保科家と荒川家の接点をもとめて 2
荒川易氏が、足利義尚から信濃国伊那に領土を賜って、移住してきた頃の信濃守護の歴史を調べて、易氏の痕跡を探って見る。
4:荒川家と保科家の接点をもとめて(信濃守護の歴史 (2012-07-17 13:13:44 | 歴史)
信濃守護の歴史
建武の新政以降の信濃守護を年代と氏名を単純記載してみる
年代 信濃守護
1336 小笠原貞宗・1338 村上信貞・1342 小笠原貞宗・1347 小笠原政長・
1355 小笠原長基・1366 上杉朝房・1384 斯波義種・1387 斯波義将・
1398 斯波義重・1399 小笠原長秀・1401 斯波義将・1402 幕府直轄・
1419 細川持康・1425 小笠原政康・1446 小笠原宗康・1446 小笠原光康
1451 小笠原持長・1453 小笠原光康・1463 小笠原政秀・
1477 上杉房貞・
~ 1542 小笠原長棟・
1542 小笠原長時
年表を見てみると、1330年代から1440年代まで、伊賀良荘(飯田)が信濃の政治の中心で、1440年代以降は府中(松本)に政治の中心が移っている。飯田が政治の中心であった時代でも、室町幕府は、小笠原家の政治統治能力に疑問を抱き、尾張三河の斯波家に守護を兼任させたり、幕府直轄にしたりしている。たぶん、室町幕府がここからの収入に不満があったのだろう。年貢取り立ての「出張機関」としてであろうと思われる。「出張機関」の軍事的サポートは小笠原家のままであったようだ。
では「出張機関」は何処だったのだろうか?。・・・
室町幕府が、忠実な家臣の居住区域である「伊賀良荘」を取り上げたとは、以後の関係からも想像し難い。付近を見てみると天竜川の対岸の「河野荘」(現在の豊丘村)にそれらしい痕跡がいくつか残っている。
また、佐久と諏訪は特別に別の管理区として、存在していたらしい。佐久は小笠原家の別家の「大井氏」が、諏訪は諏訪惣領家が、それぞれ信濃守護代として存在している。
特に、小笠原家と諏訪家の関係は、歴史的にかなり複雑である。当初小笠原家は、北条残党の一掃の任務を帯びて、その領地を奪うことを目的として信濃守護に着任した。そして「伊賀良荘」とほぼ同規模の「春近荘」を諏訪家より奪っている。諏訪家はもとより北条残党の主力である。だが、諏訪家はやがて足利尊氏との関係を改善し、地元では小笠原家との対立の構造を残しながら、足利幕府には、小笠原家との、併存の関係を保持していくようになる。
注目すべきは、上杉房貞と小笠原長棟の間は約70年間の、守護不在期間と言うことになる。この期間は、諏訪一族の内乱期でもあり、小笠原一族の内乱期とも一致する。そしてこの期間に、荒川易氏が、将軍のお墨付きを持ち、信濃に移住してきたという。
その頃、応仁の乱の時期で、将軍義尚は東軍に属し、細川家を後ろ盾とし、西軍に属する府中(松本)小笠原家と敵対し、松尾小笠原は東軍にあった。
細川家の家中に在った荒川易氏が、信濃伊那に来たという史実を確認するとすれば、友軍の松尾小笠原か春近荘園の辺りが、可能性としては大きい。さらに後に、保科家と接点を持つに到る経緯を想像すれば、可能性の根拠を強くする。しかし、易氏の子、易次の里の熊蔵という場所が見つからない。
そこでまた、系譜を検討する・
5:荒川家と保科家の接点をもとめて(まとめ) 2012-07-22 07:25:46 | 歴史
伊奈忠次と保科正之は、ともに江戸時代を代表する、それも優れた政治家として、後世から評価されてる。その二人の祖が、室町末期に接点があったようだ、というのが、テーマだ。
それを解く鍵は、当時の政治状況とそこに関わる諏訪神族(神党)の歴史の中に、あるように思う。
高遠 保科家の家系の謎
「武家家伝ー保科家」の特に参考略系図を読み返している。
保科家は、保科太郎を名乗った忠長のあと分流している。長男の長直と、たぶん五男の(大槻)頼重に。この大槻頼重の嫡子が保科実重を名乗ったことから、保科家は二派の保科家として存在するようになる。
この忠長・長直と続く保科家は川田郷保科(いまの長野市若穂保科あたり)に霞台城を居とする豪族の一族がいた。(だがこの一族は一端絶えて再興したようだ、と後に分かる)
一方大槻頼重・保科実重と続く保科家は、高遠近くの小豪族となった。それがどこかは分からないが、歴史に散見されるが場所の特定までには到らない。だが高遠近在の保科家は、諏訪家の分流となった高遠家に仕えるようになった。高遠継宗の代官、保科貞親である。保科貞親は別称で弾正貞親と呼ばれている。その系譜の中にその後に正信の養子の、荒川易正が保科家を嗣ぐこととなる。
ここで参考略系図に戻る。
参考略系図
保科太郎長直・・・・・光利・正知・正利・正則・正俊・正直・正光・正之
大槻頼重・保科実重・・実俊・正員・正信・正則・正俊・正直・正光・正之
見ての通り、保科正則以降は同一人物で、保科家の二流派は合流したことを意味している。ここに疑問は無い。保科長直系の正利と大槻頼重系の真員・正信のところで、なにがあったのだろうか?!!
