高遠家の歴史 鎌倉期から戦国まで
長谷川正次 伊那・高遠戦国史 戦記蹂躙
いま、上記の書が手元にあり、読んでいます。
伊那市高遠の中世は、とりわけ武田家に蹂躙されるまでの高遠は意外と不鮮明で、歴史書の多くは、武田の信濃攻略から始まってしまいます。そうなると、保科家の発祥と台頭の詳細は明らかになりません。テーマである保科家の発祥と成長、高遠・諏訪における保科の台頭と背景。この背景が意外と不鮮明で、諸説が乱れ、定説が見えてこないところに、この書が存在し平明に解説しております。諸説を精査しながら批判し、本筋の高遠史を貫徹していきます。荒川氏との接点は、一部にその説が在ることの紹介に留めています。長谷川さんの高遠史は、現在本流で、一般的なのかも知れません。
とりあえず、まとめてみますが、本来のテーマから、高遠氏の発祥から武田家滅亡までとし、その後の全文は、自分としては読みますが、まとめません。悪しからず。
このまとめの後で、赤羽記、蕗原拾葉を含めて保科家の発祥と台頭と荒川家との接点を書いてみたいと思っています。
高遠氏の発祥
この場合、高遠氏と言っても同じ血流の高遠氏では無いことをまず確認する。
恐らく、鎌倉の頃この地方に始めて高遠の名がついた。そしてこの地方の盟主は、高遠氏と呼ばれる。それは同事平行ではなく時系列に、各系流の高遠氏と見ることが、かなりの精度で正確と思われる。
笠原氏
鎌倉期から南北朝衰退期までは、この地の盟主は笠原氏であった、と言われている。ただ、笠原氏の発祥は、源平騒乱期に、信濃では少数派の平家側に属し、その戦記が源平盛衰記等に記載されていることを確認し、平家が破れてから源氏に靡き、源氏に戦功があって旧領を安堵された、というのが真実に近いのであろう。だがその領主としての規模はあまり大きいのもでなく、かつ居住地の館は天神山にあったのだろう。今の高遠城の近辺に築城したとするのは、後年の作り話である。盟主が交替した後に笠原氏が生き残り、ダウンサイジングして住居していたのは彼旧領の笠原の地であることが、その根拠に思う。
上記の論の骨の構成は高遠記集成であり、傍証は新陽雑志、箕輪記、千曲之真砂、伊那武鑑根元記、新陽城主取替記などであり、伊那郷村記はさらに傍証であろう。
木曽氏
建武の新政期に尊氏に従った木曽家村が旧領木曽の他洗馬(塩尻)と高遠の塩尻に近い部分を安堵されたのは事実であろう。そして次男義親を高遠に住まわせた。以後木曽家は高遠氏として南朝を支持しながら家系を保持した。しかし、北条残党で南朝の諏訪家が急速に武装化して勢力を拡大すると、隣接の木曽高遠家は圧迫されて勢力を減退された。恐らく諏訪家の内訌の時期までは木曽高遠家は勢力の盛衰が在りながら、存続していたものと思われる。だが、松尾小笠原家に臣下していた高遠(木曽)義久は小笠原信定と不和になり、木曽家と府中小笠原の同盟により、木曽義康に滅ぼされる。高遠の木曽領は義康から派遣された千村が代官として管理する。
上記の論拠は高遠記集成、高遠治乱記で傍証が伊那温知集、伊那志略、新源記である。
ここも、盟主の下にゆるい主従関係で従属し、時が変われば逆転が可能な意識の内に、領内の関係性が在ったのではないだろうか。
諏訪高遠氏
この高遠氏は、人により資料が多く残されておるが、一部を除き信頼性の低い。
文明の頃、大祝諏訪頼継は子の信員を高遠城に据え、始祖となる。ただこの始祖については異説も多い。また住居とした場所の特定もない。そののち、「赤羽記に、高遠の城主断絶しけり、地士合議し、諏訪の惣領を貰い立つる。是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり。」とある。これを正しいとして、高遠治乱記の信広を諏訪頼隣とすれば、継宗が頼隣となり、満継、頼継と続き、辻褄が合ってくる。信員から継宗までの間の系譜は業績の見えない法名の記載で、これを断絶と見るのは理にかなう。
この部分の論拠は、赤羽記、蕗原拾葉、高遠治乱記で、傍証は甲陽軍艦、守谷文書、どうも高遠記集成は木曽系を修飾しすぎのように思う。
