)し、かわいがっていた事、しばしば昭和天皇に政治的助言を与ヘ、それを天皇が嫌がっている事などを紹介した。

昭和天皇は周囲の環境の産物であるとして、こう指摘した。
「自分の地位の脆(もろ)さ、目前や見えざる敵の存在に、昭和天皇は精神的に不安定になり、疑り深くなっている。(中略)二・二六事件は、力づくで彼を追放しようとして失敗した企てだった」(1938年3月12日、英国外務省報告)

二・二六事件の当日、一報を受けた昭和天皇が、悲痛な声で「とうとうやったか、……私の不徳のいたす所だ」とつぶやいたことは、戦後、侍従が証言している。

また、二・二六事件の決起将校と秩父宮が結びついていたとする「秩父宮黒幕説」も流された。

これれらの報告書は、秩父宮を黒幕と名指しこそしないが、彼を擁立して体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると結論づけている。

ジョージ六世戴冠式(たいかんしき)で英国は秩父宮を最大級の国賓として迎え、日英友好を演出した。その華やかな会場の裏では天皇家の内幕を冷徹に見つめていたのだった。

(徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮文庫、2009年)


「二・二六事件」の青年将校

2017年02月26日 | 歴史・文化

「二・二六事件」の首謀者とされる元陸軍一等主計磯部浅一(あさいち)の墓は、南千住の回向院(えこういん)にある。ここは江戸時代の刑場跡で、橋本左内など幕末の志士たちの墓が多いが、磯部の墓は高橋お伝や鼠小僧次郎吉の墓石が並ぶ隅にある。黒御影(みかげ)の墓石の表には、磯部の名と並んで妻登美子の名も刻まれてある。磯部は昭和12年8月に銃殺刑場の露と消え、登美子は四年後の昭和16年3月、肺疾患で亡夫のあとを追うように亡くなった。磯部は享年(きょうねん)32歳、登美子は28歳だった。

二人は当時日本の統治下にあった朝鮮で知り合った。登美子の家は昭和初年の不況の余波で破産し、登美子は弟の学資稼ぎのために料亭のお座敷勤めに出ていた。磯部はその境遇に同情して、連隊長や同僚将校を口説いて強引に登美子を妻に迎えた。そのころのエリートであった陸軍士官学校出の将校の結婚には厳しい条件があって、水商売の女性を伴侶とするのは出世を捧に振るようなことであった。磯部があえて芸者の登美子を妻に選んだというのも、実は彼自身が山口県の貧しい左官の三男で、小学校しか出られず、篤志家の援助で苦学を続けたすえに陸士に進学出来たからだった。だから磯部は社会の不平等を身をもって味わい、その差別をなくすために率先(そっせん)実行していたのである。

昭和維新運動の先駆者のひとりだった元陸軍大尉大藏栄一氏(故人)に聞いた話では、磯部はアジトでの打合せのときはキチンと正座したままで、議論がなん時間つづいても膝を崩すことはなかったという。また現役の隊付将校だったころ、朝の出勤で営門をー歩入ると相手が下士官であれー兵卒であれ、だれに対しても平等に挨拶の礼をした。演習の際には部下隊員を輪番制に当日の指揮官として選び、将校である磯部も一等兵の命令に従ったという。

こういう人間味は磯部だけに限らず、蹶起将校のだれもが持っていたもので、安藤大尉は自分の俸給を割(さ)いて貧しい部下の実家ヘの仕送りに当ててやり、野中大尉は炎天下の営庭の草むしりを部下の兵たちは休ませて自分ひとりで黙々とやっていた。香田大尉、栗原中尉、中橋中尉などは軍務の合い間を縫って、地方の農村の解放運動に挺身していた。当時の農村はごく少数の大地主が支配していて、実際に働いている農民たちは小作人と呼ばれて収穫のほとんどを収奪されていたのである。

「二・二六事件」はそういうものの延長線上で決行された。それというのも、陸軍は中隊単位で行動するのがしきたりで、中隊長(大尉または中尉)は兵士たちとおなじところに起居し、食事もおなじものを食べ、戦場に赴けば兵たちとともになん十里も歩く。不幸にして傷ついた兵が息を引きとるときは、中隊長が親代りになって兵の手を握りしめ、臨終を看(み)とってやるのである。だから兵士ひとりひとりの家庭環境の悩みもすべて聞きとどけてやらなければ、中隊長として命令ひとつ下せないというのが将校たるものの自覚であった。そうした純真な二十歳台の将校たちの良識と煩悶は結局社会体制を変革する以外に兵たちの後顧(こうこ)の憂いをなくす途(みち)はない、という考えに帰着してゆくのである。