そこでまた、「武将系譜辞典」(小笠原文書)を再読する。
実俊
正員
正倍五郎左衛門正信?・・・正信のことを正倍と書き間違えたのだろうか?
易正正倍嗣荒川易氏子神助
長直矢井忠長子清長孫桑淵光長彦曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
気になる言葉を、とりあえず列挙する。
易正正倍嗣荒川易氏子神助の「神助」
正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
そして、別の書に出てくる「保科家の甚(神)四郎」
神助・・・
神助とは四文字熟語の「天佑神助」の神助で、天佑は天の助け、神助は神の加護、で天佑も神助も意味はほぼ同じ。絶体絶命の危機のとき、荒川易正は神の加護、天の助けで助かった、それは諏訪一族に関係する出来事なので、諏訪神族の神家の意味で、神の文字を使った神助があだ名になった。
高遠家とその代官である保科家が荘園経営で対立した前後で、一族の絶滅の危機に瀕した時、易正は活躍して保科一族をまとめ一家をなして危機を救った。諏訪神族が諏訪神党として、党派性・連携性を鮮明にしていく時期と重なる。そして、保科易正は神助易正と呼ばれるようになる。保科家はもとより、諏訪神族である。
保科家の本家筋は、どうも、保科長時以来の長野保科の系統でありそうだ。別家筋の大槻頼重・保科実重系統の保科正信も主君の高遠継宗の代官を務める家柄で、保科貞親のように高遠家と対抗できるぐらい勢力を持った豪族として育っている。そこへ、本家筋の保科正利が、「村上一族」の台頭で、若穂保科を追われて合流してくる。正利は村上一族に追われる過程で戦死したのかもしれない。正尚はこうした事情を踏まえたうえて保科易正が改名したと見ることはごく自然のように思える。保科正尚も高遠家に仕えたのだろう。
保科易正の子、保科正則と、正則の子保科正俊は、高遠家の高遠頼継の家老となる。
なお、保科易正以後正直までの四代にわたって甚(神)四郎も名乗ることになる。甚四郎は神族の四男坊という意味で、さしずめ、長男が諏訪惣領家、次男が高遠家、三男が藤沢家、そして四男が保科家ということだろうか?
事実、易正以降、諏訪神族は諏訪神党として党派的な色彩を強く持つようになり、保科家は弱小豪族から、戦国武将的強者の豪族へ変身してくる。特に保科正俊がそれを象徴しているようだ。
以上が、私の「神助易正」考・・・
6:保科家のルーツをもとめて ・・・保科正則以前 2013-01-30 01:34:19 | 歴史
(槍弾正正俊以降はほぼ明確)
保科正俊の父、正則という。正則の父は易正という説有り。
保科正俊の父は正則という系譜にも混乱がある。保科正則が現長野市付近、川田郷保科で生まれ育って、のちに父の正利と伴に、村上一族に川田郷保科を追われて藤沢黒河内へ来た、と言う説。
高遠家の諏訪頼継に保科正則は家老として仕えた、
川田郷保科の系譜
祖を保科太郎という。保科太郎は当初穂科権八を名乗った。権八は叔父の笠原平吾に誘われて平家側の城軍の兵として、横田河原の戦いに参加して敗れる。この時源氏側は木曾義仲である。
笠原平吾直の出身は箕輪郷らしい。穂科権八の出身は叔父の笠原平吾と直接相談できる箕輪郷の近在と推定できる。
この時笠原と穂科は、奇策を用いて当初赤旗(平家)を掲げていたが、急遽白旗(木曾義仲)切り替えて、少数派の木曽側を勝利に導き、源氏の井上光盛の兵軍の中にいたとも伝えられる。
これを期に、穂科権八は保科太郎を名乗り、川田郷保科に居を構え、笠原はの笠原郷に牧をもったという。その後北信に勢力のあった井上光盛と保科太郎は、源頼朝に捕らえられ、井上光盛は謀殺され、保科太郎は許された。保科太郎は、井上光盛の、北信にあった領分を継いだものと思われる。その後の承久の乱(1223)に、保科太郎・保科次郎の父子は参加している。・・平家物語。
以後川田保科家は北条党として経過する。時が経ち北条得宗家が倒れ、中先代の乱が起こった時、北条残党の保科弥三郎は、青沼合戦(千曲市小舟山)に参加して敗れ、小戦を繰り返しながら後退し、清滝城(松代)に籠もって抵抗するも陥落する。
その後の鎌倉時代から南北朝期における保科氏は歴史書の戦に登場しない。
1400年代、諏訪家守矢神官長の『御符礼之古書』などに保科氏の名前がいくつかある。康正二年(1456)保科長光・光輝があり、長禄三年(1459)には保科駿河守満重、ついで長光・光輝のあとを継いだ信光らの名ある。
・・・ここまでが、ほぼ正確な系譜で、以後は複雑に系譜が入り乱れる。
ここで、再度残された資料により、系譜を精査する。
樹堂さんより
保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという説。
保科正利の系譜についても、例えば、
