まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【隙間風】10度を何とか維持・・東京B級下町の超監視社会の恐ろしさ/俳句再出発(日記)

2018-12-14 18:19:42 | 俳句再出発

隙間風たどれば俺は死んでいた   まほろば   最新作  即興

今日も10度は維持していました。風さえ無ければ【冬うらら】の一日と言えなくもなかったようです。ここ東京23区のDEEP下町に転入して6年が経ちました。下町は一見人情に厚く、東京の田舎とされて来ました。私のような本物の田舎を知っている者には笑止な話に過ぎません。大都会の《いなか》とは、今やバーチャル(カルト)な【共同体】の実験場でしかなく、日本の世界の最先端の【分断社会】と化しています。詳細は今後の記事で具体的に暴露していきます。乞うご期待です。これから早目の【夜歩き】に出ます。闇だけが個々人の人生を守ってくれるようです。・・・《続く》

 

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【水のおもて】言い尽くせない想いを言葉に・・新世紀カラオケの天才と俳句の天才*大賞句付/J-POP論・POP詩の宇宙

2018-12-14 07:47:52 | J-POP論/POP詩の宇宙

やっと長い夜が明けた。今日も10度止まりなので、まだ5~6度ではなかろうか。先ほどブログ村からいくつか他のブログに入ってみた。そこで知ったのだが、ある地方在住の俳人が何と【俳人協会】の全国俳句大会で大賞を取っていた。この人は私が数年前よく出ていた句会に欠席投句していた。その当時からずば抜けた秀句ばかりで、この結果は未見の人ながら当然の結果だと思う。句柄(題材)は私のような日常詠とは全く異なり、今回の受賞作も自分には絶対に作れないものであった。とりあえずおめでとうと言いたい。

紙漉きの水のおもてを使いけり   掛井広通  「水のおもて」という表現が優れている。おそらく《写生》を超えている。

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さてTHEカラオケバトルの次回は今年のフィナーレとなる。定番シリーズの中の一つで多種多様なプロ・シンガーによる【異種格闘技戦】の冬のヒットソング特集である。TOP7から翠千賀・中村萌子・海蔵亮太の3名が出場し、他にも一度は観たことがあるなというなかなかの歌い手が顔を揃えた。おそらく、TOP7の中から優勝者が出るだろうが、どれも今年いずれかの大会で勝っており、選曲も直前の抽選で決まるので予断を許さない。この3人のこれまでの代表的な歌唱を聴いてみたい。・・・《続く》

 

翠千賀 カバー 『サイレントイブ』(原曲 辛島美登里)

https://www.youtube.com/f17fea22-0b51-4e32-9af5-31e415d33285

中村萌子 カバー 『瞳はダイヤモンド』(原曲 松田聖子)

https://youtu.be/IZrlKOQvLnc?t=22

海蔵亮太 カバー 『素直』(原曲 槇原敬之)

https://youtu.be/fHBHJwIUqyU?t=132

 


【俳句をどう書くか】坪内稔典・・《俗なるもの》の消滅と再生/私の作句信条を読む(2)~新俳句入門

2018-12-14 06:13:19 | 新俳句入門

今夜は風が無い分【夜歩き】が少しだけ出来た。気温は昨夜と同じ4度程度。いつもなら、その延長で新作を何句か作るのだが、とてもそれどころではなかった。聖と俗という言葉がある。2018年という時点で【高齢単身者】の仲間入りが近づいている《わたし》にとって、日常生活の中で何らかの想いを17音(数律)の【定型】にのせて言語化することは、もはや《俗》の延長上にはあり得ない。だからといって、句を作ることが《俗》なるものと対立する何ものかとしての《聖》なるものに転換出来るような内的な契機はもはやどこにも見当たらない。あるとすれば、結社(主宰)誌なり総合(俳壇)誌に投句(稿)して、より上位つまり表現の質の向上を求める一連の行為の【功利性】であろう。身近かな句会なり大会に出ることも全く同じことである。

「俳句界」10月号の特集『私の作句信条』の各人の主張に対する感想に移る。まず一人目の【坪内稔典】だが、【俳句の特性を活かす】とあり、俳句が蓄積してきた特性として定型、季語、俗語の3つを上げ、その中の【俗語】はまだ十分に活かされていないとする。そして、今日の俳句の主流は【文語】と【歴史的仮名遣い】であり続け、この2つは【俗語】に背を向けているとする。また、この俗語は【日常語】と言ってもいいとしている。確かにその通りであるが、この俗語の忌避は、似非共同体としての【結社】やその集合体である【俳壇】が文語・歴史的仮名遣いという《非日常》を独占し、個々人の表現(言語)過程を収奪するためのカムフラージュと認識すべきだろう。このような状況は、明治期の高濱虚子ら文芸官僚による上からの【近代俳句】の制度(結社)化によって始まった。それが、戦前・戦後の2段階の現代化を経て、1980年代以降の【ポストモダン】の進展により、新たな状況が生まれている。それは坪内が言うように俳句形式そのものから必然的に生まれたのではなく、俳句の外部としての新世紀の《日常性》から自然発生的に生み出された。・・・《続く》

 

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