探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート 伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

2014-07-25 22:44:52 | 歴史

研究ノート 伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

江戸幕府・関東郡代頭・伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

実証資料の裏付け

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『寛政重修諸家家譜』 巻第931
 藤原支流

伊奈
図書昭綱がときに至りて家たゆ。庶流熊倉忠寛が呈譜に清和源氏義家流にして戸賀崎三郎義宗が五代右馬頭義重が男を右衛門尉氏元という。これより荒川を称す。氏元より七代四郎易氏常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む。易氏二男あり。長男太郎市易次は伊奈郡熊蔵(ルビ:クマグラ)の城に住し、二男二助易正は保科の里に住して保科と称す。易次死するにのぞみ男金太郎易次なを幼かりしば叔父易正これに代て熊蔵の城に住し十五歳に至らばこれを復すべしと約す。しかるに其期に及ぶと雖も猶かえさざるにより彼の地を去て三河国に漂泊し嘗て伊奈郡熊倉に住せしをもって、伊奈熊蔵と称す。これ忠基の父なりという。

参照:
*熊倉忠寛・・・・伊奈忠寛・旗本。郡代頭・忠次から三代目忠勝は幼少で病死。
関東郡代頭家は、二代忠政の弟・忠治が継ぐ。
忠勝の弟・忠隆は旗本として存続。その系譜に忠寛あり。
尚、熊倉忠寛が呈譜とあるので、家伝したものを幕府に提出したと思われる。精度は、忠基以降95%、以前60%。
*戸賀崎義宗・・・・足利義実の妻:仁木実国、戸賀崎義宗、細川義季(細川氏へ)の女。
足利氏(下野源氏)一門の矢田義清の孫、広沢義実の子、仁木実国・細川義季の弟、宗氏・満氏の父、満義(満氏の子)の祖父。建久元年(1190)に、下野国安蘇郡赤見郷(現栃木県佐野市赤見大字)に赴任して、赤見城(佐野城)を築城した。
*右馬頭義重、右衛門尉氏元・・・・不明
*常徳院義尚・・・・常徳院は相国寺のこと。常徳院義尚は九代将軍義尚、生前法名。
相国寺は、日本の禅寺。京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。
山号を萬年山と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺という。開基は足利義満、開山は夢窓疎石である。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。
将軍義尚・・戒名・常徳院悦山道治。別書に承徳院とも。
*”伊奈郡熊蔵(ルビ:クマグラ)”の城に住・・・・熊蔵の読み方を指定している。
この読み方については、”くまぐら”とする。従って、伊奈熊蔵忠次も”いなくまぐらただつぐ”が正しい。
熊蔵は調べて見たが、筑摩明科の熊倉が読み方と文字から比定できるが、伊奈郡が腑に落ちない。
①呈譜の筆者が誤記したのか、
②伊那松尾の守護・小笠原貞宗が筑摩・府中を併呑したので、この地まで伊那(伊奈)と呼ばれることがあったのか(短期間、守護宗康の頃まで)
③伊那に熊倉(クマグラ)と云う所があったのか。
③は詳細に調べたが見つからなかった。
*二助・・・・次男の幼名か。読み方が不明・ニスケか。
後に”神助”易正と呼ばれたが、幼少の時なのか、保科の郷へ行ってからなのか不明。
*太郎市易次、金太郎易次・・・・同名相続か、それとも”屋号”か、不明
・・・・・・この一族は、伊奈熊蔵忠次とか伊奈熊蔵○○と名乗ることが多い。
類推すれば、熊蔵易次太郎市とか熊蔵易次金太郎もあり得るのか。屋号、中名字?。

伊奈忠基
初利次、熊蔵市兵衛。広忠卿、東照宮に歴任し、小島の城主たり。元亀元年六月姉川合戦の時、左の脇腹に槍創二カ所を被り其の創癒えずに死す。忠基の父、熊倉易次と称すという。

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参照:
明治維新以前の日本の成人男性は、武家や公家など、社会の上層に位置する者は、家名と氏(ウヂ・本姓)の2つの一族名、仮名(ケミョウ。通称)と実名(諱)(イミナ)の2つの個人名を持っていた。 そして、人名としての実際の配列は、家名、仮名、氏、実名の順である。
  ○家名+仮名+氏+実名(諱)
忠臣蔵の大石内蔵助を例に取れば
  ○大石+内蔵助+藤原+良雄  *良雄は”よしたか”と読む
 大石・・家名
 内蔵助・・官名・仮名(ケミョウ)
 藤原・・氏名
 良雄・・諱(実名)
例:織田信長
  ○織田+弾正忠+平(朝臣)+信長

仮名(ケミョウ)について
実名敬避俗・・・・諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼とされた。避諱によって、仮名(けみょう)と呼ばれる通称が発達した。男性の場合、こうした通称には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(源義光の新羅三郎、源義経の九郎判官)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの律令官名がよく用いられた。後者は受領名や自官の習慣と共に武士の間に広がり、百官名や東百官に発展した。その仮名の変形発展の形で、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった。
 例:島津義久→島津龍伯、穴山信君→穴山梅雪、細川藤孝→細川幽斎など。
この風習は芸術関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。
 例:狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、太田南畝のような筆名も広く行われた。

伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

荒川・熊蔵・伊奈の変遷の考察

荒川易氏は、「氏元より七代四郎易氏常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む。易氏二男あり。長男太郎市易次は伊奈郡熊蔵(ルビ:クマグラ)の城に住し、二男二助易正は保科の里に住して保科と称す。易次死するにのぞみ男金太郎易次なを幼かりしば叔父易正これに代て熊蔵の城に住し十五歳に至らばこれを復すべしと約す。しかるに其期に及ぶと雖も猶かえさざるにより彼の地を去て三河国に漂泊し嘗て伊奈郡熊倉に住せしをもって、伊奈熊蔵と称す。これ忠基の父なりという」とあるように、荒川の姓で信濃に住んだと思われる。
易氏の二人の子は、それぞれ熊蔵の地と保科の里に住んだ。ここで熊倉に住んだ易次太郎市は、「熊蔵易次(藤原)太郎市」になり、保科に住んだ易正は、「保科正尚(正利)神助(二助)易正」になったと想像される。・・・・断定までの資料は揃わない。
ここで、荒川の系譜は途絶えたと見て良い。「熊蔵易次(藤原)太郎市」は病死し、金太郎が継ぐ。「熊蔵易次(藤原)金太郎」と名乗ったと思われる。
この金太郎は、叔父の易正と戦乱との関係で、熊蔵の城を離れ、漂泊して三河へいく。
三河を選んだ理由は、戸賀崎・荒川氏族の系譜は、吉良・一色氏などの足利氏族で、同族が多かったためと思われる。ここも資料は無いが、系譜上ではそうなっている。
伊奈熊蔵忠基の父は、熊蔵易次(別名:藤原市兵衛)を名乗ったという記録が残る。忠基以降は、伊奈を家名にし、官名を付け、熊蔵を仮名(通称)にし、諱を称した、という流れである。
荒川の姓を棄てた理由は不明。荒川の名の時、将軍義尚の奉公衆であった可能性は大きい。
将軍義尚は、寺社領・荘園の押領の訴訟が多く対応に追われていたという。基本の政策は、各地に地頭・豪族が押領した寺社領・荘園を元の戻す裁定が下されたという。”六角征伐”はその一環。熊蔵と保科は、伊勢神社の神領・御厨の地であった。さらに、荒川易氏は、荒川四郎神易氏と名乗ったという。四郎ではなく四郎神というのが、妙に気に掛かる