限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第210回目)『リベラルアーツとしての科学史・東洋篇(その4)』

2013-09-29 20:29:02 | 日記
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○『夢渓筆談』

宋代(北宋:960 - 1127、南宋:1127 - 1279)は中国のルネサンスといわれ、市民社会と諸産業が勃興した。科学史においてはニーダムが『中国科学史における一座標』と評した『夢渓筆談』が沈括( 1029 - 1093)によって書かれている。

沈括は父祖の代から科挙合格者(進士)の家柄であったようで、その恩恵で官位に就くことができた(蔭位)。しかし当時、蔭位で官位についても肩身が狭いので、沈括は後に正式に科挙を受け、合格して官吏になった。

宋史・巻331によると、沈括は司天監(天文台長)に任命されるや、矢継ぎ早に組織改革を行ったようだ。
 『天体儀や日時計を設置し、水時計も修理して正しい時刻を刻むようにした。また暦の専門家である衛朴を招聘して改暦した。技術部門を増強するために才能のある技術者を広く募集した。』
(提舉司天監,日官皆市井庸販,法象圖器,大抵漫不知。括始置渾儀、景表、五壷浮漏,招衛朴造新暦,募天下上太史占書,雜用士人,分方技科爲五,後皆施用。)

各地での土木作業や職工の作業を見聞したものをまとめた本が『夢渓筆談』である。

『夢渓筆談』は合計で609条の記事が載せられている。(正編:26巻、続筆談:1巻、補筆談:3巻)その内容は多岐にわたる。
 科学技術(210条)、政治・経済・法律(170条)、逸話・伝聞(110条)、考古学・音楽・諸記録(110条)、本草(80条)、天文・暦法(40条)、数学(10条)、地質・鉱物(17条)、地理学(15条)、物理・化学(10条)、建築・土木・工学系(30条)

科学的記述としては次のような内容が挙げられる(巻・ページ数は東洋文庫本による)
 巻1・P.51: ピンホールで像が倒立する。
 巻1・P.177: 歳差は80年に一度ずれる。(巻3・P.160 )
 巻2・P.30: 閘門で水位を調節する運河(パナマ式運河)
 巻2・P.59: 人工の声帯で冤罪を晴らす。(顙叫子・のどぶえ)
 巻2・P.166: 立体の体積を求める公式、隙積法を考案
 巻2・P.211: 透光鑑 (Magic Mirror) -- 背面の文字が日光で透けて見える。
 巻3・P.19: 地磁気の偏角の存在。磁針はいつもやや東に偏寄る。
 巻3・P.159: 潮の満ち引きは月が原因
 巻3・P.190: 干ドックのアイデアを宦官の黄懐信が提案

『夢渓筆談』は中国・宋代の科学技術の水準の高さを示すが、文優位の中国にあってはあまり高く評価されなかったようだ。その証拠に宋史には沈括が65歳で没したと記した後で『夢渓筆談』に関して短く次のようにコメントする。
 『沈括は博学で、文が上手であった。また天文、方志、律暦、音楽、医薬、卜算、など知らないことはなく、多く論文を書いた。また普段、友人達と話したことをまとめて『筆談』を作った。ここには、朝廷の故実や古老の話などが多く載せられていて、今に伝わる。』
 (沈括博學善文,於天文、方志、律暦、音樂、醫藥、卜算,無所不通,皆有所論著。又紀平日與賓客言者爲筆談,多載朝廷故實、耆舊出處,傳於世。)

これを読むと沈括の本領は科学者というより文人(エッセイスト)であったような印象を与える。



沈括のような文人兼科学者は、後漢にも張衡(字:平子)の例がある。張衡は文人として、また科学者としても頭抜けていた。文人としての名声は、文選の巻2,3を占める『二京賦』(西京賦、東京賦)で千古に輝く。後漢書・巻49に張衡の伝があるが、約7000文字の内、科学者としての記述はわずか250字、つまり4%の分量しかない!

