清流派の党人と濁流派の宦官とは所詮並存できない関係にあった。この党人と宦官の対立は、あたかもハリウッド映画のように、善が悪に向かっていくヒーロー物語のようではあるが、その実はいつものように倫理的な善悪とは無関係の勢力争いが根底にある。両者の対立はくすぶり続けていたが、とうとう最終的に決着をつける時がきた。まずは党人側から動き出した。
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資治通鑑(中華書局):巻56・漢紀48(P.1808)
AD165年に竇武の娘が皇后になるに際して、陳蕃が尽力した。それ以降、政治のことは事の大小に拘わらず全て陳蕃の判断を仰いだ。陳蕃は竇武とともに力を合わせて王室を盛り立てた。そして、賢人との評判が高かった、李膺、杜密、尹勲、劉瑜などを登用し、政治に当たらせた。それを聞いた人々はこれで漸く天下が太平になるものと期待した。一方、霊帝の乳母である趙尭や竇太后に仕えている女官たちは宦官で中常侍の曹節や王甫と結託し、竇太后に取り入り、自分たちの都合のよいことばかりを吹き込んでいた。竇太后もそのうちに彼女たちの言うことを信用し、その一派を登用しだした。これに対して陳蕃や竇武は不満を抱いた。ある時、廟堂において陳蕃は竇武にこう言った。『曹節や王甫は、先帝(桓帝)の時から政治の実権を握っているが、悪政つづきで、国内は乱れている。いま奴らを殺さなければ、後になっては難しい。』竇武が了解したので、陳蕃は大喜びし、テーブルを押しのけてすっくと立った。竇武はさらに尚書令の尹勲たちを仲間に引き入れて、打倒宦官の秘策を練った。
初,竇太后之立也,陳蕃有力焉。及臨朝,政無大小,皆委於蕃。蕃與竇封遂、心戮力,以奬王室,徴天下名賢李膺、杜密、尹勳、劉瑜等,皆列於朝廷,與共参政事。於是天下之士,莫不延頚想望太平。而帝乳母趙尭及諸女尚書,旦夕在太后側,中常侍曹節、王甫等共相朋結,諂事太后。太后信之,數出詔命,有所封拜。蕃、武疾之,嘗共會朝堂,蕃私謂武曰:「曹節、王甫等,自先帝時操弄國權,濁亂海内,今不誅之,後必難圖。」武深然之。蕃大喜,以手椎席而起。武於是引同志尚書令尹勳等共定計策。
初め、竇太后の立つや,陳蕃、力あり。朝に臨み,政の大小となく,皆な蕃に委ぬ。蕃、竇武と心を共にし、力を戮せ,以って、王室を奨む。天下の名賢、李膺、杜密、尹勲、劉瑜らを徴し、皆な朝廷に列し,艪ニもに政事に参す。ここにおいて天下の士,頚を延ばし、太平を想望せざるはなし。而るに帝の乳母、趙尭、および諸女尚書,旦夕、太后の側にあり,中常侍の曹節、王甫らと共にあい朋結し,諂いて太后につかう。太后、これを信ず。たびたび詔命を出だし,封拝する所あり。蕃、武、これを疾む。かつて共に朝堂に会す。蕃、私に武に謂いて曰く:「曹節、王甫ら,先帝の時より国権を操弄し、海内を濁乱す。今、これを誅せざれば,後に必ず図り難し。」武、深くこれを然りとす。蕃、大いに喜び,手をもって席を椎して起つ。武、ここにおいて同志の尚書令・尹勲らを引き、共に計策を定む。
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中国は昔からずっと男尊女卑と言われているが、こと政治に関しては、しばしば幼帝の祖母(あるいは祖母に相当する)の太后がコーナーストーン(要石)となり、その意向で政治の流れが大きく変わる。ただ、今回の竇太后の場合、事情がすこし複雑である。というのは、党人サイドに立つ竇武は竇太后の実の父親であるし、党人の頭目である陳蕃は竇太后の立后に尽力したので、竇太后には貸しがある。しかし、竇太后本人は、宦官グループと結託する宮廷内の女官達に取り込まれてしまっていた。結局、この両派の抗争は竇太后がキャスティングボードを握っていたのだった。
(詳細は Wikipedia 竇武を参照のこと)