①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、
②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、
その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、
正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。
この、複雑な乱流の根底には、不明な系譜の部分を、無理に繋ごうとした跡が見受けられる。あるいは、不明な部分を独断偏見で想像して正当化したと見られる所がある。それも、相当時を過ぎた後に。
*上高井郡誌・・大正2.3年制作
*蕗原拾葉 (ふきはらしょうよう)中村元恒(1778-1851)
*百家系図稿 巻6、保科系図 明治前半期の系譜学者鈴木真年 全21巻
この中で、明治の学者鈴木真年の系譜は、その客観的な記述で、評価されていいと思う。
保科正則の父を別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であって、この者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする・・・(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
別系の・・・保科家
藤沢黒河内に、保科家の存在の痕跡が・・・
穂科(保科)権八以来、藤沢黒河内に保科の名前が登場するのは、南北朝期からである。
結城合戦(1440年)は足利持氏の残党と結城氏が室町幕府に対立して起こした合戦である。この戦いに、信濃武士は守護小笠原を総大将として参加しており、その中に、伊那武士として、「保科」の名前がある。記載の順序は、飯島、大島、片桐、藤島、小井テ、宮田、山寺、保科、小田切、三穂・・・として、不思議なことに、保科を除き、他は地名をほぼ特定でき、そこの領主豪族であることが推定できるが、保科は異質であり、地名を見いだせない。
大徳王寺の戦いのあと、この地を逃げた宗良親王は、1347年に狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになる。白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王・・・・・白州町教育委員会
白須松原は南北朝時代、宗良親王遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」
この頃になると、諏訪上社領隣接の白州(北杜市)近辺も宗良親王の安全地帯では無く、宮の味方が幕府側に靡いていた、厳密に言えば、諏訪頼継・保科氏と大河原の香坂氏ぐらいが宮方として信頼のおける味方となっていた、と考えて良い。入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬を支配していたのが保科氏であったと思われる。
「武家沿革図」という所領地図がある。ここに正平(1346)より元中年間(1427)まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった、と記している。もとより藤沢黒河内は諏訪神社の神領の荘園であった。この黒河内を割譲して、諏訪上社は、荘官の保科氏ともども宗良親王に付与したのではないか、と思っている。この期間は宗良の子尹良親王が信濃に在住したときまで続いた。そのように考えると、以後も辻褄が合ってくる。場所は、溝口の方が可能性が高い。領主としてあった小笠原系溝口氏とは敵対関係ではなく、荘官は代官の意味でもあったのだろう。あくまで仮定の想像であるが。
高遠氏の名は継宗の頃から歴史に登場してくる。1482年高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立した。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。
上記の文章もかなり不思議だ。城主に対抗しうる勢力を持った保科貞親は豪族領主としても見えてこない。とすれば、盟主の下で豪族領主を管理する立場に位置する荘官=代官と見るのが極めて自然な理解だろうと思う。保科貞親に味方した顔ぶれをみると、更に納得がいく。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。
この頃、代官の保科家でも異変が起こっていたと見てよい。保科貞親のあと保科家は嫡流は文明の内訌で戦死したか、あるいは嫡流が無く高遠家を支えきれなくなっていた。
また、川田保科家が、坂城村上一族に圧迫され、一部の保科族は村上家臣に降り、一部の保科族は藤沢黒河内に流れたのも高遠満継の時代前後のようである。彼を保科正利と呼び、やがて系譜が消え、保科正則となった。たぶん、高遠家の代官か家老の保科氏への合流であろう。
