探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

雑談記  歴史のサイドストーリー

2013-05-23 19:02:05 | 歴史
雑談記 竹之内波太郎   2012-08-07 23:34:12 | 歴史

竹之内波太郎は、小説の中の架空の人物である。

山岡荘八の大河小説に「徳川家康」がある。
約25年も前に読んで、それまでの家康イメージ、・・狸親父ぽくて、暗くて、あまり好きになれない、を変えた小説である。大げさに言えば、歴史観がかわった小説である。

「徳川家康」の初めの頃から戦国武将と異なる三人の登場人物がいた(正確には本阿弥光悦を入れて四人だが)。
竹之内波太郎(後の納屋蕉庵)、随風、茶屋四郎次郎である。

随風(後に天海)と茶屋四郎次郎は実在の人物。
竹之内波太郎は架空の人物とされてきた。そのとおりだと思うが、どうも、頭の中だけの、想像の人物ではなさそうだ、モデルが複数いたようだ、というのがこの項の目的だ。

徳川家康を読んだ人は、分かると思うが、この三人の誰かが、時代の節目に登場し、その時々の状況分析や力関係を分析し、家康のとるべき道を暗示する役割を果たしている。
この様に書くと、いわゆる軍師の役割だが、この三人の役割はもっと広い。
軍師といえば、武田信玄のもとの山本勘助、秀吉の竹中半兵衛、黒田勘兵衛、今川義元の太原雪齋など有名だが、家康が若い頃接した太原雪齋は、家康の師として軍師の範疇を超えている。家康の知恵袋といわれた、本多正信も軍師としてのイメージにあわない。
在にあって、徳川家臣団の外で、客観的な、普遍的な、ものの見方や情勢を、この三人随風・茶屋・竹之内波太郎から教えてもらっていた、と思われる。

随風 後に 天海
戦国時代に、各地を放浪、、後に川越の無量寿寺の北方の屋を借りて偶居(北院)、天海と変名して、家康の朝廷政策や宗教政策の相談に乗り、またこの地に知行されて経済的安定も得る。のちに、北院で、三代将軍の家光が生まれたことにより、「北」院ではまずかろうということで、寺名も喜多院となり、現在に至っている。
天海の業績は、略。
尚、川越の名の由来は、川を越さなければたどり着けなかった場所という意味で、その川は現在の荒川ではなく、おそらくは入間川であろうと思われる。伊奈忠次に始まる荒川河川の付け替え工事(荒川の西遷)、荒川を鴻巣あたりから流れを変え、入間川につないだとされる工事、は、しばらく後のことである。隣の川島町も同様に、川と川の間の島が由来、おそらくは、入間川と越辺川と思われる。

昔、雨期の時、大河の利根川と荒川は合流して、川沿いに夥しい洪水を引き起こし、付近が大泥土と化し、災害と不毛の地を作り出したことは、度々あった。この利根川を東に流し、常陸の海につなぐ、荒川を西に流し、入間川とつなぎ、災害を防ぎ、不毛の地を豊饒の土地に変える、利根川の東遷、荒川の西遷の発案者、実行者が伊奈忠次である。

茶屋四郎次郎
本名中島明延、元小笠原藩士、小笠原長時の時、武士を廃業し、京都に出て呉服屋を開業、茶の縁で千利休とも友誼があり、茶道にも通じており、時の将軍の足利義輝が茶を飲みに足繁く通ったことから、茶屋四郎次郎を屋号に決めたとされる。
ここからは、家康との接点は見いだせない。時系列的にも、開業から屋号設定までも、若干不自然で、誰かの援助を想像させる。信濃守護小笠原長時は、信濃守護小笠原長棟の嫡子で、出家した長棟の後をついだ、わずか1,2年後に、中島明延は武家を廃業したことになる。明延が仕えたには、主として長棟の方ではなかったか?!。出家した長棟の心中は不明だが、その頃勃興する武田勢力、荒れる同族間争い(府中・松尾・鈴岡)、荒れる諏訪一族間、そのすべてに、守護としての役割・・平定ができない。こんな時に小笠原長棟は出家してしまう訳で。