しかるに竇太后が何ら具体的な行動を起こさなかった。その内に、宦官撲滅を上申した秘密文書が宦官達の手に渡ったため、竇武達は宦官グループに捕らわれて殺されるか、あるいは追い詰められて自殺する羽目に陥った。自殺するというのは、日本では形而上学的な名誉という意味をもつが、中国では、捕らえられると必ず待っている拷問を避けるという実質的な意味があった。
【出典】中国の仏塔
こういう政権争いはどこの国のどの時代に於いても起こっていたので、取り立てていうことはない。ただ中国の社会の仕組みで問題なのは、主権者の交代に伴う、広範囲におよぶ理不尽な殺戮や弾圧である。
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資治通鑑(中華書局):巻56・漢紀48(P.1811)
竇武や甥の竇紹は逃走したが、宦官の兵隊が追跡して取り囲んだので皆自殺し、洛陽の都門に梟首された。それに止まらず、竇武の親戚や友人たちも皆殺しにされた次いで、侍中の劉瑜や屯騎校尉の馮述は一族が皆殺しにされた。宦官たちは、虎賁中郎将の劉淑や元の尚書の魏朗が竇武と共謀していたと言いふらしたので、皆自殺した。皇太后である竇太后を南宮へ隔離し、竇武の家に残っていた家来達を日南へ追いやった。官僚のうち、陳蕃や竇武が推挙した者たちは誰も彼も皆、クビにし禁錮した。
武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺,梟首洛陽都亭;收捕宗親賓客姻屬,悉誅之,及侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。宦官又譖虎賁中郎將河間劉淑、故尚書會稽魏朗,雲與武等通謀,皆自殺。遷皇太后於南宮,徙武家屬於日南;自公卿以下嘗爲蕃、武所舉者及門生故吏,皆免官禁錮。
武、紹走る,諸軍、これを追い囲む。皆、自殺す,洛陽の都亭に梟首す。宗親・賓客・姻属を収捕し,悉くこれを誅す。及び、侍中・劉瑜、屯騎校尉・馮述、みなその族を夷す。宦官、また虎賁中郎将・河間の劉淑、故尚書・会稽の魏朗を譖し、武らと通謀すという。皆、自殺す。皇太后を南宮に遷し,武の家属を日南に徒す。公卿より以下、かつて蕃や武の挙げらる所となる者、及び、門生・故吏、みな免官し禁錮す。
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中国の政治闘争の激しさが日本より遥かに激しいのは、このように一旦自分の関係する党派が蹴落とされた場合、単に失職するだけではなく、生命・財産までも、それも官僚である本人だけでなく、その親族・友人たちをも巻き込んだ人々が巻き添えをくらう、という慣習に拠っている。つまり、グループ間の戦いとは、文字通り生命と全財産を賭して数千人、場合によっては数万人、規模行われているので、我々の想像を絶する壮絶な戦いとなるのだ。
さて、この両派の対立は、歴史の常識から判断すれば、善人で廉潔な党人が悪人で貪欲な宦官を排除しようとした、清濁の対立と考えられよう。しかし、資治通鑑を通読した後では、私は、このような勧善懲悪的な考えに立っている限り中国は理解できないと分かった。これが冒頭で述べた、この両派の対立は、善悪とは無関係の勢力争いが根底にある、という意味だ。確かに党人の中には善政を志向している人が多かったのは事実だと思えるが、末端の胥吏まで含めた党人のグループ全体をみた場合、宦官のグループとの懸隔はあまりなかったのではないかと私は考える。庶民を収奪の対象としか見ていない末端の胥吏の態度は、誰が政治的権力を握っても最終的にはさしたる差を生じなかった所に中国の悲劇の本質があると私は考えている。
資治通鑑を読むと、庶民の福利・安寧を基準に考えた場合、とにかくも政権が安定して、軍事的に内乱や外乱が抑えられてさえいればそれが中国の人々にとっては最高の幸せだったに違いない、と思えてくる。正史に載せられているような朝廷の中の権力闘争や、政界の出世競争などは、社会の底辺に暮らす庶民からみれば、大海の表面のさざなみにしか過ぎなかった。
