現代の日本人にとっては、英語が鬼門になっている人が多い。英語というのは習得するのにとてつもなく難しい言語であると感じているようだ。私自身も、1977年、ドイツへ留学する前はそういう感覚であった。しかし、ドイツで暮らす内に、特に旅行でユースホステルに泊まって、各国の若者と話し合う内に、高い壁で向こうが遮られて見えなかったのが、どうやら肩越しにのぞける位にまでなってきた。(論語・子張篇、『譬之宮牆、賜之牆也及肩、窺見室家之好』) TOEICでいうと880点、TOEFLでいうと iBT/100点(PBT/600点)の段階だったと想像する。それから、1982年にアメリカに留学して日常的に英語を聞き・話し、読み・書きしている内にプレタポルテの服があたかもあつらえた服のように体にびったりとフィットするような感覚を得た。
しかし、今から振り返るとこの時点での私の英語はまだ、孫悟空で言うとお釈迦様の手のひらで踊っていたようなものだったと感じる。
その後、40歳を過ぎてからラテン語とギリシャ語を独習して初めて、英語やドイツ語を含むヨーロッパ言語(印欧語・Indo-European Languages)のもつ奥行が分かってきた。その時になって初めて、そこまでの私のドイツ語や英語はまだ殿堂の入り口に佇んでいたに過ぎなかったことを理解した。まさに論語にいう『堂にのぼれり。未だ室に入らず』(升堂矣、未入於室也)の比喩がぴったりだ。
【参照ブログ】
沂風詠録:(第106回目)『私の語学学習』(その38~45)
さて、前回のブログ、沂風詠録:(第187回目)『ニーダムの疑問への回答(補遺2)』でも触れたように、目下、René Taton(ルネ・タトン)の L’Histoire générale des sciences を読んでいる。
この第3巻で、彼らヨーロッパの人たちのギリシャ語とラテン語に対して抱いている感覚の一端に触れることができたのではないかと思えることがあった。私一人の勝手な解釈かもしれないが、紹介したい。
彼らの話に移るまえに、比較のため、日本語の枠組みで説明しよう。
次の3つの単語のグループを比べてみてどういう印象をもつだろうか?
A群:女性(にょしょう)、明星(みょうじょう)、自然(じねん)
B群:女性(じょせい)、明星(めいせい)、自然(しぜん)
C群:おなごしゅう、あかつきのほし、ありのまま
我々は、個々の単語を耳で聞いただけで、それぞれが別の色合い(音合い?)を持っていることがすぐに分かる。そう、お気づきのようにA群は漢字の呉音よみ、B群は漢字の漢音よみ、そしてC群は大和ことばである。それぞれのグループは、各々一定の規則をもって音韻で構築されていて、他の音韻グループと明らかに『何か違う』と感じさせる。その上、我々の耳には呉音の単語はなにやら古めかしく荘厳な雰囲気があり、大和ことばは柔らかい感じがする。漢音が一番普通に響く。
我々がこの3つの音韻グループについてこのような感覚を抱くのは、子供のころからの何十年ものあいだ知らず知らずの内に数多くの場面でそれぞれの単語が発音されるのを聞いて『語感』が形成されて来たからに他ならない。これは私の想像であるが、日本語を全くしらない外国人がこれらの単語を初めて耳にした時には、この単語はA群、あの単語はB群などと分類することができないのであろうと想像される。つまり、音韻とそれがもたらす感情は(多分)生得なものでなく、あくまでもその文化に育つことで獲得できるものである。
ところで、余談になるが、日本語と漢語の間で、妙な現象がある。それは、二語の語句において単語の順序が逆転するのだ。例えば次のような語句だ。
表裏(うらおもて)、夫婦(めおと)、雌雄(オスメス)
風雨(あめかぜ)、左右(みぎひだり)、油水(みずとあぶら)
これは単に口調だけの問題と思えるが、私の知らない何か規則があるのかもしれない。ついでに言うと、語句の逆転は日本語と中国語の間以外にも、ギリシャ語と英語の間にも見られる。例えば、今、手元に対訳本(Loeb)が無いので、どの箇所と特定できないが、ギリシャ語で"an arrow and a sword" と書いているような箇所の英語訳では、"a sword and an arrow" という具合、語句の順序が逆になっている。それが、たまたま一か所しかないのなら、訳者の不注意ということもできるが、何ヶ所もあるので、これまた私の知らない何か規則があるのかもしれない。

閑話休題
本題に戻って、René Taton(ルネ・タトン)の本を読んで何を発見したかというと、それは:
ヨーロッパの科学用語では、大きなくくり(例:学問名)はギリシャ語で表わす。小さなくくり(例:種族や具体的な生物の名前)はラテン語が多い。
ということだ。具体的には次のような例が挙げられる。(René Tatonの本の L’Histoire générale des sciences ではフランス語で書かれているが、ここでは英語表記とする。)
昆虫学(ギ・entomology) vs. 昆虫(ラ・insect)
爬虫類学(ギ・herpetology) vs. 爬虫類(ラ・reptile)
鳥類学(ギ・ornithology) vs. 鳥類(ラ・avis、フ・oiseau)
樹木学(ギ・dendrology) vs. 樹芸(ラ・arboriculture)
