マッカーサーは、なぜ、徹夜で(憲法改正)草案を作らせるほど急いだのだろうか。
連合国はミズーリ号艦上で降伏文書に署名はしたものの、占領下日本の管理は事実上、米国の単独統治の感があった。45年12月、米英ソ三国外相会議がモスクワで開かれ、米国独占を排除するためワシントンに極東諮問委員会の設置を決めた。その後、極東委員会(FEC)と改められ、拒否権がある米英ソ中4ヵ国のほか計11ヵ国で構成され、ワシントンに置かれた。FECとセットのかたちで東京に対日理事会が設けられた。第1回会議が(46年)2月26日ワシントンで開かれ、それに間に合わせようとしたのである。占領行政の主導権はFECに移ってしまい、下手をすればマ司令官の天皇温存策という目論見は、崩れてしまうのだ。
それに大事件が起きた。2月27日の『読売報知』に「皇族方は挙げて賛成 陛下に退位の御意思 摂政には高松宮を 宮廷の対立明るみへ」いうトップ記事が出たのである。筆者はAP通信のラッセル・ブラインズで、東久邇宮のインタビューをもとに書いたのだ。内容は、天皇自身は適当な時期に退位したい、理由は自分には道徳的、道義的な戦争責任があるからだ、というものだった。
皇族で首相を務めた人物が天皇の心情を公にしたことは、マッカーサーにとって大打撃だった。
3月5日、木下(道雄侍従次長)はマッカーサーが憲法案の作成を急がせるのは、「天皇退位の件」がもとだということを聞いた。(中略)
『芦田均日記』にも、「退位反対は幣原と宮相のみだとか(東久邇宮が)申されたことは、マッカーサーに一大打撃である、と総理は繰り返し言われた」とあり、米国側は11日迄は待てぬ、米国側の原案を採用するか、それでなければ天皇のpersonも保障できぬ、とまで言ったと、木下と同じ内容の記述がある。
新聞の天皇退位説を読んで、天皇は自分の気持ちを3月6日、木下に語っている。
「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日の様な苦境を味わわぬですむであろう」が、退位して皇太子が即位すれば摂政がいる。秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若くて無理である。「東久邇さんはこんな事情を少しも考えぬのであろう」と宮の軽率な言動を非難した。
探拠のない退位説が広く知られれば、マ司令官の意図とは大きく違い、天皇制の否定につながる。第一、米国務省内にも天皇が退位すれば戦犯として逮捕するという意見もあったほどだ。FEC構成国11ヵ国の中には、拒否権があるソ連ばかりではなく、オーストラリアも天皇戦犯・廃止説を唱えており、ほかにもオランダなど同調する国が出るおそれがあった。だから一刻も早く憲法に明記して天皇制を安定させたかったのである。
憲法はポツダム宣言にある通り「自由に表明されたる国民の意思に基づ」いて作られた。天皇の軍事大権は廃され、政治的な活動・発言さえしない。戦前の姿から一変した天皇像を前文に続く第一章に書き込み、第二章では戦争放棄を謳っている。日本は軍備を放棄し、日本民族の象徴として"人間天皇"を戴いている。天皇を温存しても国際平和には何の差障りもないことを、マッカーサーは天皇戦犯説を採る国々に示すのが狙いだった。
2回目のFEC総会は3月6日だった。出来立ての日本国憲法を持って、ハッセーが特別軍用機でワシントンに飛んだ。各国代表から質問があれば、それに応対するのが彼の役目であった。(中略)マッカーサーは第一条と第九条をセットにして、中央突破を図ったのだ。だから絶対変更は許さないと言ったのである。こうした動きは東京裁判の開廷が近づき、天皇無罪論に備える“潔白の証明”づくりなどとも連動するものであった。
(高橋紘『昭和天皇 1945-1948』岩波現代文庫、2008年)