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資治通鑑(中華書局):巻56・漢紀48(P.1808)
AD165年に竇武の娘が皇后になるに際して、陳蕃が尽力した。それ以降、政治のことは事の大小に拘わらず全て陳蕃の判断を仰いだ。陳蕃は竇武とともに力を合わせて王室を盛り立てた。そして、賢人との評判が高かった、李膺、杜密、尹勲、劉瑜などを登用し、政治に当たらせた。それを聞いた人々はこれで漸く天下が太平になるものと期待した。一方、霊帝の乳母である趙尭や竇太后に仕えている女官たちは宦官で中常侍の曹節や王甫と結託し、竇太后に取り入り、自分たちの都合のよいことばかりを吹き込んでいた。竇太后もそのうちに彼女たちの言うことを信用し、その一派を登用しだした。これに対して陳蕃や竇武は不満を抱いた。ある時、廟堂において陳蕃は竇武にこう言った。『曹節や王甫は、先帝(桓帝)の時から政治の実権を握っているが、悪政つづきで、国内は乱れている。いま奴らを殺さなければ、後になっては難しい。』竇武が了解したので、陳蕃は大喜びし、テーブルを押しのけてすっくと立った。竇武はさらに尚書令の尹勲たちを仲間に引き入れて、打倒宦官の秘策を練った。
初,竇太后之立也,陳蕃有力焉。及臨朝,政無大小,皆委於蕃。蕃與竇封遂、心戮力,以奬王室,徴天下名賢李膺、杜密、尹勳、劉瑜等,皆列於朝廷,與共参政事。於是天下之士,莫不延頚想望太平。而帝乳母趙尭及諸女尚書,旦夕在太后側,中常侍曹節、王甫等共相朋結,諂事太后。太后信之,數出詔命,有所封拜。蕃、武疾之,嘗共會朝堂,蕃私謂武曰:「曹節、王甫等,自先帝時操弄國權,濁亂海内,今不誅之,後必難圖。」武深然之。蕃大喜,以手椎席而起。武於是引同志尚書令尹勳等共定計策。
初め、竇太后の立つや,陳蕃、力あり。朝に臨み,政の大小となく,皆な蕃に委ぬ。蕃、竇武と心を共にし、力を戮せ,以って、王室を奨む。天下の名賢、李膺、杜密、尹勲、劉瑜らを徴し、皆な朝廷に列し,艪ニもに政事に参す。ここにおいて天下の士,頚を延ばし、太平を想望せざるはなし。而るに帝の乳母、趙尭、および諸女尚書,旦夕、太后の側にあり,中常侍の曹節、王甫らと共にあい朋結し,諂いて太后につかう。太后、これを信ず。たびたび詔命を出だし,封拝する所あり。蕃、武、これを疾む。かつて共に朝堂に会す。蕃、私に武に謂いて曰く:「曹節、王甫ら,先帝の時より国権を操弄し、海内を濁乱す。今、これを誅せざれば,後に必ず図り難し。」武、深くこれを然りとす。蕃、大いに喜び,手をもって席を椎して起つ。武、ここにおいて同志の尚書令・尹勲らを引き、共に計策を定む。
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中国は昔からずっと男尊女卑と言われているが、こと政治に関しては、しばしば幼帝の祖母(あるいは祖母に相当する)の太后がコーナーストーン(要石)となり、その意向で政治の流れが大きく変わる。ただ、今回の竇太后の場合、事情がすこし複雑である。というのは、党人サイドに立つ竇武は竇太后の実の父親であるし、党人の頭目である陳蕃は竇太后の立后に尽力したので、竇太后には貸しがある。しかし、竇太后本人は、宦官グループと結託する宮廷内の女官達に取り込まれてしまっていた。結局、この両派の抗争は竇太后がキャスティングボードを握っていたのだった。
(詳細は Wikipedia 竇武を参照のこと)
しかるに竇太后が何ら具体的な行動を起こさなかった。その内に、宦官撲滅を上申した秘密文書が宦官達の手に渡ったため、竇武達は宦官グループに捕らわれて殺されるか、あるいは追い詰められて自殺する羽目に陥った。自殺するというのは、日本では形而上学的な名誉という意味をもつが、中国では、捕らえられると必ず待っている拷問を避けるという実質的な意味があった。