京都にも、小笠原家がある。府中・松尾・鈴岡と同祖の京都小笠原家である。

京都小笠原家は礼儀作法の家元である。礼儀作法の元は弓道にあるらしい。弓取りといって、武士・武家の頭を意味した。この礼儀作法をもとに、武家社会の礼儀作法を定番化し、さらに、華道(生け花)や茶道など加えて、小笠原流なるものをつくった家であるそうだ。

中島明延が誰かの援助を得たとすれば、京都小笠原家の可能性が高い。
小笠原長時が武田に追われて、同族の三好家に身を寄せるあたりのころに、たびたび茶屋四郎次郎の茶に訪れている。

家康と茶屋四郎次郎家が接点を持つのは、明延の子清延の時からと思われる。風流人の道を選んだ明延と違い清延は、たぶん若い頃は山っ気もあったのだろう、家康に武士として仕える。伝手は、下条家につながる酒井忠次?この下条家には、小笠原家は養子を送り込んでいる。清延は、三方ケ原の戦いで活躍したそうだ。はやがて、武士を止め、茶屋を継いだ清延は、呉服全般の御用達商家として、京都大阪の政治情勢の報告を兼ねながら、徳川家と深くつながっていく。。特に、本能寺での信長の死後、その時、配下の少なかった家康の護衛団に、清延の配下を多勢加えて、清延自らも、家康を守って、危機脱出の伊賀越えを行う。
この件あって、家康の清延への信頼はさらに深まり、呉服のみならずの御用達(たぶん鉄砲や弾薬なども)、さらに御朱印を貰うことによる海外貿易で日本屈指の大富豪へ成長していく。
茶屋四郎次郎の初代は、(中島明延ではなく)この中島清延である。

さて、本項の目的。
竹之内波太郎(後の、納屋蕉庵)

山岡荘八は徳川家康を書くにあたり、あえて、架空の人物とわかりやすい、竹之内波太郎という名前を使ったと思われる節がある。当然ながら、実在の人物に、竹之内波太郎の確認はない。
このことを、ブログの中で、多少悪意のあるような説明文が見受けられるが、あまり気持ちのいいものではないし、わたしは、そうは思わない。
架空の人物だが、モデルの存在を示唆する項目を少しだけピックアップしていきたい、と思う。
山岡荘八の書斎を探索できれば、かなり精度が上がるのだが。こんな、架空の人物のモデル探しなど誰もやらないが、あえて、探してみる。

竹之内波太郎の経済力。
竹之内波太郎は、どうも領主としては小豪族であった、が、経済力は大きかったようだ。川衆・海衆に支配が強く配下の人数は多かったようだ。川沿いに、屋敷を持っていたことも考え合わせれば、この地は塩産業の近くであり、矢作川は塩運搬の、塩の道でもあり、この塩産業の、生産・運搬に携わった家系の中に、モデルの影がみえる。
該当の範疇は、水野家(刈谷)、吉良家、吉良家から派生した、荒川家など。これらは、碧海郡に属する。また矢作川の西沿岸にある。当時は、西尾と刈谷は地続きであり、流れを変えた現在の矢作川とは、風景を異にする。
このことは、裏社会の支配者、織田の海賊と揶揄されたことと、意味を同じくする。

伊奈忠基は伊奈忠次の祖父である。矢作川代官の忠基は矢作川の河川治水に功があったと聞く。崩れやすい堤防護岸工事に「粗朶沈床」「柳枝工」をつかった、とある。伊奈家は、矢作川と深く関わっていた家でありそうだ。伊奈家の住んだ小島城は、矢作川沿いにある。