こうして、荒川易正が養子にいったという保科の里を探ったが覚束ない結果になった。
7:保科正則の墓 まぼろしの墓を見つけた 2013-02-20 23:35:56 | 歴史
戦国の時代、数奇な運命で数々の戦乱を生き抜いた保科正則は、会津松平家の初代正之から玄祖父にあたる。。だが正則の墓は、高遠建福寺にはない。会津に善龍寺という寺がある。保科の会津移封に伴い、千葉の多古から移転させたそうだ。
だが、善龍寺には保科家の元祖・保科正則の位牌はあるが、正則の墓はないようだ。
どこにあるのか・・・長いこと謎とされてきた。槍弾正の正俊の墓も同様である。
多古時代の保科の家歴(没と任官)
保科正光 1590 多古入封 家督相続
保科正則 1591 卒 法名祥雲院
保科正俊 1593 卒 法名不詳
保科正光 1593 従5位下 叙勲 肥後守任官
保科正直 1601 卒 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年
上記は多古城時代の保科家の戦役を除いた出来事である。
「保科正之のすべて・・宮崎十三八」から拾って書いた。高遠以来の家臣からの聞き取りによる。
保科正則は1591年に多古城で死んだことになっている。
偶然に、千葉県匝瑳市の「市史こぼれ話」を目にする機会があった。
そこに「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓の写真と文章をみつけた。
匝瑳市では、多古城には正光・正直親子は来ても、祖父の正俊、曾祖父の正則が多古に移り住んだことは不明とし、半信半疑で、墓とは断定できず、保科家が敬虔な日蓮宗徒であることから、飯高寺化主日潮が供養塔として建てたのであろうと推定していた。
法華寺;[寺院];千葉県八日市場市(現・匝瑳市)飯高571;正則夫婦の墓
この時代、没した地で埋葬されることは常識であり、まして自国であることから、多古城周辺に正則の墓地が存在することは正統性がある。まれに、移封された後移封地に分骨されて墓を建立されることもあろうが。この事実の検証は、専門家に是非是非お願いしたいところである。そして更に、保科正俊の墓も探して欲しい。
なお,「市史こぼれ話」は匝瑳市の市のホームページで発表されたが、サイトのリニューアルにともない、このファイルは削除されている。再度のアップを希望する。
8:雑記;保科正則の墓の謎 2013-02-23 00:36:41 | 歴史
保科正則の墓が発見され、没(卒)年が1591年に確定すると、幾つかの謎(疑問)が生まれてくる。正則の生誕に関する疑問である。
疑問が生まれる二つの計算式。
1:村上顕国が長享年間、水内郡の保科正則を攻めた。正則は伊那郡に落ち延びた。
長享年間(1488-1489)、元服を終えた15歳の正則は1489年伊那へ落ちたとしよう。すると
15+102=117 なんと117歳まで生きたことになってしまう。
村上顕国と戦ったのが25歳の時だったら、35歳の時だったら、と考えたら、正則は127歳や137歳になってしまう。
2:正則の死亡の年1591年は正俊は82歳であった。親子の年齢差は生涯変わらない。
正則が15歳の時の子が正俊ならば、
82歳+15歳=97歳となる。これは可能だが、相当無理もある。
正則が20歳や30歳の時の子が正俊ならば、これも102歳112歳になる。これも変である。
・・保科正則は藤沢郷の保科貞親の子孫の一族に寄生したと考えられるが、その頃の高遠城は、諏訪から隠棲した諏訪継満か高遠満継の時代で、満継など能力や性格に問題があって、満継配下が次々と高遠家を離れていった。その流れで、代官職の保科家と新規に寄生した保科正則高遠満継の許を離れる。満継から高遠頼継の時代になると、保科正則と子の保科正俊は高遠頼継に家老として復帰している。この間に、保科正則は二代目正則として跡目相続している可能性有り。
若穂保科:保科
・・・・・長時-光利-正知-正利-1正則
合流 1正則=2正則-正俊-正直-正光-正之(会津藩)
・・・・・家親-貞親-正秀=易正-2正則
藤沢保科:保科
とにかく、親が2人いることは、なんらかに混乱を意味する。
さらに「家」の存続はかなり重要な時代で、「戦乱」で嫡男が戦死する場合も多かったとも思う。その場合嫡子の名を、違う親の子が相続することもありとしたら親の複数も理解出来る。
ここに伊奈忠次の祖先の荒川易氏の子、荒川易正が保科家に養子にいき、その子供が保科家の家督を継いだという、保科家と荒川(伊奈)家の接点が、保科正則の年齢の謎を解くことで、傍証になったと思う。
伊奈忠次の前身、荒川家は保科家と接点を持っていた、と確信するに到った。
荒川易氏が、足利義尚から信濃国伊那に領土を賜って、移住してきた頃の信濃守護の歴史を調べて、易氏の痕跡を探って見る。