上記を考察すれば、現在の高遠城の位置に城を構えたのは、諏訪系の高遠氏の可能性が一番高く、それも継宗が該当する。それまでの諏訪系高遠氏は笠原の跡地で、天神山に居を構えたが、勢力を拡大して膨張し、広く強固な甲山に城を新築したのだろう。
保科氏の発祥と台頭
保科の源流の三系統
1:諏訪神氏の系統で伊那郡保科郷
2:清和源氏井上氏の末裔で、高井郡保科郷
3:清和源氏戸賀崎氏・荒川氏の系統で荒川易氏三男が保科郷に住す。
とあり、高井郡保科は鎌倉期に一部が流れて伊那郡保科郷に住んだと言う説は、1:説に合理する。この頃から伊那保科は諏訪家と関係を持ち、神事に携わるようになる。
清和源氏の高井郡保科は、武家としての系統を持ち神党との繋がりは余りない。また、井上氏を強調して、家系を書き換えた可能性もある。
この場合、荒川易正の養子にいった先の保科の郷は、足利義尚の関係から時期を詮索すれば、村上に圧迫されていた高井郡保科ではあり得ない。
この様に伊那藤沢谷に、高井郡保科と荒川易氏の三男易正が合流する。時期は1500年前後と思われる。また保科正則は高井郡保科を離れる時、16歳であったと飯野保科家の家譜に残るという。
この藤沢保科の時代、1500-1520年頃、三流は整理され、以後系流は、「正」を通字として、一本化する。その時、保科の家系は高井郡の保科家を正統に選び、弾正(=霜台、城)を通称にし、藤沢郷は諏訪神領内からの事実から諏訪神党を誇張した甚四郎も名乗りながら諏訪一族に関係性を持ったのだろう。この家系の調整は、恐らく、年齢の不整合から考えると、正則、正俊までが、名前をそのままに、人格を入れ替えたのでは無かろうか、と考えられる。付録ながら、藤沢邑主の藤沢正満も、どの正則の弟かの問題も出てくる。
そして、整合統一された保科は、正俊の時、同族を吸収しながら膨張したのではないか、そして主導したのは、正俊の父とされる易正?だったのではと考えるのは、神助と呼ばれる所以を考えると、当然の帰結に思う。
この書には、高井郡保科が藤沢谷へ移住した時期を、1493年と断定している。
長谷川正次 伊那・高遠戦国史 戦記蹂躙
いま、上記の書が手元にあり、読んでいます。
伊那市高遠の中世は、とりわけ武田家に蹂躙されるまでの高遠は意外と不鮮明で、歴史書の多くは、武田の信濃攻略から始まってしまいます。そうなると、保科家の発祥と台頭の詳細は明らかになりません。テーマである保科家の発祥と成長、高遠・諏訪における保科の台頭と背景。この背景が意外と不鮮明で、諸説が乱れ、定説が見えてこないところに、この書が存在し平明に解説しております。諸説を精査しながら批判し、本筋の高遠史を貫徹していきます。荒川氏との接点は、一部にその説が在ることの紹介に留めています。長谷川さんの高遠史は、現在本流で、一般的なのかも知れません。
とりあえず、まとめてみますが、本来のテーマから、高遠氏の発祥から武田家滅亡までとし、その後の全文は、自分としては読みますが、まとめません。悪しからず。
このまとめの後で、赤羽記、蕗原拾葉を含めて保科家の発祥と台頭と荒川家との接点を書いてみたいと思っています。
高遠氏の発祥
この場合、高遠氏と言っても同じ血流の高遠氏では無いことをまず確認する。
恐らく、鎌倉の頃この地方に始めて高遠の名がついた。そしてこの地方の盟主は、高遠氏と呼ばれる。それは同事平行ではなく時系列に、各系流の高遠氏と見ることが、かなりの精度で正確と思われる。
笠原氏
鎌倉期から南北朝衰退期までは、この地の盟主は笠原氏であった、と言われている。ただ、笠原氏の発祥は、源平騒乱期に、信濃では少数派の平家側に属し、その戦記が源平盛衰記等に記載されていることを確認し、平家が破れてから源氏に靡き、源氏に戦功があって旧領を安堵された、というのが真実に近いのであろう。だがその領主としての規模はあまり大きいのもでなく、かつ居住地の館は天神山にあったのだろう。今の高遠城の近辺に築城したとするのは、後年の作り話である。盟主が交替した後に笠原氏が生き残り、ダウンサイジングして住居していたのは彼旧領の笠原の地であることが、その根拠に思う。