このことも、竹之内波太郎のモデルを暗示しているように思えるのだが。

碧海郡の熊の若宮。
竹之内波太郎は、どうも神道に通じていたようだ。屋敷には、神社にあるような祭壇があり、定期的に祭事を行っていた、とある。若宮には、神社の嫡男の意味があり、南朝の残党ということを考えると、熊と一部に名前を持つ神社の若宮が、何かの理由で三河の碧海に流れてきて住み着き、熊の若宮を名乗ったのではないかと思う。
熊の名が付く神社は一般的には熊野神社だが、単に「熊」といったとき、熊=神(クマ)に通じ、南朝の残党ということを考え合わせると、諏訪大社を思い起こしてしまう、考えすぎだろうか。

そして
堺の豪商 納屋蕉庵。
一向一揆側で一揆に参加した竹之内波太郎が、その敗北で、堺に逃れ、後に豪商になり、納屋蕉庵と名を変えて再登場する。これには確実にモデルがいる。
伊奈忠次(この頃は家次;14歳)の伊奈家は一向一揆が起こったとき、分裂して、家康側と一揆側に分かれた。家康側には、祖父の伊奈忠基、長女の富、長男貞政、次男貞次、六男貞国、七男忠員、八男貞光、九男康宿、十男真政、一方一揆側には、父の忠家、三男貞平、四男貞正、五男貞吉、11男忠家(後の伊奈忠次)。
この一向一揆で伊奈家は双方に多数の死者を出した。この後、一揆側の伊奈家は、分離離散する。父忠家と五男貞吉は堺へ、11男家次(伊奈忠次)は、信濃伊那へ、逃避する。
この五男貞吉は後に、外記助貞吉と名乗り、堺で堺衆となり、茶器と骨董を商うようになる。
他に、一向一揆の後、堺で商人になった人が見当たらない。たぶんこの外記助貞吉が、納屋蕉庵のモデルであろうと思われる。ただ、貞吉のの経歴的な部分であって、思想信条や人となりが不明のため、人格などは別人の可能性が高いが。

ただ、竹之内波太郎のキャラクターは、伊奈家の人達と違うように思えてならない。一向宗への親派・あるいは参加のこと。状況分析と情報把握のこと。武芸達者なとこ。柔と剛。そして何より、ストイックなところ。
なぜか、本多正信を思い起こしてしまう。あり得ないと思いつつ。

竹之内波太郎は、山岡荘八が作った「架空」の人物であることだけは事実。そのモデルは、数奇な運命を辿った伊奈家を題材に、ストイックで神秘的なキャラを被せた、架空の人物。

テレビの大河ドラマ「徳川家康」で、竹内波太郎役は、石坂浩二がやったそうです。演技・内容とも、かなり好評で、竹之内波太郎は、魅力的な人物に思えたそうです。

蛇足、一揆で二分した伊奈家の人達のなかで、女性の名を書いたのは、家康の正妻の築山殿が、信康のことで、殺害されたとき、後を追って築山殿と一緒の墓に入ったのが、伊奈忠家の長女お富であります。


雑談記 伊奈城 2012-07-31 15:58:36 | 歴史

豊川市伊奈町に本多家の伊奈城がある。

本能寺で信長が明智光秀に殺された後、信長の勧めで堺にいた家康は、伊賀を抜けて三河に逃げ帰った。家康を助けたのが、茶屋四郎次郎や堺衆の一部や服部半蔵などの伊賀の人たちであった。堺衆のなかに「伊奈忠次」もいた。この功績もあり「伊奈忠次」は徳川家への帰参が許されることとなった。そして小栗氏の配下で、地方として働くようになる。
---地方(じかた)とは、土地及び租税制度の双方の農政全般をみる地方官のこと。