-logy というのは、学問の名前を表わす接尾辞であるが、元来がギリシャ語系の単語であるので、前の方の語もギリシャ語の方が相性がいいのだろう。ただ、日本語の重箱読みのように、ラテン語の単語(socio-)に -logyをつけたsociologyのような学問名も中にはある。
もう一つ具体例を示す。(L'Histoire générale des sciences VolⅢ, p.506)
*****************************
【原文】Il étudie d’abord ce qu’il applait les Pachydermes, groupe maintenant démembré en Proboscidiens, Périssodactyles et Artiodactyles; puis les Ruminants, les Carnassiers, les Rongeurs, les Édentés
【私訳】彼(Cuvier)はまず、現在では長鼻類(ギ・Proboscidiens)、奇蹄類(ギ・Périssodactyles)、偶蹄類(ギ・Artiodactyles)のグループに細分されている厚皮動物(ギ・Pachydermes)と呼ばれる種を研究した。ついで、反芻類(ラ・Ruminants)、 食肉類(ラ・Carnassiers)、 齧歯類(フ・Rongeurs)、貧歯類(フ・Édentés)を研究した。
*****************************
この文はCuvierが化石と現存する動物の骨格の比較をしたというくだりだが、この8個の類の中で、半数の4個はギリシャ語起源であり、2つはラテン語起源、残り2つがフランス語である。ただ、この2つのフランス語の単語も元をたどればラテン語である。
これらの単語の字面をみれば、私には、ギリシャ語系の単語はいかにもギリシャ語らしきつら構えをしているように見える。日本語の例でいうと呉音に相当するような古めかしい装いを感じさせる。ラテン語系の単語は漢音に相当する。ギリシャ語系より遥かにフランス語になじんでいるが、まだどことなく端正で重厚な趣きを感じさせる。フランス語の単語は元はラテン語とは言え、すっかり大和ことばになりきった響きをもつ。
以上の事から、私はヨーロッパ人(少なくともフランス人)も我々日本人が『呉音・漢音・大和ことば』の差を瞬時に聞き分けるのと同様、『ギリシャ語・ラテン語・母語』の区別が分かるのだとおもう。そして、それぞれの単語は、たとえ意味が分からなくとも、その音韻が醸し出す『かおり』を感じ取るのだと想像する。中学校から英語の勉強を始めて40数年になって、ようやく彼らの感じているだろう音韻感覚が少し分かりかけてきたように思えるこの頃である。
【話のついでに。。。】
この René Tatonの本に限らず、フランス語やドイツ語の本でギリシャ系の難解単語が出てきたときは、私は英語の辞書を使うことにしている。OEDやWebster Unabridgedあるいは研究社のリーダーズ英和辞典の方がフランス語の辞典(Petit Lobrtや白水社の仏和大辞典)より科学技術用語に関しては収容語数が遥かに多い上に、説明も詳しいからだ。また、一般的にフランス語の辞書には語源の説明が無いか、あっても非常にそっけない。その代わり、語源だけでなく語の変遷(l'histoire des mots)を詳細に解説した分厚い辞書、 "Dictionnaire historique de la langue française" (by Alain Rey)が、それらの不備を補ってあまりある。
この話に関連して、フランス語の辞書について以前から私の感じている不満な点がある。それは多分フランスの確立された伝統だと思うのだが、フランスで作られた辞書や百科事典のいづれも(私が目にした限りではほぼ例外なく)辞書のエントリーが全て大文字で書かれている。それで、固有名詞か普通名詞かという区別が全くつかないので、不便を感じる。もっとも、日本でつくられた仏和辞典などでは、大抵日本人の慣れているエントリー形式(すべて小文字、ただし固有名詞は先頭だけが大文字)を採用しているので助かる。
しかし、今から振り返るとこの時点での私の英語はまだ、孫悟空で言うとお釈迦様の手のひらで踊っていたようなものだったと感じる。
その後、40歳を過ぎてからラテン語とギリシャ語を独習して初めて、英語やドイツ語を含むヨーロッパ言語(印欧語・Indo-European Languages)のもつ奥行が分かってきた。その時になって初めて、そこまでの私のドイツ語や英語はまだ殿堂の入り口に佇んでいたに過ぎなかったことを理解した。まさに論語にいう『堂にのぼれり。未だ室に入らず』(升堂矣、未入於室也)の比喩がぴったりだ。
【参照ブログ】
沂風詠録:(第106回目)『私の語学学習』(その38~45)
さて、前回のブログ、沂風詠録:(第187回目)『ニーダムの疑問への回答(補遺2)』でも触れたように、目下、René Taton(ルネ・タトン)の L’Histoire générale des sciences を読んでいる。
この第3巻で、彼らヨーロッパの人たちのギリシャ語とラテン語に対して抱いている感覚の一端に触れることができたのではないかと思えることがあった。私一人の勝手な解釈かもしれないが、紹介したい。
彼らの話に移るまえに、比較のため、日本語の枠組みで説明しよう。
次の3つの単語のグループを比べてみてどういう印象をもつだろうか?