上記の論の骨の構成は高遠記集成であり、傍証は新陽雑志、箕輪記、千曲之真砂、伊那武鑑根元記、新陽城主取替記などであり、伊那郷村記はさらに傍証であろう。
木曽氏
建武の新政期に尊氏に従った木曽家村が旧領木曽の他洗馬(塩尻)と高遠の塩尻に近い部分を安堵されたのは事実であろう。そして次男義親を高遠に住まわせた。以後木曽家は高遠氏として南朝を支持しながら家系を保持した。しかし、北条残党で南朝の諏訪家が急速に武装化して勢力を拡大すると、隣接の木曽高遠家は圧迫されて勢力を減退された。恐らく諏訪家の内訌の時期までは木曽高遠家は勢力の盛衰が在りながら、存続していたものと思われる。だが、松尾小笠原家に臣下していた高遠(木曽)義久は小笠原信定と不和になり、木曽家と府中小笠原の同盟により、木曽義康に滅ぼされる。高遠の木曽領は義康から派遣された千村が代官として管理する。
上記の論拠は高遠記集成、高遠治乱記で傍証が伊那温知集、伊那志略、新源記である。
ここも、盟主の下にゆるい主従関係で従属し、時が変われば逆転が可能な意識の内に、領内の関係性が在ったのではないだろうか。
諏訪高遠氏
この高遠氏は、人により資料が多く残されておるが、一部を除き信頼性の低い。
文明の頃、大祝諏訪頼継は子の信員を高遠城に据え、始祖となる。ただこの始祖については異説も多い。また住居とした場所の特定もない。そののち、「赤羽記に、高遠の城主断絶しけり、地士合議し、諏訪の惣領を貰い立つる。是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり。」とある。これを正しいとして、高遠治乱記の信広を諏訪頼隣とすれば、継宗が頼隣となり、満継、頼継と続き、辻褄が合ってくる。信員から継宗までの間の系譜は業績の見えない法名の記載で、これを断絶と見るのは理にかなう。
この部分の論拠は、赤羽記、蕗原拾葉、高遠治乱記で、傍証は甲陽軍艦、守谷文書、どうも高遠記集成は木曽系を修飾しすぎのように思う。
上記を考察すれば、現在の高遠城の位置に城を構えたのは、諏訪系の高遠氏の可能性が一番高く、それも継宗が該当する。それまでの諏訪系高遠氏は笠原の跡地で、天神山に居を構えたが、勢力を拡大して膨張し、広く強固な甲山に城を新築したのだろう。
保科氏の発祥と台頭
保科の源流の三系統
1:諏訪神氏の系統で伊那郡保科郷
2:清和源氏井上氏の末裔で、高井郡保科郷
3:清和源氏戸賀崎氏・荒川氏の系統で荒川易氏三男が保科郷に住す。
とあり、高井郡保科は鎌倉期に一部が流れて伊那郡保科郷に住んだと言う説は、1:説に合理する。この頃から伊那保科は諏訪家と関係を持ち、神事に携わるようになる。
清和源氏の高井郡保科は、武家としての系統を持ち神党との繋がりは余りない。また、井上氏を強調して、家系を書き換えた可能性もある。
この場合、荒川易正の養子にいった先の保科の郷は、足利義尚の関係から時期を詮索すれば、村上に圧迫されていた高井郡保科ではあり得ない。
この様に伊那藤沢谷に、高井郡保科と荒川易氏の三男易正が合流する。時期は1500年前後と思われる。また保科正則は高井郡保科を離れる時、16歳であったと飯野保科家の家譜に残るという。
この藤沢保科の時代、1500-1520年頃、三流は整理され、以後系流は、「正」を通字として、一本化する。その時、保科の家系は高井郡の保科家を正統に選び、弾正(=霜台、城)を通称にし、藤沢郷は諏訪神領内からの事実から諏訪神党を誇張した甚四郎も名乗りながら諏訪一族に関係性を持ったのだろう。この家系の調整は、恐らく、年齢の不整合から考えると、正則、正俊までが、名前をそのままに、人格を入れ替えたのでは無かろうか、と考えられる。付録ながら、藤沢邑主の藤沢正満も、どの正則の弟かの問題も出てくる。
そして、整合統一された保科は、正俊の時、同族を吸収しながら膨張したのではないか、そして主導したのは、正俊の父とされる易正?だったのではと考えるのは、神助と呼ばれる所以を考えると、当然の帰結に思う。
この書には、高井郡保科が藤沢谷へ移住した時期を、1493年と断定している。