やがて、家康は、信濃の信長の旧領を獲得すべく、動き始める。最初は三河から、今川が滅んだ後三河・遠江・駿河の三国、そして信長から貰った甲斐を加えて四国、謀殺された後の信長旧領の信濃獲得で五国太守への胎動である。
信濃の経営獲得に、信濃に関わる三人が任命された。
酒井忠次を頭に、家康の知恵袋の本多正信と帰参が許された伊奈忠次である。
さて、この三人の信濃への関わりだが、酒井忠次は信濃に姻戚を持つ。伊奈忠次は出自が信濃国伊那である。さて本多正信だが、しばらく分からない。
酒井忠次と信濃の関係は、まずは、酒井家と信濃の下条家と姻戚関係にあったこと。その下条家は武田家臣として、奥三河の足助城の城代を勤めたこと。さらには、今川家が滅んだあと、武田の密使として下条信氏が酒井忠次を取り次ぎとして、家康と密約を結んだこと(大井川以西は徳川家のもの・・・)。この密約があって家康は、三河・遠江・駿河の三国の大大名となった経緯。
だが、本多正信だけは、分からなかった。
一向一揆のあと、本多正信の放浪の期間がある。その頃信濃に行ったのかとも思った。

本多正信の信濃との関わりを別の角度で追ってみたい。

善光寺と善光寺縁起

前段略
阿弥陀如来は印度から百済へ、百済から日本の欽明天皇のところへと送られてきました。時に日本では、古来から伝わる神道を守る物部氏と仏教を受容する蘇我氏との争いがあり、如来像は蘇我氏の屋敷に安置されていました。やがて、悪い病気が流行し、物部氏は「外国の神を拝んだため、日本の神々がお怒りになったのだ」と言って、如来像を難波の堀へ放り込んでしまいました。
何年かして、信濃国麻績郷(飯田市座光寺)の本田善光(よしみつ)という人が、用あって都にのぼり、帰りがけに難波の堀の近くを通ると、堀の中から「善光、善光」と呼ぶ声がします。不思議に思って立ち止まると、水の中から仏が飛び出して善光の背中におぶさりました。そして「善光、お前は印度では月蓋長者、百済では聖明王、そして日本ではお前に生まれ変わっているのだ」と教えてくださいました。
善光は自分の故郷へ仏様を運んで安置しておきました。そのうち、仏様は、善光の夢枕にたち、「水内群芋井の郷へ移りたい」とおしゃいました。そこで善光はいまの長野の地へ移り、そこに家を建てて仏様を家の中にご安置しました。
後段略

この善光寺縁起は、後世に整形されたきらいはありますが、概ね、座光寺、元善光寺周辺に残っている逸話とも合致します。この本田善光がかなり貧しい人だったり、難波の堀というところが「猿沢の池」だったり、三国(印度・百済・日本)阿弥陀のところが抜けていたり、が地元の逸話と違っているところです。後年に、本田善光の郷に、同型の阿弥陀如来を作って安置し、元善光寺と名付けました。善光寺の阿弥陀如来は一光三尊像というのが正式な名前だそうです。

以来、善光寺参りは、自国はもとより、他国からの人気もあり、大変な賑わいだったと聞いています。特に、三河からの参詣は多かった様です。善光寺の阿弥陀如来は時々里帰りして、元善光寺に帰る、留守にするとの言い伝えもあり、三河辺りからの参詣は、元善光寺と善光寺両方にお参りをする習慣がありました。片方だけにすると片参りといって、御利益が半減するという言い伝えです。

本多善光が辿った道は、三州街道に重なります。その時代に三州街道はなかったと思いますが、塩の道として整備された室町時代後期以降は、参詣の旅人も多かったと思います。

そして、
本多家 家紋の話

徳川家臣の本多家系は13の大名家と45の旗本家を持つ、他に類を見ない、大家臣団になっている。この本多家の家紋の「葵」紋と徳川家の「葵」紋の関係も、研究を尽くされているように思える。
葵紋は大きく三分類される。双葉葵と立葵と茎なし葵だ。
双葉葵は別名賀茂葵といって賀茂神社に由来する。茎なし葵は三つ葉葵が代表で徳川家の家紋である。
そして、立葵は、本多家の家紋であり、善光寺、元善光寺の家紋でもある。
本多家と本田善光(善光寺の祖)はつながっているにだろうか?