【出典】中国の仏塔
こういう政権争いはどこの国のどの時代に於いても起こっていたので、取り立てていうことはない。ただ中国の社会の仕組みで問題なのは、主権者の交代に伴う、広範囲におよぶ理不尽な殺戮や弾圧である。
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資治通鑑(中華書局):巻56・漢紀48(P.1811)
竇武や甥の竇紹は逃走したが、宦官の兵隊が追跡して取り囲んだので皆自殺し、洛陽の都門に梟首された。それに止まらず、竇武の親戚や友人たちも皆殺しにされた次いで、侍中の劉瑜や屯騎校尉の馮述は一族が皆殺しにされた。宦官たちは、虎賁中郎将の劉淑や元の尚書の魏朗が竇武と共謀していたと言いふらしたので、皆自殺した。皇太后である竇太后を南宮へ隔離し、竇武の家に残っていた家来達を日南へ追いやった。官僚のうち、陳蕃や竇武が推挙した者たちは誰も彼も皆、クビにし禁錮した。
武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺,梟首洛陽都亭;收捕宗親賓客姻屬,悉誅之,及侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。宦官又譖虎賁中郎將河間劉淑、故尚書會稽魏朗,雲與武等通謀,皆自殺。遷皇太后於南宮,徙武家屬於日南;自公卿以下嘗爲蕃、武所舉者及門生故吏,皆免官禁錮。
武、紹走る,諸軍、これを追い囲む。皆、自殺す,洛陽の都亭に梟首す。宗親・賓客・姻属を収捕し,悉くこれを誅す。及び、侍中・劉瑜、屯騎校尉・馮述、みなその族を夷す。宦官、また虎賁中郎将・河間の劉淑、故尚書・会稽の魏朗を譖し、武らと通謀すという。皆、自殺す。皇太后を南宮に遷し,武の家属を日南に徒す。公卿より以下、かつて蕃や武の挙げらる所となる者、及び、門生・故吏、みな免官し禁錮す。
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中国の政治闘争の激しさが日本より遥かに激しいのは、このように一旦自分の関係する党派が蹴落とされた場合、単に失職するだけではなく、生命・財産までも、それも官僚である本人だけでなく、その親族・友人たちをも巻き込んだ人々が巻き添えをくらう、という慣習に拠っている。つまり、グループ間の戦いとは、文字通り生命と全財産を賭して数千人、場合によっては数万人、規模行われているので、我々の想像を絶する壮絶な戦いとなるのだ。
さて、この両派の対立は、歴史の常識から判断すれば、善人で廉潔な党人が悪人で貪欲な宦官を排除しようとした、清濁の対立と考えられよう。しかし、資治通鑑を通読した後では、私は、このような勧善懲悪的な考えに立っている限り中国は理解できないと分かった。これが冒頭で述べた、この両派の対立は、善悪とは無関係の勢力争いが根底にある、という意味だ。確かに党人の中には善政を志向している人が多かったのは事実だと思えるが、末端の胥吏まで含めた党人のグループ全体をみた場合、宦官のグループとの懸隔はあまりなかったのではないかと私は考える。庶民を収奪の対象としか見ていない末端の胥吏の態度は、誰が政治的権力を握っても最終的にはさしたる差を生じなかった所に中国の悲劇の本質があると私は考えている。
資治通鑑を読むと、庶民の福利・安寧を基準に考えた場合、とにかくも政権が安定して、軍事的に内乱や外乱が抑えられてさえいればそれが中国の人々にとっては最高の幸せだったに違いない、と思えてくる。正史に載せられているような朝廷の中の権力闘争や、政界の出世競争などは、社会の底辺に暮らす庶民からみれば、大海の表面のさざなみにしか過ぎなかった。
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