○中国に入ってきた西洋科学

東アジアにおいて、中国文明の水準が頭抜けていたため、科学のみならず文化面で外部から影響を受けることが少なかった。商人として中国を訪れ、定住したイスラム教徒から多少の影響はあったにしても、それは際立ったものではなかった。中国の科学史一つの大きな転回点をもたらしたのが、明末に西洋からキリスト教布教のために中国にやってきた宣教師たちだった。宣教師たちの多くは当時のヨーロッパの科学技術に関してもかなり確かな知識をもっていた。中国人はこれら宣教師から聞いたヨーロッパの数学について高い関心をもった。ユークリッド原典をはじめとして数学の専門書を数多く翻訳した。(この点に関しては、いずれ日本の科学史を説明する時に触れたい。)

ヨーロッパの科学との遭遇が中国人の世界観に及ぼした一つの例が、マテオ・リッチ(Matteo Ricci、利瑪竇、1552 - 1610)が中国語に訳した『坤輿万国全図』であろう。この地図によって中国人は初めて世界の地理について正しい認識を得ることができた。マテオ・リッチは1582年(30歳)に中国に到着してから、中国語(漢文)を勉強し、漢文を完璧に読みこなせるまでになった。経書を尽く読破し、中国の儒学者と対等に議論できるようになった最初のヨーロッパ人だと言われている。その語学力を生かして、儒教の経書をラテン語に翻訳したり、また逆にヨーロッパの科学書だけでなく、キリスト教の関係書も漢文に翻訳した。

マテオ・リッチをはじめとして明末、清初にはヨーロッパから数多くの宣教師が中国に来て科学の知識を広めたが、中国人の教養人(文人)たちがヨーロッパ言語を学び、原典から直接、知識を得るという所までは至らなかった。これが日本の蘭学者たちとの大きな差である。ここにも日本が明治以降、すみやかに近代化に成功したが、中国はそうではなかった理由が見てとれる。

○中国の科学史の特徴

ヨーロッパと比較して中国では科学も技術も文に比べると下だとする認識が古来からある。儒教の五経の一つ、礼記の巻19《楽記》には
 『徳成而上、藝成而下』(徳なりて上、芸なりて下)
という句が見える。こういった伝統のために、張衡にしろ、沈括にしろ史書では科学者としての業績より、文人としての業績が大書されていたのだ。

中国は地理的な大きさから言うとヨーロッパ全体に匹敵する。そういう広い面積をもつ国であるから方言は地方差が大きく、中国人同士でも互いに理解できなかった。ただ、文章語(文語)は共通していた。この意味で、文語は口語とかなり乖離はあったものの、ヨーロッパのラテン語同様、書籍を通じて知識の伝播と共有がスムーズに行われた。現代においても、Wikipediaの中国版や百度百科の文章を読むと、かなり伝統的な文語文に近いことがわかる。

○中国とヨーロッパの科学の比較、他

中国とヨーロッパの科学を比較してみると、中国がヨーロッパと同程度に発達分野は、占星術、薬学(本草学)、錬金術、などが挙げられる。一方、物理学、数学、化学、医学、に関しては中国の進歩はヨーロッパに一籌を輸す(負けている)。中国独自の観念論哲学と関連している似非科学としては、陰陽五行説、不老長寿(丹術)などが挙げられる。

たびたび言及しているニーダムの本『中国の文明と科学』は、タイトルこそ、科学であるが、内容的にはむしろ技術面の記述の方が多い。それは、ニーダムが中国の科学技術の高さを示すため、科学よりも技術に重心をおいて資料を集めたからだと私は思う。

こういう風に考えるのは、科学は本来的に西洋人の気質に合っているが、中国(および日本)には合っていないからである。そもそも科学は本来的に『根源的な原理の追及』を目指している。以前のブログ沂風詠録:(第205回目)『リベラルアーツとしての科学史(その4)』でも述べたように、
 西洋では『原理・法則の追求』するが、中国(および日本)はそうでない。
という西洋人の気質はまさに科学の目指すものと合致している。一方、中国(や日本を含む東洋)では根源的な追及より、実用で満足して止まってしまっている面が多くみられる。東洋流の科学的精神は科学(Sciences)よりもむしろ技術(Arts)に、より濃厚に表れていると私は考える。

この意味で、中国、日本(および朝鮮)は科学史より技術史を調べることの方が得るものが多いと私は想像している。

続く。。。
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