その疑問には、ネット上のベストアンサーをそのまま載せます。
---
奈良時代の本田善光の名跡を継いだのは・・
平安中期、関白太政大臣・藤原道兼の側室の子が本多(田)の名跡を継いで立葵を用いたらしい。それから12代目の助秀が豊後の国に移り住んでいたが、足利尊氏が戦いに敗れ九州に落ち延びて時を待ち、再度京都に攻め上がるときに足利軍に従軍、その後、足利尊氏に仕え助秀の子・助定は尾張国の横根・栗飯原の両郷を領し、その孫に至って長男・定通、二男・定正の二家に分かれた。両家とも、後に、三河に出て、松平家に仕え---

豊川市伊奈町に本多家の伊奈城がある。

伊奈城は本多宗家(定通系)の居城である。
ここでは、歴史の真偽を問う立場ではないし、そのつもりも知識もない。
ただ、本多家の一族が、本田善光を家系の祖として誇り敬愛し、善光寺・元善光寺を懐かしみ、、立葵を大切にした事実が伺われる。本田善光の業績を「よすが」として伊奈城は名付けられたのだろうし、彼らにとって、伊那や信濃国は、源流であり、ある意味聖地であり、心の故郷だったと思われる。本多正信は、言わずもがな、その本多一族の一員であり、上記の思いは、共有していたと思われる。

家康と正信は幼少時代(駿河の今川家への人質時代)から共に過ごした。当然ながら、本多家の生い立ちや家紋のことなど話題にのぼったに違いない。まして、家康は無類の歴史好きと聞く。愛読書の吾妻鏡を手放したことが無いくらい、ともきく。家康に、この前提があればこそ、信濃にかかわる人選に、本多正信が浮かんだのだろうと思う。本多正信が信濃にかかわりがある人として人選した家康と受けた本多正信、両人ともそれを当然としていた節がある。

信濃・甲斐経営に乗り出す時のこの三人の人選は、さすがの妙手である。短期間で、それもほぼ無血で、次々と徳川方に付いていく旧武田の家臣団をみれば、それを物語っている。これは、領土という経済基盤だけの話ではない。軍律や鉱山採掘技法や信玄堤など地方技法、その人材など、それが優秀だと見抜く力が無ければ、これを発掘などできない。本多正信の人を見る目と伊奈忠次の技術を見る目、が大きく役だった、と思われる。

信濃を手に入れて、五国太守の大大名化する家康に対して、快く思わない人がいた。強大化する家康に危機感を持った秀吉である。小田原城攻めのあと、関東移封を命じる直接の原因となる。功績に応えて、加増という隠れ蓑の裏事情のことである。


雑談記 戦国初期の名前の付け方、資料の信憑、税制のことなど   
                      2012-10-31 18:29:22 | 歴史


少し、話を変えてみる。

歴史を観るうえで、肝心なことは何なんだろうか。・・常に考える。
歴史は、常に勝者の歴史であるようだ。勝者の記述した歴史資料は、自分の故実を誇張したり、対立の敗者を無視したり、悪者と言ったりする。
信長記、太閤記、甲陽軍艦、三河物語など。これらは勝者のお抱え、及び勝者側の記憶・思い出による物が多い。これを偽書という人もいるが、半分以上は真実で、誇張のところと敗者のところは心して読まなければならない。小平記や赤羽記などは、勝者側の思い出や先祖からの伝承が多く、これを家の伝承記録とした。このため、事実の誤認や誇張や相手の無視や悪意も、少し散見される。
一方、守矢文書のように、諏訪神社の祭事の記録を主としながらも、1年ごとに、その時の主な出来事を、ついでながら記録する文書は、かなり客観性が高そうだ。

