探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

御厨について

2014-07-01 02:07:47 | 歴史


御厨について

承前

「安曇野には、「矢原御厨」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。また、梓川や黒沢川の扇状地にあった「住吉荘」も、武士政権による抗争が激しくなる中で、室町時代末期まで京都に年貢を送り続けたという稀有な荘園でした。
 信濃国には「春近領」がいくつかあります。春近領とは、鎌倉幕府の有力在庁が「春近」という架空の名義を使って設立した所領であり、鎌倉幕府の将軍家の御領を意味します。全国各地に分布していますが、信濃国内には、近府春近、伊那春近、奥春近とあり、近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある六郷でした。」---安曇野の歴史パンフレットより

「伊奈忠次の六代前、荒川四郎神易氏は神官ではなかったか」・・・・・・は、僅かな状況証拠にもとずく想像です。
易氏の子、長男・易次が養子に行った先は熊倉の里、次男・易正が養子に行った先は保科の里、この二つは地名であって、豪族名ではありません。

熊倉と保科に共通するものは、御厨です。
熊倉--矢原御厨 安曇野市豊科-熊倉は真隣です。*熊倉・・・くまぐら、矢原・・・やばら、と読みます
保科--長田御厨 長野市若穂川田-保科は真隣です。

ことに、矢原御厨の隣の高家・熊倉には春日神社があります。
この地区の碑文の中に、・・・(中世)度々京都から神官が訪れ・・・の文字が刻まれています。
荒川四郎神易氏が、神官として赴任したのであればたぶんここだろう、と状況証拠からの比定であります。
荒川氏の系譜は、三河に移ってから、屋号を熊蔵とし、姓を伊奈と名乗り、春日神社の姓の藤原とも名乗っていたようです。・・・前章参照

以下に、信濃で確認されている御厨を記載します。

信濃御厨

 藤長御厨 二宮 更級郡のうち千曲川の北岸横田一帯に立地
     長野市篠ノ井横田富士宮をその跡と伝えており,横田周辺を当御厨に比定する

 麻績御厨  吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載  麻績神明宮
     麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)
     麻績御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園

 長田御厨 長田神社の建つ長野市若穂川田地区
     保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職
     庄官をつとめた・・・保科党。保科氏の祖は他田氏(金刺系)と言われる

 矢原御厨 野原庄(現安曇野市穂高字矢原)
     高家・熊倉の郷には春日神社がある。・・・上記観光案内文参照

 会田御厨 松本市(旧四賀村)の会田地区で10月初旬におこなわれる御厨神明宮

 仁科御厨 大町市 仁科神明宮
                     ---出典・神鳳鈔(群書類従に収録)

 

考察・・・北信濃の保科の展開
北信濃に展開する保科氏は長田御厨の荘官であった。この保科氏は、一族があり北信濃の郷村の名主職・公文職、庄官を勤めた。いわば文官。一方北信濃には、源氏の流・名族井上氏がいた。こちらは武官。この二流には、系譜を見るとたびたび婚姻が見られる。また古書には、井上某は保科党二十騎を引き連れて・・・・・・のような記述もある。地方官の、在り様の形態であるが、井上一族と保科一族は、武と文の補完関係ではなかったか、という推論が成り立つ。従って、保科・井上は、長野地区を始め、須坂、中野にまで広域に展開する。そして、中世の多くの時代、風間郷が保科一族の温床であった。

この様に歴史を辿ってみると、時には、井上氏とともに保科党が、武器を持って戦ったという事例は幾つかあるし、そして南北朝の対立の時、保科党の一部が南朝側として戦ったという事例もある。しかし基本は、多くの保科党は地方民政官として過ごしていたようである。
だが、坂城に村上一族が勢力を伸ばして、保科の領域を脅かすと、保科の総領は一族を守るため城を作る必要に迫られた。これが霜台城築城の経緯である。従って霜台城は北信濃保科党の最後のあがきであって、保科党は、霜台城を拠点に展開した、という論理は成り立たない。実際霜台城は、実用に耐えない虚城に思える。