4:荒川家と保科家の接点をもとめて(信濃守護の歴史 (2012-07-17 13:13:44 | 歴史)
信濃守護の歴史
建武の新政以降の信濃守護を年代と氏名を単純記載してみる
年代 信濃守護
1336 小笠原貞宗・1338 村上信貞・1342 小笠原貞宗・1347 小笠原政長・
1355 小笠原長基・1366 上杉朝房・1384 斯波義種・1387 斯波義将・
1398 斯波義重・1399 小笠原長秀・1401 斯波義将・1402 幕府直轄・
1419 細川持康・1425 小笠原政康・1446 小笠原宗康・1446 小笠原光康
1451 小笠原持長・1453 小笠原光康・1463 小笠原政秀・
1477 上杉房貞・
~ 1542 小笠原長棟・
1542 小笠原長時
年表を見てみると、1330年代から1440年代まで、伊賀良荘(飯田)が信濃の政治の中心で、1440年代以降は府中(松本)に政治の中心が移っている。飯田が政治の中心であった時代でも、室町幕府は、小笠原家の政治統治能力に疑問を抱き、尾張三河の斯波家に守護を兼任させたり、幕府直轄にしたりしている。たぶん、室町幕府がここからの収入に不満があったのだろう。年貢取り立ての「出張機関」としてであろうと思われる。「出張機関」の軍事的サポートは小笠原家のままであったようだ。
では「出張機関」は何処だったのだろうか?。・・・
室町幕府が、忠実な家臣の居住区域である「伊賀良荘」を取り上げたとは、以後の関係からも想像し難い。付近を見てみると天竜川の対岸の「河野荘」(現在の豊丘村)にそれらしい痕跡がいくつか残っている。
また、佐久と諏訪は特別に別の管理区として、存在していたらしい。佐久は小笠原家の別家の「大井氏」が、諏訪は諏訪惣領家が、それぞれ信濃守護代として存在している。
特に、小笠原家と諏訪家の関係は、歴史的にかなり複雑である。当初小笠原家は、北条残党の一掃の任務を帯びて、その領地を奪うことを目的として信濃守護に着任した。そして「伊賀良荘」とほぼ同規模の「春近荘」を諏訪家より奪っている。諏訪家はもとより北条残党の主力である。だが、諏訪家はやがて足利尊氏との関係を改善し、地元では小笠原家との対立の構造を残しながら、足利幕府には、小笠原家との、併存の関係を保持していくようになる。
注目すべきは、上杉房貞と小笠原長棟の間は約70年間の、守護不在期間と言うことになる。この期間は、諏訪一族の内乱期でもあり、小笠原一族の内乱期とも一致する。そしてこの期間に、荒川易氏が、将軍のお墨付きを持ち、信濃に移住してきたという。
その頃、応仁の乱の時期で、将軍義尚は東軍に属し、細川家を後ろ盾とし、西軍に属する府中(松本)小笠原家と敵対し、松尾小笠原は東軍にあった。
細川家の家中に在った荒川易氏が、信濃伊那に来たという史実を確認するとすれば、友軍の松尾小笠原か春近荘園の辺りが、可能性としては大きい。さらに後に、保科家と接点を持つに到る経緯を想像すれば、可能性の根拠を強くする。しかし、易氏の子、易次の里の熊蔵という場所が見つからない。
そこでまた、系譜を検討する・
5:荒川家と保科家の接点をもとめて(まとめ) 2012-07-22 07:25:46 | 歴史
伊奈忠次と保科正之は、ともに江戸時代を代表する、それも優れた政治家として、後世から評価されてる。その二人の祖が、室町末期に接点があったようだ、というのが、テーマだ。
それを解く鍵は、当時の政治状況とそこに関わる諏訪神族(神党)の歴史の中に、あるように思う。
高遠 保科家の家系の謎
「武家家伝ー保科家」の特に参考略系図を読み返している。
保科家は、保科太郎を名乗った忠長のあと分流している。長男の長直と、たぶん五男の(大槻)頼重に。この大槻頼重の嫡子が保科実重を名乗ったことから、保科家は二派の保科家として存在するようになる。
この忠長・長直と続く保科家は川田郷保科(いまの長野市若穂保科あたり)に霞台城を居とする豪族の一族がいた。(だがこの一族は一端絶えて再興したようだ、と後に分かる)
一方大槻頼重・保科実重と続く保科家は、高遠近くの小豪族となった。それがどこかは分からないが、歴史に散見されるが場所の特定までには到らない。だが高遠近在の保科家は、諏訪家の分流となった高遠家に仕えるようになった。高遠継宗の代官、保科貞親である。保科貞親は別称で弾正貞親と呼ばれている。その系譜の中にその後に正信の養子の、荒川易正が保科家を嗣ぐこととなる。
ここで参考略系図に戻る。
参考略系図
保科太郎長直・・・・・光利・正知・正利・正則・正俊・正直・正光・正之
大槻頼重・保科実重・・実俊・正員・正信・正則・正俊・正直・正光・正之
見ての通り、保科正則以降は同一人物で、保科家の二流派は合流したことを意味している。ここに疑問は無い。保科長直系の正利と大槻頼重系の真員・正信のところで、なにがあったのだろうか?!!