事件で殺された重臣たちは、国家にとって有為な人材であったことに疑いはない。しかし彼等はー方では伯爵とか子爵といった華族に列する身分であり、あるいは軍の最高位に立った人たちであった。彼等とその家族に与えられた豪邸や栄耀栄華(えいようえいが)をきわめた生活は、前述した小作人たちや貧しい兵士たちの家族の膏血(こうけつ)を搾(しぼ)りとって支えられていたものだった。流血の惨劇はむごたらしい。しかし貧しいゆえに娼婦に身を落として自殺した娘、戦場で死んでゆく兵士たち、それらの流血はもっとむごたらしい。そして金城鉄壁の既成秩序を打ちやぶって平等な社会を築くには、前者の流血を選ぶしかないというのが、蹶起将校たちの結論だった。

1945年の敗戦後、「二・二六事件」は軍国主義の発火点であり、叛乱将校たちは日本を無謀な大戦争に導いた魁(さきがけ)である、ときめつけた論調が主流を占めてきた。しかし現存する事件の関係者の誰もが、もし彼等が軍の主導権を握る立場にあったら、絶対に太平洋戦争に突入する愚は避けていただろうと証言する。わたしもそう確信する。なぜなら彼等は常に兵士たちやその背後にある庶民の側に、自分たちを置いて考えていたからである。

近代日本はこれまで三度の「平等革命」を行ってきたと思う。一度目は明治維新、二度目は「二・二六事件」、三度目は1970年前後の新左翼運動である。明治維新における下ッ端侍の志士たちは、権力掌握の野心に燃えていたがゆえに成功した。「二・二六事件」の青年将校たちは権力奪取を夢にも考えなかったがゆえに、権力側の術策の前に敗れた。新左翼運動は思想のみが突出していたために、大衆社会からは無視される結果となった。

わたしは遠からず第四の「平等革命」が起るのではないか、と予想している。いまの日本はあらゆる分野で世襲制が横行し、階級分化と差別が進行しつつある。未来のある時点で、一瞬の国際的恐慌が日本の経済を崩壊させたとき、大衆が激怒することがかならずあるに違いない。

そのとき、「二・二六事件」に若い生涯を捧げた青年将校たちの清浄無垢な「愛」をもうー度振り返ってもらいたい、と思うのである。(1989年2月12日)

(笠原和夫『2/26』集英社文庫、1989年)


二・二六事件 蹶起趣意書

2017年02月26日 | 歴史・文化

午前9時、川島陸相は、叛乱軍との遣り取りを終わらせて直ちに宮中に到着し、天皇に謁見した。彼は、叛乱軍の蹶起趣意書の巻物を提出し、それを天皇に慎重に読み上げた。

国体を護持する直接行動のための趣意書

永遠の神、天皇に、その統率の下にある我々は、神国の子のそまつな見解でありながら、この不満の意を提出する。我国の本源は、なによりも、一体をなす単独国家の継続的発展の成就と、天の下の全地球の包含にある。至高の優秀さと国体の尊厳は体系的な成長と、神武天皇による国の設立以来、明治維新よる社会変革にいたる注意深い養育によるものである。いまや再び、時勢の秋に到達し、我々は広く外地領土に挑み、新たな光明へとの眼に見える進展を遂げならない。
 
先の危機的時代にもかかわらず、いかがわしい不逞の徒が雨後の竹の子のごとく続出して、我々は、我利我欲にふけり、皮相な形式を許して皇位の尊厳を傷付け、すべての人々の創造的前進を阻害し、我らを怒りと悲嘆のうちに苦しませている。日本は益々と外国とのいざこざに巻き込まれ、時の潮流に押し流され、外国のあざけりの的となっている。元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は皆、指導者としてこの国体を破壊に導いてきた。
 
(中略)三月事件や、えせ学者、えせ共産党員、逆賊的教団等が徒党を成して陰謀を企て、気付かれないままに、最も著しい事例を作ってきた。その悪事は血で天地をけがし、流血が義憤を表す時代に至っている。血盟団の犠牲的先進性(中略)、5・15事件の噴出、相沢中佐の刀の閃光は、彼らがなすべき理由と彼らを嘆かせた理由をまさしく物語っている。
 
今のこの終末に至ってもなお、僅かな反省と忍耐のために、幾度にわたって、生き血がこの地を濡らすのか。かつての如く、ただ時を費し、あるいは、我欲と保身をむさぼっている。今や、ロシア、中国、英国、そして米国とは、一触即発状態にあり、神国を狙い、我が文化と祖先以来の遺産の破壊の寸前にある。これは火を見るより明らかなことではないか。実際、内外には深刻な危機が存在し、無能議員や無能家臣が国体を弱体化し、皇位の神聖なる輝きを曇らせ、維新を遅らせている。(中略)
 