A群:女性(にょしょう)、明星(みょうじょう)、自然(じねん)
B群:女性(じょせい)、明星(めいせい)、自然(しぜん)
C群:おなごしゅう、あかつきのほし、ありのまま
我々は、個々の単語を耳で聞いただけで、それぞれが別の色合い(音合い?)を持っていることがすぐに分かる。そう、お気づきのようにA群は漢字の呉音よみ、B群は漢字の漢音よみ、そしてC群は大和ことばである。それぞれのグループは、各々一定の規則をもって音韻で構築されていて、他の音韻グループと明らかに『何か違う』と感じさせる。その上、我々の耳には呉音の単語はなにやら古めかしく荘厳な雰囲気があり、大和ことばは柔らかい感じがする。漢音が一番普通に響く。
我々がこの3つの音韻グループについてこのような感覚を抱くのは、子供のころからの何十年ものあいだ知らず知らずの内に数多くの場面でそれぞれの単語が発音されるのを聞いて『語感』が形成されて来たからに他ならない。これは私の想像であるが、日本語を全くしらない外国人がこれらの単語を初めて耳にした時には、この単語はA群、あの単語はB群などと分類することができないのであろうと想像される。つまり、音韻とそれがもたらす感情は(多分)生得なものでなく、あくまでもその文化に育つことで獲得できるものである。
ところで、余談になるが、日本語と漢語の間で、妙な現象がある。それは、二語の語句において単語の順序が逆転するのだ。例えば次のような語句だ。
表裏(うらおもて)、夫婦(めおと)、雌雄(オスメス)
風雨(あめかぜ)、左右(みぎひだり)、油水(みずとあぶら)
これは単に口調だけの問題と思えるが、私の知らない何か規則があるのかもしれない。ついでに言うと、語句の逆転は日本語と中国語の間以外にも、ギリシャ語と英語の間にも見られる。例えば、今、手元に対訳本(Loeb)が無いので、どの箇所と特定できないが、ギリシャ語で"an arrow and a sword" と書いているような箇所の英語訳では、"a sword and an arrow" という具合、語句の順序が逆になっている。それが、たまたま一か所しかないのなら、訳者の不注意ということもできるが、何ヶ所もあるので、これまた私の知らない何か規則があるのかもしれない。

閑話休題
本題に戻って、René Taton(ルネ・タトン)の本を読んで何を発見したかというと、それは:
ヨーロッパの科学用語では、大きなくくり(例:学問名)はギリシャ語で表わす。小さなくくり(例:種族や具体的な生物の名前)はラテン語が多い。
ということだ。具体的には次のような例が挙げられる。(René Tatonの本の L’Histoire générale des sciences ではフランス語で書かれているが、ここでは英語表記とする。)
昆虫学(ギ・entomology) vs. 昆虫(ラ・insect)
爬虫類学(ギ・herpetology) vs. 爬虫類(ラ・reptile)
鳥類学(ギ・ornithology) vs. 鳥類(ラ・avis、フ・oiseau)
樹木学(ギ・dendrology) vs. 樹芸(ラ・arboriculture)
-logy というのは、学問の名前を表わす接尾辞であるが、元来がギリシャ語系の単語であるので、前の方の語もギリシャ語の方が相性がいいのだろう。ただ、日本語の重箱読みのように、ラテン語の単語(socio-)に -logyをつけたsociologyのような学問名も中にはある。
もう一つ具体例を示す。(L'Histoire générale des sciences VolⅢ, p.506)
*****************************
【原文】Il étudie d’abord ce qu’il applait les Pachydermes, groupe maintenant démembré en Proboscidiens, Périssodactyles et Artiodactyles; puis les Ruminants, les Carnassiers, les Rongeurs, les Édentés
