探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート 伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代

2014-07-29 21:50:05 | 歴史

研究ノート 伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代


『幕藩大名家保科氏の戦国後期の系図』 - ucom.ne.jp より

Q・・・・問い) 保科家と荒川家の接点について調べています。
1「信濃の保科家の系譜」の中の②の項「正則の父としての③正利(正尚ともいう)」については、どこかに出典根拠の資料があるのでしょうか。教えていただきたい。
2 また、
 「易正 正倍(ママ。信の誤記か)嗣荒川易氏子神助
  正利 正知子光利子?
  正尚 弾正易正?  」
の「神助」とは尊敬・敬意を持ったあだ名、保科正利は光利の実子であるが嫡子予定で正知の養子になった、正尚は弾正易正の別名でもある、
と読み解いていいのでしょうか。

A・・・・1 幕藩大名につながる保科氏の系譜については、十五世紀中葉より前の歴代は不明としかいいようがない。もとは高井郡保科に起った諏訪氏(一に清和源氏と称した井上氏)の一族に出たというが、『東鑑』などに見える保科一族(例えば、建暦三年の泉親平の与党の保科次郎など)とのつながりが不明であり、中世の鎌倉・室町期の系図が不明であって、いくつかの所伝があるが、史料の裏付けがなく、信頼性が欠けるものばかりであろう。
 
2 戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪(高遠)頼継の家老として、「保科弾正」(筑前守。保科正光の曾祖父の正則とされる)の名が登場する。本来は北信濃の霜台城(長野市若穂保科)を本拠とする保科氏が南信濃の伊那郡藤沢村に移った時期や理由などについては不明である。保科正利が村上氏に敗れて伊那へ逃れ高遠に仕えたのではないかともいわれるが、具体的に伊那郡と高井郡との繋がりも判明していない。この移転説では、保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという所伝がいわれる。
  保科正利の系譜についても、例えば、①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
  次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)、というように所伝が多い。なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。
 
3 ともあれ、諏訪神党の一つに保科氏が数えられるから、諏訪氏と何らかの関係が中世には築かれていたものか。伊那の保科氏の活動は弾正忠正則から具体的に見えており、これ以降の歴代については問題がない。東大史料編纂所所蔵の『諸家系図』でも、その第21冊に所収の「保科」系図では、正則を初祖としてあげて、「信州井上掃部介頼秀の末葉」とのみ記している(この清和源氏出自の所伝は疑問大)。
 
  すなわち、天文十四年(1545)、武田軍は藤沢次郎頼親が拠る福与城に攻め寄せたが、これに対し、松尾城の小笠原信定は伊那の諸将を糾合して藤沢氏を支援した。このときに保科弾正(正則か)が参陣しており、弾正は筑前守とも称して、高遠城主諏訪頼継の家老の職にあった。伊那では、高遠の諏訪(高遠)氏に仕えて、次第に頭角をあらわしていき、筑前守正則の跡を継いだ保科弾正忠(甚四郎)正俊は、高遠氏家臣団のうちで筆頭の地位にあったとされる。
 天文二一年(1552)に高遠氏は武田氏の信濃侵攻により滅亡し、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となった。保科正俊は、『甲陽軍鑑』では「槍弾正」として真田・高坂と並び「武田の三弾正」に名を連ねる。以降の歴代は、正直、正光とつながり、正光が保科正之(会津藩祖)と正貞(上総飯野藩祖で、正光の実弟)の養父となる。歴代の保科氏の通称は、「甚四郎、弾正忠、越前守」というのが多い。「甚」は出自の「諏訪神党(神人部宿祢姓か)」に通じるものである。
 
4 なお、お問い合わせの2の記事は、おそらくHP『武将系譜辞典』の「信濃国人衆」に出典をもつ記事だと思われるが、すべて正則の父についての記事であって、父の名については、
 「易正といい、正倍(ママ。信の誤記か)の嗣で、実は荒川易氏の子であって、通称が神助。また、正利とも伝え、正知の子といい、光利の子かともいう。さらに、またの名を正尚とも弾正易正ともいうか?」というくらいの解釈であろう。これは、漢文の解釈ではなく、上記HPでは、特有の表記がなされていることに留意される。

上記の文章は、荒川易氏が京都から信濃へ入り、易氏の子の次男(二助)易正が、保科家に養子に行った経緯のことと思われる。
この保科は、二通り可能性が考えられる。
一つは、北信濃・川田(若穂保科を含む)と高遠近在保科である。
川田・保科は、御厨であった保科庄のことと想定出来、高遠近在保科は、藤沢庄代官・保科貞親の居館のあったところと想定出来る。しかし断定する資料がない。
次代の比定は、将軍義尚の時代で1480年後半から1490年前半と狭く比定が可能である。
荒川易氏は、信濃武士の中に、記録を見つけることができない。
荒川易氏は、何者なのか?
将軍・義尚の奉公衆の可能性がある。また、荒川四郎神易氏の名、熊蔵、保科という伊勢神宮の御厨との関係性、自らを藤原とも名乗ったことなどから、伊勢・春日系の神官の可能性も生まれる。
保科は、戦国前期の動乱の中、北信濃・川田の保科と、代官家・貞親の藤沢保科が合流して一本化したことが歴史書の事例で見て取れる。その役割を担ったのが、荒川易正(=保科正利(正尚)の子・正則と孫の正俊。
熊倉へ行った荒川易次の系譜は、忽然と信濃から消えて、熊蔵(藤原)易次として三河に出現する。易次の次の世代は、伊奈熊蔵と名を変えて、忠基から松平(徳川)家に仕えるようになる。この忠基を祖父として三代後、伊奈忠次が生誕する。家康が、まだ三河に勢力を確定できなかった頃、伊奈家は家の存続を二分に分けて計る。その頃起こった三河一向一揆の側に、同族の吉良、一色などの今川勢力が主として参加したことに依り、伊奈家の伊奈忠次と父・忠家は一向一揆側に加担する。その為家康からは信頼がなかったようだが、本能寺信長殺害の後の、家康の伊勢路の逃避行に忠次は参加して、家康の民政官としての地位を確保し、やがて絶大な信頼を勝ちうるように、希代の農政官に成長していく。

これは、ドラマである。