そこでまた、「武将系譜辞典」(小笠原文書)を再読する。
実俊
正員
正倍五郎左衛門正信?・・・正信のことを正倍と書き間違えたのだろうか?
易正正倍嗣荒川易氏子神助
長直矢井忠長子清長孫桑淵光長彦曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
気になる言葉を、とりあえず列挙する。
易正正倍嗣荒川易氏子神助の「神助」
正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
そして、別の書に出てくる「保科家の甚(神)四郎」
神助・・・
神助とは四文字熟語の「天佑神助」の神助で、天佑は天の助け、神助は神の加護、で天佑も神助も意味はほぼ同じ。絶体絶命の危機のとき、荒川易正は神の加護、天の助けで助かった、それは諏訪一族に関係する出来事なので、諏訪神族の神家の意味で、神の文字を使った神助があだ名になった。
高遠家とその代官である保科家が荘園経営で対立した前後で、一族の絶滅の危機に瀕した時、易正は活躍して保科一族をまとめ一家をなして危機を救った。諏訪神族が諏訪神党として、党派性・連携性を鮮明にしていく時期と重なる。そして、保科易正は神助易正と呼ばれるようになる。保科家はもとより、諏訪神族である。
保科家の本家筋は、どうも、保科長時以来の長野保科の系統でありそうだ。別家筋の大槻頼重・保科実重系統の保科正信も主君の高遠継宗の代官を務める家柄で、保科貞親のように高遠家と対抗できるぐらい勢力を持った豪族として育っている。そこへ、本家筋の保科正利が、「村上一族」の台頭で、若穂保科を追われて合流してくる。正利は村上一族に追われる過程で戦死したのかもしれない。正尚はこうした事情を踏まえたうえて保科易正が改名したと見ることはごく自然のように思える。保科正尚も高遠家に仕えたのだろう。
保科易正の子、保科正則と、正則の子保科正俊は、高遠家の高遠頼継の家老となる。
なお、保科易正以後正直までの四代にわたって甚(神)四郎も名乗ることになる。甚四郎は神族の四男坊という意味で、さしずめ、長男が諏訪惣領家、次男が高遠家、三男が藤沢家、そして四男が保科家ということだろうか?
事実、易正以降、諏訪神族は諏訪神党として党派的な色彩を強く持つようになり、保科家は弱小豪族から、戦国武将的強者の豪族へ変身してくる。特に保科正俊がそれを象徴しているようだ。
以上が、私の「神助易正」考・・・
6:保科家のルーツをもとめて ・・・保科正則以前 2013-01-30 01:34:19 | 歴史
(槍弾正正俊以降はほぼ明確)
保科正俊の父、正則という。正則の父は易正という説有り。
保科正俊の父は正則という系譜にも混乱がある。保科正則が現長野市付近、川田郷保科で生まれ育って、のちに父の正利と伴に、村上一族に川田郷保科を追われて藤沢黒河内へ来た、と言う説。
高遠家の諏訪頼継に保科正則は家老として仕えた、
川田郷保科の系譜
祖を保科太郎という。保科太郎は当初穂科権八を名乗った。権八は叔父の笠原平吾に誘われて平家側の城軍の兵として、横田河原の戦いに参加して敗れる。この時源氏側は木曾義仲である。
笠原平吾直の出身は箕輪郷らしい。穂科権八の出身は叔父の笠原平吾と直接相談できる箕輪郷の近在と推定できる。
この時笠原と穂科は、奇策を用いて当初赤旗(平家)を掲げていたが、急遽白旗(木曾義仲)切り替えて、少数派の木曽側を勝利に導き、源氏の井上光盛の兵軍の中にいたとも伝えられる。
これを期に、穂科権八は保科太郎を名乗り、川田郷保科に居を構え、笠原はの笠原郷に牧をもったという。その後北信に勢力のあった井上光盛と保科太郎は、源頼朝に捕らえられ、井上光盛は謀殺され、保科太郎は許された。保科太郎は、井上光盛の、北信にあった領分を継いだものと思われる。その後の承久の乱(1223)に、保科太郎・保科次郎の父子は参加している。・・平家物語。
以後川田保科家は北条党として経過する。時が経ち北条得宗家が倒れ、中先代の乱が起こった時、北条残党の保科弥三郎は、青沼合戦(千曲市小舟山)に参加して敗れ、小戦を繰り返しながら後退し、清滝城(松代)に籠もって抵抗するも陥落する。
その後の鎌倉時代から南北朝期における保科氏は歴史書の戦に登場しない。
1400年代、諏訪家守矢神官長の『御符礼之古書』などに保科氏の名前がいくつかある。康正二年(1456)保科長光・光輝があり、長禄三年(1459)には保科駿河守満重、ついで長光・光輝のあとを継いだ信光らの名ある。
・・・ここまでが、ほぼ正確な系譜で、以後は複雑に系譜が入り乱れる。
ここで、再度残された資料により、系譜を精査する。
樹堂さんより
保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという説。
保科正利の系譜についても、例えば、