第一師団の海外移動の天皇命令を受け取った今、・・・国内情勢をかえりみらざるを得ない。・・・出来うる限り、我々と同志の精神は、宮廷の内壁を壊し、逆賊を斬首する自らの努めを果たさねばならない。我々は、単なる家臣でありながら、皇位より信頼された部下として正道を進まねばならない。たとえ、我々の行動が自らの命や名誉を害そうとも、我々にいささかの動揺もない。
 
同じ悲嘆と意志を共有する我々は、この機会に決起する。逆賊を討伐し、至高の正義を正し、この聖地の子としての使命を全うし、我が全身全霊をその火に投じる。我々は大神と祖先に礼拝し、その恩恵とご援助を賜わらんことを。
 
昭和十一年二月二十六日

蹶起趣意書(原文)
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。
 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。
 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず、君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。
 皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 昭和十一年二月二十六日

裕仁は読み上げられる趣意を黙って聞いていた。その高揚した言葉と武士道精神の背後に、彼は、自分の戦争政策への完全な否定を見出していた。その隠された、含みをもった形式に、叛乱兵たちは、今後の外交的混迷の危険の沈静と、彼の精力を国家改造と日本の伝統である素朴な情念への献身を裕仁に請うていた。
 
「口実がなんであろうと、私は不興である。彼らはこの国に泥をぬった。陸軍大臣、貴殿に、即座の鎮圧を命ずる」と、裕仁は冷たく言い渡した。
 
川島は、自邸を占拠した兵士たちに与えるいくらかの猶予を得ようと努めた。しかし裕仁は川島に、皇位がその趣意を聞きとったこと以外には、皇位によるいかなる同情も理解の意をも表すことを禁じた。

バーガミニ『天皇の陰謀』(松崎 元訳)

http://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_21_1.htm#shuisho


怨親平等

2016年10月30日 | 歴史・文化

仏教の影響として高く評価できる面を紹介すると、日本で死刑廃止が約400年間続いた時代があったことである。それは保元の乱の1156年まで続いた。生命を大切にする仏教思想の影響であろうと言われている。

もう一つは「怨親(おんしん)平等」という言葉に表われている。わが国では戦争の後に敵と味方を分け隔てなく平等に弔うことが行なわれていた。例えば蒙古襲来で元軍が日本に攻めてきて、そこに死体が山のようになるのだが、そのとき、追善供養が営まれて日本と元の人たちの両方の遺体が葬られたのである。

筆者の故郷は島原だが、島原の乱(1637~38年)があって島原半島南部の農民たちはほとんど全滅してしまった。その数は三万人前後と言われている。このときも、盛大な法会が催され、敵味方の区別なくキリシタンと幕府軍の両方の戦没者が弔われている。

これは、第一章で挙げた『ダンマパダ』の一節、「実に、この世において諸々の怨みは、怨みによって決して静まることはない。けれども、〔諸々の怨みは〕怨みのないことによって静まるのである。これは永遠の真理である」(『ダンマパダ』二頁)と通ずるものである。

ヴィクトール・E・フランクル著『意味への意志』を読んでいて、次の一節にぶつかった。いま必要なのは、悪の連鎖を断ち切ることでしょう。あることにそれと同じもので報いること、悪に報いるに悪をもってすることではなく、いまある一回限りの機会を生かして悪を克服することです。悪の克服はまさに、悪を続けないこと、悪を繰り返さないことによって、つまり「目には目を、歯には歯を」という態度に執着しないことによってなされるのです。

この言葉を見て、釈尊の思想と似ていることに驚き、すぐに翻訳者の山田邦男氏(大阪府立大学教授=当時)に、フランクルが仏典を読んでいた形跡があるかどうかを確認した。山田氏は、その類似性に感銘を受けながらも、「ありません」と答えられた。深い人類愛に目覚めた人は、洋の東西を問わず同じ結論に到達するものだとの思いを新たにした。

明治政府は、この「怨親平等」から逸脱してしまった。明治維新の際の戦で亡くなった人のうち、官軍の死体はすべて収容されて招魂社(現、靖国神社)に祀られたが、明治政府に敵対し賊軍と呼ばれた人たちの死体は野ざらしにされ、祀られることはなかった。

(植木雅俊『仏教、本当の教え』中公新書、2011年)