中世における武家社会での名前についても、かなり悩まされる。
通称「大石内蔵助」と呼ばれた忠臣蔵の家老は、大石内蔵助藤原良雄が正式名である。
この場合大石は家名(名字)、内蔵助は官名、藤原は氏名、良雄は実名となる。
また、織田信長は正式には、織田弾正忠平朝臣信長で織田は家名、弾正忠は通称、平朝臣(たいらあそん)は氏名、信長は実名となる。
商家では茶屋四郎次郎中島明延は茶屋四郎次郎が屋号(=名字)、中島は氏名、明延は実名となる。
さて、中世の武家社会での名前の構造を踏んでから、保科正俊の名前を分析すると、彼は保科弾正(忠)筑前守正俊が正式名称で、筑前守は官名(高遠藩家老職の別称?)、弾正(忠)も官名で、高遠家が滅亡後、武田の家臣になった後は、弾正は使われたが、筑前は使われなくなった。
そう考えると父の保科正則も高遠家家臣のとき、当然筑前を名乗り家老職にあったと思って不思議はない。
保科を名乗って、小笠原家臣団にいて、福与城にいた藤沢頼親を応援して武田と戦った保科因幡守を類推すれば、高遠家と違う領主の元にいた別系の保科とみていい。つまり、福与城の藤沢親を応援して参戦したのは、保科正俊ではない。

さらに悩ませるのが、保科正則の父とされる、保科易正だ。この易正を指すと思われる名前の多いこと。荒川易氏の子、易正は保科の里に養子にいった。たぶん養子先の保科家には嫡子が無かったのだろうか。戦役で嫡子が戦死したのかもしれない。
この場合の改名は、家系の継承性や正当性から、先代の名前を通字として引き継ぐ。それで、一族郎党の勢力維持や団結も計った。改名の儀式もたぶん重要な要素だ。
そこへ北信の雄村上顕国に追われた、川田郷保科の正利一族が逃げ込んでくる。この時、保科正利一族は混乱が多い。本人を含めて嫡子ともども逃げる途中で、誰か戦死した可能性は高い。そこで易正は、若穂保科の保科家の正利をも継承し、さらに改名して若穂保科家の一族郎党の離散を防ぎ、勢力を維持しながら、やがて、一族を合流していったのではないか。そこには、時々に名前が必要となり、時系列的に名前は改名したのだろう。

易正が養子にいった時期は、藤沢保科家も川田郷保科家も、見方によれば、一族存亡の危機であった。藤沢保科家は、主家高遠家と対立。川田郷保科家は、村上一族に領地を追われている時期である。おそらく、この期に何らかの活躍があり、これが神がかり的である事から、神助というあだ名を付けられたのだろう。
この推論は、家長制度の継承性や正統性を前提とし、正統性は先代の名前の一字を組み入れながら存続していく、この時代の名付けの方程式で、戦国の時代の当主と嫡子の戦死は常であり、家を生き延びさせる方策であった。


雑談記 私的な題;16弁の菊の木地師  2013-01-21 15:02:38 | 歴史

母の祖母の出自について
母が昔語りに話したという。
母の祖母は大鹿村の「からやま」と言うところに生まれたと言う。先祖の墓に16弁の菊が刻印され、16弁の菊の書き付けがあり、五七の桐紋を紋付きとし、大蔵という姓であったという。母の兄弟の家に確認すると、生田の「からやま」で、あとは同じだという。大鹿村と16弁の菊が宗良親王を想像し、調べてみようという話になった。

