限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第208回目)『リベラルアーツとしての科学史・東洋篇(その2)』

2013-09-15 22:03:40 | 日記
前回

○古代インドの薬学

インドだけでなく世界中どこでもそうだが、医学にとって薬学は縁の下の力持ちだ。アーユルヴェーダには三つの『サンヒター』とよばれる医学書がある。
 『チャラカ=サンヒター』
 『スシュルタ=サンヒター』
 『アシュターンガ=フリダヤ=サンヒター』


これらの本には総計、約600種の薬草の効用が記述されている。また、『チャラカ=サンヒター』では 165種類の動物について述べ、動物のいろいろな部位の薬効についても述べている。鉱物に関しても、64項目にわたって薬効について述べる。
 『古代インドの科学と技術の歴史』(2、 P.224)(東方出版)、デービプラサド=チャットーパーディヤーヤ(佐藤任・訳)

インド人は植物、動物、鉱物の医薬への利用を目的として熱心に研究し、分類した。ただ、薬がどのように効くかなど科学的な実証については興味をもたず、5元素の観念論に終始したようだ。彼らが名付けた、いろいろな植物・薬草の名前は中東・小アジアを経由して古代のギリシャに伝わり、ヒポクラテスの著作にもそれらの名前を見出すことができる、と言われている。

具体的に幾つかの例を示めそう。(左がギリシャ語、右がサンスクリット語)
 カルダモン(小豆蒄・καρδαμωμον) : Kardama
 ぺプリ(胡椒・πεπερι)    : Pippali 
 ジンギベリス( 生姜・ζιγγιβερισ) : Srngaveram

ついでに言うと、人体の器官の名前にもサンスクリット語由来の単語がある。例えば:
 ヴァルヴァ(女性の外陰部・βολβα) : Ulva
 フレグマ(粘液・φλεγμα)     : Slesma

私は個人的には、下の2つの単語はサンスクリット経由でギリシャ語に入ったというより、もともと印欧祖語に共通の語彙であったように感じる。何故なら、上の3つの植物はインド産でギリシャに見つからないが、下の2つの物はギリシャに無かったとは到底思えないからだ。(あるいは古代のギリシャ人は、みな男で粘液を持たなかったとでも言うのであろうか?)


【出典】Itoozhi Ayurveda

○インド科学史研究の発展

インド人は元来インドの科学史に関して興味を示さなかった。その暗闇の扉を開いたのが、 18世紀末、インドに上級裁判所の判事として赴任したウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)であった。彼はギリシャ語やラテン語を初めとして複数のヨーロッパ言語、およびアラビア語の知識があった。インドに来てサンスクリット語の文章を読んでいる内に、いくつかの単語がギリシャ語やラテン語と類似関係があることに気づいた。

彼はそこから、ヨーロッパ言語群とサンスクリット語は親戚関係にあり、それは遠い過去に同じ先祖から分れたものだと推定した。 1786年2月、ジョーンズがカルカッタでこの考えを発表すると、多くのヨーロッパ人は非常な興味をそそられ、これからサンスクリット語を含めてヨーロッパ言語全体を研究する比較言語学が発達した。言語研究をきっかけとしてヨーロッパ人はヴェーダやウパニシャッドのような古代のインド哲学の研究へと関心の領域を広げた。

このようにして始まったインド学であるが、ヨーロッパ人の関心は主として言語学と宗教・哲学に限定され、インドの科学史・技術史に対する研究はあまりなされなかった。

またインド人自体も自分達の科学史に対しては興味を示なかった。第二次世界大戦後の1950年代以降になってようやくインド人によるインド科学史の研究がスタートした。その成果は、1971年に発刊された分厚い "A Concise History of Science in India"に見ることができる。この本の内容に対しては、批判的な意見もある。(『逆説の旅』佐藤任 P.14)
(現時点では私はまだこの本は読んでいないのでこれ以上の言及は控える。)

○インドの古代科学史を読んだ感想

日本ではインドというと仏教をふくめ宗教関係やインド哲学に関する本はかなり多いが、インド科学に関する書物は極めて少ないのが現状である。ただ、これは日本だけの特異現象でなく、インドも含め、世界的にそのようだ。その数少ない、邦訳のインド科学史のかなり分厚い本を最近見つけた。

デービプラサド=チャットーパーディヤーヤが書いた2巻本で合計 1000ページ超のボリュームがある本だ。
 『古代インドの科学と技術の歴史』(佐藤任・訳) (東方出版)

タイトルに釣られて読み進んだが、全くの期待外れであった。読後感想を比喩的に表現すると次のようになる。

 旨い魚をたべさせてくれる店があるという。行ってみると、まず突出しがでた。次いで、サラダや煮物がでた。いろいろ出たが、メインディッシュが出ないまま、サケ茶漬けがでた。『旨い魚はまだか?』と尋ねると、『出ていますよ!』との答え。見ると、ゴマ粒大のサケの切り身が幾つか見つかっただけ。