日本人は混血民族

2016年10月25日 | 歴史・文化
日本人のルーツを探ると、まずその半分以上は朝鮮半島そのもの、あるいは朝鮮半島を経由して、日本に渡ってきた人々である。 南からも入ってきた人々もいる。大体、五万年前には日本列島には、人というものが住んでいなかったのである。日本人いうのは、もともとなかったので、北から、南から、朝鮮半島から、樺太、北海道から、台湾、沖縄から、要するにアジア大陸から、様々な経路を経て日本列島に至った人々が次々に混血を重ねて日本人が形成されたのだ。

混血の結果である日本人が、自分たちを純血であると誇るのは、自己矛盾であり、根拠のないことだ。私は日本人は素晴らしい民族であるのか、日本に長く生きてきて段々自信を失いつつあるのだが、これだけは言っておきたい。日本人が素晴らしい民族であるとしたならば、それは日本人が純血の民族であるからではなくて、混血の民族だからなのである。

(上垣外憲一『ハイブリッド日本』武田ランダムハウスジャパン、2011年)

歴史を静思して目を覚ます(6)

2016年09月06日 | 歴史・文化
文化・文明に資するとはどのようなことか。

「漢」の国の漢字、「呉」の国の呉服、紙の漉(す)き方、儒学・仏教の五大文化を日本に伝え、日本人に初めて文字と紙と思想を与えてくれたのが、中国人である。

古代のおそらく紀元前数百年頃、九州北部に渡来して、水稲耕作の方法と青銅器と鉄器を日本人に教え、焼き物のつくり方と、のちには金銀銅の画期的な精錬法である鉛灰吹法を教えてくれたのが、朝鮮人である。

この最初の朝鮮渡来の文化を、まったく奇妙な名称ながら、東京弥生町で最初のー個の壺が発見されたことから弥生文化と呼び、その時代を弥生時代と呼んできた。

伊勢神宮の氏神は、国学者や維新の志士たちの妄想とはあべこべに、考古学的に検証すれば、この渡来人から生まれたものと判断して間違いない。

仏教を生み、絣(かすり)の技術を日本に伝えたのが、インド人である。インドネシアのバタヴィアやフィリピンのルソンなど、東南アジアからは、呂宋(ルソン)助左衛門ら豪商の手を経て山のような先進文明が入ってきた。

お茶、孟宗竹(もうそうだけ)など、数えきれない文化・文明がアジア諸国から日本に伝わった。日本はこれらの国の人がいなければ、ほとんど何もないと言えるほど、広く深い恩恵を受けてきた。日本人は、アジア人のなかの同じ家族である。

そうした隣人に対する恩義も忘れて、歴史の無知をきわめたのが、明治維新を成し遂げた日本の支配階層であった。(中略)植民地侵略は、明治維新から始まった。その流れを最もよく示す軌跡が、朝鮮と日本の関係である。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)

歴史を静思して目を覚ます(5)

2016年09月06日 | 歴史・文化
ここまでたびたび用いてきた植民地と侵略という言葉について、定義しておきたい。

家に置き換えて考えてみるとよい。侵略して植民地にするとは、他人の家に勝手に入り込み、主人が服従するならその者を操って、抵抗するなら殺してしまい、居間を占拠することである。また、そこに住んでいる人間から土地を取り上げる。

今までの住人は、台所と畑や庭で働かせ、薄暗い下男部屋と女中部屋に押し込める。抵抗するものは殺し、玄関には門衛を置く、若い娘がいれば手ごめにする。家全体を住みやすく、立派なものにする。

侵入者のほうが必ず兵器にすぐれ、技術文明では高度なため、このように武力・腕力で押さえつけることができる。自分たちの言葉を教え、時には呼びやすいように、名前も変えさせ、自分たちが祀(まつ)る神棚を拝ませる。

このようにして、家全体が立派なものに変り、畑に数々の野菜が実るようになって、自室から追い出され、片隅にひっそり暮らした人間が、何を感じたであろうか。

なぜ改めて、この誰もが知る言葉を考えるかと言えば、第二次世界大戦の敗戦まで日本がどれほど朝鮮・中国・満州・台湾をはじめとするアジア諸国に対して、大きな文化、文明の普及につくしたかを第一義に語る、不道徳きわまりない、人として精神のかけらも持ち合わせない無知な人間がいるからである。曰く、鉄道を敷設した、通貨制度を確立した、生活の向上につくした・・・云々である。

ついには大声で、アメリカと中国の連携にはめられて日本は大戦争に突入したのだ、日本は侵略したのではない、とまで言い出す始末である。こうした輩(やから)は、日本の軍隊が台湾・朝鮮や満州・中国にどのようにして入りこみ、何を奪ったかについて、ひと言も説明しない。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)