①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、
②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、
その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、
正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。
この、複雑な乱流の根底には、不明な系譜の部分を、無理に繋ごうとした跡が見受けられる。あるいは、不明な部分を独断偏見で想像して正当化したと見られる所がある。それも、相当時を過ぎた後に。
*上高井郡誌・・大正2.3年制作
*蕗原拾葉 (ふきはらしょうよう)中村元恒(1778-1851)
*百家系図稿 巻6、保科系図 明治前半期の系譜学者鈴木真年 全21巻
この中で、明治の学者鈴木真年の系譜は、その客観的な記述で、評価されていいと思う。
保科正則の父を別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であって、この者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする・・・(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
別系の・・・保科家
藤沢黒河内に、保科家の存在の痕跡が・・・
穂科(保科)権八以来、藤沢黒河内に保科の名前が登場するのは、南北朝期からである。
結城合戦(1440年)は足利持氏の残党と結城氏が室町幕府に対立して起こした合戦である。この戦いに、信濃武士は守護小笠原を総大将として参加しており、その中に、伊那武士として、「保科」の名前がある。記載の順序は、飯島、大島、片桐、藤島、小井テ、宮田、山寺、保科、小田切、三穂・・・として、不思議なことに、保科を除き、他は地名をほぼ特定でき、そこの領主豪族であることが推定できるが、保科は異質であり、地名を見いだせない。
大徳王寺の戦いのあと、この地を逃げた宗良親王は、1347年に狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになる。白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王・・・・・白州町教育委員会
白須松原は南北朝時代、宗良親王遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」
この頃になると、諏訪上社領隣接の白州(北杜市)近辺も宗良親王の安全地帯では無く、宮の味方が幕府側に靡いていた、厳密に言えば、諏訪頼継・保科氏と大河原の香坂氏ぐらいが宮方として信頼のおける味方となっていた、と考えて良い。入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬を支配していたのが保科氏であったと思われる。
「武家沿革図」という所領地図がある。ここに正平(1346)より元中年間(1427)まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった、と記している。もとより藤沢黒河内は諏訪神社の神領の荘園であった。この黒河内を割譲して、諏訪上社は、荘官の保科氏ともども宗良親王に付与したのではないか、と思っている。この期間は宗良の子尹良親王が信濃に在住したときまで続いた。そのように考えると、以後も辻褄が合ってくる。場所は、溝口の方が可能性が高い。領主としてあった小笠原系溝口氏とは敵対関係ではなく、荘官は代官の意味でもあったのだろう。あくまで仮定の想像であるが。
高遠氏の名は継宗の頃から歴史に登場してくる。1482年高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立した。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。
上記の文章もかなり不思議だ。城主に対抗しうる勢力を持った保科貞親は豪族領主としても見えてこない。とすれば、盟主の下で豪族領主を管理する立場に位置する荘官=代官と見るのが極めて自然な理解だろうと思う。保科貞親に味方した顔ぶれをみると、更に納得がいく。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。
この頃、代官の保科家でも異変が起こっていたと見てよい。保科貞親のあと保科家は嫡流は文明の内訌で戦死したか、あるいは嫡流が無く高遠家を支えきれなくなっていた。