私的な題である。
当初「からやま」は唐山と思っていた。

柄山(からやま)について

 柄山の地名は、2カ所たどり着く。
 一つは生田柄山(松川町)で、こちらは簡単に、もう一つは北川柄山で、こちらはたどり着くまでにかなり難儀をした。
 生田柄山は、小渋川に沿って山中の峠道にあり、付近は伝承の多いところらしい。近くの桶谷は、古くは王家谷と書き、北条道や北条坂の地名が残り、北条を名字とする四家(1家は分家)があり、頭(上)屋敷、別当、木戸口を名乗っていたという。だが、昭和に「小渋ダム」が出来て沈んだ。さらに奥が四徳で、昔北条時行が潜んだと言われる四徳小屋があったという。ここも昭和に廃村になった。昭和36災害が因であるそうだ。
 北川柄山(大鹿村北入地区)は、現在存在しない地区である。明治になって、山の生業でまず3家が住み、やがて入植が増え、最高時40戸弱を数え、やがて全村移転で消えた地区であるからという。昭和36災害によって、家屋全財産が流され、再建が不可能とされたからである。明治以前、北川は小渋川の支流の沢(川)の名前であった。勿論以前は、人が住んでいなかった地区である。移り住んだ人達のもとは、中川村や生田の山の人が多かった、と書いてあった。
北川柄山に住んだ人達は、もと生田柄山のひと、と考えるのは、あながち無理な筋道でも無さそうだ。この北川柄山に最初に住んだ家は、2人は大蔵と呼び、1人は小椋と呼んだ。木地師であったという。・・・大鹿村誌より
 生田柄山に大蔵姓と小椋姓を名乗る家もあるそうだ。そこの大蔵家と小椋姓も木地師をルーツに持つとあった。この生田柄山は、江戸時代元禄の頃まで人家と地名を確認できていない。それまで長峯あるいは長峰とだけ呼ばれた地域だったらしい。・・松川町史
 生田と大鹿を分離して考えるのは地元の考えと違うようです。大鹿村誌でも生田柄山も生田桶谷も、あたかも自分の村のような記載です。それと桶谷の神社遺産は小渋ダムに沈む前、保管を依頼されたのは大鹿の民族館だそうです。)
 なお、大鹿村は山村で寒村であるのは確かですが、一時繁栄した時期があったそうです。中央資本の製材会社(久原鉱業株式会社)がこの地に出来ました。この地方としてはかなりな大会社だったそうです。だが、不景気とともに、製材会社は撤退し、大鹿の繁栄もそこで終わったと言います。残ったものは伐採された禿げ山で、保水力を失った山は脆く、昭和の36災害に繋がったのではないか、と思ったりもします。大西山の山崩れの爪痕は現在も残り、写真を見ましたが痛々しい限りです。この製材会社の後裔は、主人が替わって、日産(自動車)と大成(建設)になったそうです。
・・・悲話は書くつもりは無かったのですが、調べたらかなり切なくなりました。
 
木地師 について

 木地師と言う者がある。
 生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。
 年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。
 木地師文書と言うものがある。
 この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。
 従来、山はその村里の共同所有地であり、個人所有地でなかった。そのため、その地の領主か村長に了解を取れば入山が可能であった。山を渡り歩けたのは、この為であったが、明治になって山の所有権が決まってしまい、木地師は定住を余儀なくされる。一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは全国に多いが、ほぼ山岳に祖を求めることができるという。長野県では、大鹿村も勿論だが、長谷(昔は黒河内)、木曽(小椋より大蔵姓の木地師祖先が多いらしい)、大平村(飯田市大平・・昔大平宿現在廃村?)に、この姓を多く持つ。なお、大平峠を越して南木曾に入ったあたり、漆畑という地区がある。たぶん地名からして、良質の漆の木をもっていたと思われる。更にこの地は、地区民全員が「大蔵」と「小椋」を名乗り「大蔵」姓の方が多いという。さらに、この地の生産は椀などの漆器であり、この器は優秀であるという。また彼らの祖は木地師でもあるという。あるいは、加賀の輪島も同様な成り立ちかもしれない。
 木地師と入山の地もととの関係は、概して冷たかったと思われる。山間の米を生産しない地区は、「樽木」といって年貢を木で納める天領が多かった。大鹿村や木曽の山林が、そのようである。御樽木成山と呼ばれた。それ以外の山林でも地元の山人の既得権を侵す存在あった。その為か、地元には馴染まず、木地師は孤高の民であり、団結力だ強かったようだ。