この本は、タイトルこそ古代インドの『科学と技術』と謳ってはいるものの内容的には、『ウパニシャッド』などのヴェータ(哲学、宗教)の話が非常に多く、科学的・技術的な話題は極めて少ない。その上、同じ内容の繰り返しが多く、更には、言い訳や他人の言説批判、など冗長で非生産的な話が多い。確かに、科学や技術を背景の社会環境や基盤文化から切り離して論ずることはできないのは確かだが、もしこの本の中から純粋に科学・技術的な内容だけを抜粋すると、多分 1/10の分量、つまり 100ページにも満たない小冊子になると思われる。

インド人が科学や技術を論じる時になぜ、このような観念的な話多いのであろうか?

つらつら考えるに、インドは強固な階層社会であり、観念論・抽象論は高尚だ、と考える根強い伝統がある。社会の最上層であるバラモンは汗を流して働くことなく、高尚な思索にふける特権を享受している。それ故、バラモンの知的著作にはインドの最高の叡智であるヴェーダやウパニシャッドについてどの程度知っているかを証明する義務がある。言及しないというのは、筆者の知的レベルの低さを公言しているようなものだ。それ故、どのようなテーマの書物であれヴェーダやウパニシャッドに関する薀蓄の披瀝がインドの伝統なのだ。

○インド科学の他の文化圏との関連

古代インドと他の文化圏との科学分野における関係は、概していえばインドが外に対して影響を及ぼしている。例えば、医学で言えば、古代インドのアーユルヴェーダは既にBC 8世紀には確立していたと言われている。それに対して、ギリシャ医学は BC 5世紀ごろに確立したと言われているので、ギリシャはインドから影響を受けた可能性が高いと言われている。また中国医学に関しては仏教の伝来と共にインド医学が中国に伝えられたと推定される。

インドの科学技術の頂点は古代から少し時代は下がるがグプタ王朝(AD 320 - 550)であった。グプタ王朝は、ガンジス川流域の北部インド中心とし、商業、金融業、手工業が発展した。サンスクリット語を公用語とし、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の二大叙事詩を完成させ、後世のインド文化に多大な影響を与えた。また西方(ビザンチン帝国、ササン朝ペルシャ)や東方(東南アジア、中国)との交易を通じてインドの高度な科学技術が伝播した。

数学や天文学では多くの天才科学者の業績がイスラム圏に伝えられた。例えば、アールヤバタ (Aryabhata, 476 - 550)は半弦表を用いた三角関数を導入した。ブラフマグプタ( Brahmagupta, 598‐665)の数学と天文学の著書はアラビア語に翻訳され 8世紀のイスラムの天文学と数学に多大な影響を与えた。具体的には次のような項目だ。
 ゼロおよび負の数の記法
 二次不定方程式
 二平方恒等式
 円の内接四角形の面積の公式 
 三角関数の発展(正弦表の中間の角度の値の補間公式)


グプタ朝以降も、インド数学界は何人かの天才数学者生んだ。とりわけバースカラ2世 (Bhaskara, 1114 - 1185) の著作はインド古典派数学の頂点を示すと称された。その研究内容は近代西洋数学の先駆者とも言えるものであった。
 二次方程式、三次方程式、四次方程式の解法
 解析学や微分・積分の基本概念の発見
 三角関数の導関数の計算
 球面三角関数の展開


このように、インドには幾人かの科学者がいたが、それは線香花火にも似て単発的には天才的な煌めきを放つものの、総合力・団体力という観点からはヨーロッパとは比較にならない貧弱なものであった。このインド科学の停滞、そして衰退の原因は社会的要因に求めることができる。一言で言えば、
 『観念論に対する過度な崇拝と、それに比例して、工芸技術に対する不当なまでの蔑視』
が原因だ。手先や体を動かすことを厭い、汗をかく作業を避け、頭だけで物事を観念論的に考える上層階級(バラモン)の科学者。その対極にいたのが、体と道具を使い物を作り上げていく下層階級(シュードラ)技術者。この2つが階層的に分離していた。

以前のブログ、
 沂風詠録:(第180回目)『ニーダムの疑問への回答(補遺)』
に述べたように、本来的には、『技術の発展なくして科学の発展がなかった』のであるから、インドのようにいくら高い技術力を持つ技術者が数多くいても、科学者が自分の研究器具の制作の為に、彼らを有効に使うことができなければ、結局のところ科学の進歩もありえかった。この点では、カースト制度の基礎をなすジャーティ( Jati、排他的な職業・地縁的社会集団)の細分化とジャーティ間およびカースト間の互いに不干渉的な態度がインド科学の衰退を宿命づけたともいえる。

続く。。。
コメント
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