また、川田保科家が、坂城村上一族に圧迫され、一部の保科族は村上家臣に降り、一部の保科族は藤沢黒河内に流れたのも高遠満継の時代前後のようである。彼を保科正利と呼び、やがて系譜が消え、保科正則となった。たぶん、高遠家の代官か家老の保科氏への合流であろう。
こうして、荒川易正が養子にいったという保科の里を探ったが覚束ない結果になった。
7:保科正則の墓 まぼろしの墓を見つけた 2013-02-20 23:35:56 | 歴史
戦国の時代、数奇な運命で数々の戦乱を生き抜いた保科正則は、会津松平家の初代正之から玄祖父にあたる。。だが正則の墓は、高遠建福寺にはない。会津に善龍寺という寺がある。保科の会津移封に伴い、千葉の多古から移転させたそうだ。
だが、善龍寺には保科家の元祖・保科正則の位牌はあるが、正則の墓はないようだ。
どこにあるのか・・・長いこと謎とされてきた。槍弾正の正俊の墓も同様である。
多古時代の保科の家歴(没と任官)
保科正光 1590 多古入封 家督相続
保科正則 1591 卒 法名祥雲院
保科正俊 1593 卒 法名不詳
保科正光 1593 従5位下 叙勲 肥後守任官
保科正直 1601 卒 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年
上記は多古城時代の保科家の戦役を除いた出来事である。
「保科正之のすべて・・宮崎十三八」から拾って書いた。高遠以来の家臣からの聞き取りによる。
保科正則は1591年に多古城で死んだことになっている。
偶然に、千葉県匝瑳市の「市史こぼれ話」を目にする機会があった。
そこに「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓の写真と文章をみつけた。
匝瑳市では、多古城には正光・正直親子は来ても、祖父の正俊、曾祖父の正則が多古に移り住んだことは不明とし、半信半疑で、墓とは断定できず、保科家が敬虔な日蓮宗徒であることから、飯高寺化主日潮が供養塔として建てたのであろうと推定していた。
法華寺;[寺院];千葉県八日市場市(現・匝瑳市)飯高571;正則夫婦の墓
この時代、没した地で埋葬されることは常識であり、まして自国であることから、多古城周辺に正則の墓地が存在することは正統性がある。まれに、移封された後移封地に分骨されて墓を建立されることもあろうが。この事実の検証は、専門家に是非是非お願いしたいところである。そして更に、保科正俊の墓も探して欲しい。
なお,「市史こぼれ話」は匝瑳市の市のホームページで発表されたが、サイトのリニューアルにともない、このファイルは削除されている。再度のアップを希望する。
8:雑記;保科正則の墓の謎 2013-02-23 00:36:41 | 歴史
保科正則の墓が発見され、没(卒)年が1591年に確定すると、幾つかの謎(疑問)が生まれてくる。正則の生誕に関する疑問である。
疑問が生まれる二つの計算式。
1:村上顕国が長享年間、水内郡の保科正則を攻めた。正則は伊那郡に落ち延びた。
長享年間(1488-1489)、元服を終えた15歳の正則は1489年伊那へ落ちたとしよう。すると
15+102=117 なんと117歳まで生きたことになってしまう。
村上顕国と戦ったのが25歳の時だったら、35歳の時だったら、と考えたら、正則は127歳や137歳になってしまう。
2:正則の死亡の年1591年は正俊は82歳であった。親子の年齢差は生涯変わらない。
正則が15歳の時の子が正俊ならば、
82歳+15歳=97歳となる。これは可能だが、相当無理もある。
正則が20歳や30歳の時の子が正俊ならば、これも102歳112歳になる。これも変である。
・・保科正則は藤沢郷の保科貞親の子孫の一族に寄生したと考えられるが、その頃の高遠城は、諏訪から隠棲した諏訪継満か高遠満継の時代で、満継など能力や性格に問題があって、満継配下が次々と高遠家を離れていった。その流れで、代官職の保科家と新規に寄生した保科正則高遠満継の許を離れる。満継から高遠頼継の時代になると、保科正則と子の保科正俊は高遠頼継に家老として復帰している。この間に、保科正則は二代目正則として跡目相続している可能性有り。
若穂保科:保科
・・・・・長時-光利-正知-正利-1正則
合流 1正則=2正則-正俊-正直-正光-正之(会津藩)
・・・・・家親-貞親-正秀=易正-2正則
藤沢保科:保科
とにかく、親が2人いることは、なんらかに混乱を意味する。
さらに「家」の存続はかなり重要な時代で、「戦乱」で嫡男が戦死する場合も多かったとも思う。その場合嫡子の名を、違う親の子が相続することもありとしたら親の複数も理解出来る。
ここに伊奈忠次の祖先の荒川易氏の子、荒川易正が保科家に養子にいき、その子供が保科家の家督を継いだという、保科家と荒川(伊奈)家の接点が、保科正則の年齢の謎を解くことで、傍証になったと思う。
伊奈忠次の前身、荒川家は保科家と接点を持っていた、と確信するに到った。