木地師と御所車紋
 「柳田国男もまた『史料としての伝説』のなかで、「信州伊那の大河原村は、宗良親王御経過の地であり、吉野に劣らざる南朝方の根拠地であっただけに、郷人思慕の情を基礎にして、その口碑に注意して見ると、浪合記一流の無理な伝説が幾らも出来て居る。小椋一族がこれに参与した確かな痕跡はないが、この辺も亦彼等(木地師)活動の舞台であった」と述べて、木地屋の痕跡を暗に認めている。
 また,十六の花弁の菊のことを、「柳田はこの円盤紋様を描くのに、木地屋のもっていた轆轤をたぶん使ったのだろうといっている。それが菊花を思わせるところから皇室とのむすびつきの証拠として木地屋によって強調されることになったようである。」(谷川健一)
 どうも、柳田の「ろくろ=菊紋説」は間違いのようだ。発見された惟喬親王時代とそれ以降しばらくは、ろくろは引き網式であり、円系図柄には向かない。これを裏付ける掛軸が発見されている。
 柳田国男は、越後小川荘の高倉天皇陵の石塔に彫られた16の輻(やがら)をもった車輪紋から、これが木地屋の携えていた轆轤の応用で、菊の紋章の前身である(「史料としての伝説」)と想像している。しかし掛軸図に見られるようにこの時代の轆轤は引き綱式であり、車輪が用いられたのは水車を動力とした明治以降であるから、柳田説は誤りとなる

雑談記 高遠の寺の市との関わり・・・中世

2013-05-23 13:21:51 | 歴史
雑談記 高遠の寺の市との関わり・・・中世

中世を読んだり調べたりしていると、分からなかったり、判断を誤ったりすることがある。そのほとんどが、中世に常識とされていた習慣や儀式、あるいは価値観等々。例えばその一つに、領土争いを繰り返していた頃、防衛の要と認識されていた、大きな川には橋がなかった。従ってこの常識を知っていれば、藤吉郎(秀吉)が矢作大橋の上で、蜂須賀小六と出会うというのは、後世の作り話だと分かる・・みたいな。また古文書を読む時、同じ人間が、時には正俊であり、ある時は正利、またある時は昌利だったりする。これは、江戸時代中頃まで日本に印刷技術が無く、本は借りて、借りたものが書き写し、また貸して、また書き写し、同じ「音」の異字で書き写したものと考えられる。書き写しは、形の似た文字でも多々あったようだ。これを写本というのだが、浮世絵が広まった辺りまでは、この様な間違いが続いていたと思われる。

さて、中世の保科家の発祥辺りを調べていくと、保科家は神社(諏訪大社)と仏閣(法華教)と、思いのほか強い繋がりを感じるようになった。本項は、その仏閣の方の話で、市に纏わるところである。

中世の伊那高遠地域は、市の痕跡がかなり残っているという。自給自足経済から貨幣経済への過渡期、市というものが生まれた。まだ物流がそれほどでない時代、当然店舗を構えて物販する需要も供給もない時代、当然市は、月に一度くらいで間に合ったのであろう。例えば月の七日に市が立つ日を決めた。これが七日市場の名の由来だろう。同様に一日市場や八日市場などがある。他地区の○日市場も同じ理屈で発祥する。
高遠地区の建福寺や香福寺では、この市に供給する手工業生産者を隷属的に所有し、手工業的生産品を市で売りさばいていた。寺で、境内や参道を市に解放するだけでなく、自らも経済活動に参画していた。ここには、寺院が市を管理保護し、さらに領主は寺を保護していたという、二重の庇護の様子が垣間見られ、後に消費人口の増加や参詣者の増加に伴い、安定した需要の多いものから店(タナ)が固定し、門前町が形成され、街が出現する。
そこから派生したグループ集団で、番匠(大工)町、板町(屋根師・板萱師)、鍛治町(鍛冶職人)が出来る。

高遠は、この様な町の形成の痕跡が鮮明に残る、面白い町である。
それにしても、寺が生産活動の一翼を担っていたとは・・・