【私訳】彼(Cuvier)はまず、現在では長鼻類(ギ・Proboscidiens)、奇蹄類(ギ・Périssodactyles)、偶蹄類(ギ・Artiodactyles)のグループに細分されている厚皮動物(ギ・Pachydermes)と呼ばれる種を研究した。ついで、反芻類(ラ・Ruminants)、 食肉類(ラ・Carnassiers)、 齧歯類(フ・Rongeurs)、貧歯類(フ・Édentés)を研究した。
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この文はCuvierが化石と現存する動物の骨格の比較をしたというくだりだが、この8個の類の中で、半数の4個はギリシャ語起源であり、2つはラテン語起源、残り2つがフランス語である。ただ、この2つのフランス語の単語も元をたどればラテン語である。
これらの単語の字面をみれば、私には、ギリシャ語系の単語はいかにもギリシャ語らしきつら構えをしているように見える。日本語の例でいうと呉音に相当するような古めかしい装いを感じさせる。ラテン語系の単語は漢音に相当する。ギリシャ語系より遥かにフランス語になじんでいるが、まだどことなく端正で重厚な趣きを感じさせる。フランス語の単語は元はラテン語とは言え、すっかり大和ことばになりきった響きをもつ。
以上の事から、私はヨーロッパ人(少なくともフランス人)も我々日本人が『呉音・漢音・大和ことば』の差を瞬時に聞き分けるのと同様、『ギリシャ語・ラテン語・母語』の区別が分かるのだとおもう。そして、それぞれの単語は、たとえ意味が分からなくとも、その音韻が醸し出す『かおり』を感じ取るのだと想像する。中学校から英語の勉強を始めて40数年になって、ようやく彼らの感じているだろう音韻感覚が少し分かりかけてきたように思えるこの頃である。
【話のついでに。。。】
この René Tatonの本に限らず、フランス語やドイツ語の本でギリシャ系の難解単語が出てきたときは、私は英語の辞書を使うことにしている。OEDやWebster Unabridgedあるいは研究社のリーダーズ英和辞典の方がフランス語の辞典(Petit Lobrtや白水社の仏和大辞典)より科学技術用語に関しては収容語数が遥かに多い上に、説明も詳しいからだ。また、一般的にフランス語の辞書には語源の説明が無いか、あっても非常にそっけない。その代わり、語源だけでなく語の変遷(l'histoire des mots)を詳細に解説した分厚い辞書、 "Dictionnaire historique de la langue française" (by Alain Rey)が、それらの不備を補ってあまりある。
この話に関連して、フランス語の辞書について以前から私の感じている不満な点がある。それは多分フランスの確立された伝統だと思うのだが、フランスで作られた辞書や百科事典のいづれも(私が目にした限りではほぼ例外なく)辞書のエントリーが全て大文字で書かれている。それで、固有名詞か普通名詞かという区別が全くつかないので、不便を感じる。もっとも、日本でつくられた仏和辞典などでは、大抵日本人の慣れているエントリー形式(すべて小文字、ただし固有名詞は先頭だけが大文字)を採用しているので助かる。
Pax intrantibus , Salus exeuntibus , Benedicto habitantibus.
まだ、謂れまで辿りついておりませんが、ラテン語で書かれているということに少し関心(違和感)があります。かつてはドイツもフランクや神聖ローマでありましたので自然なことと思いながら、やっぱり違和感を感じます。現在、EUはゆれていますが、ドイツはラテン圏をどう見ているのでしょうか?(出来れば第二次大戦以前の見方で)良書があればお教え願えないでしょうか?
1.ドイツでラテン語が使われていることに対する違和感
2.ドイツのラテン圏(地中海世界)の評価
1.については、沂風詠録:(第150回目)『国際人のグローバル・リテラシーのテーマについて(その2)』をご参照ください。100年前までヨーロッパ各国ではまだラテン語が高等教育を受けるための必須条件でしたので、ドイツ圏(ドイツ・オーストリア・スイス)でラテン語の銘文があるのは全く自然なことだと私には思えます。比較のために申し上げますと、日本でも明治期に建てられた碑文も大半は漢文で書かれています。
2.については、私は30年前のドイツ滞在時の経験とその後のドイツ人との付き合いなどから得た個人的経験しかありませんので、残念ながら参考図書を挙げるだけの知識も見識をもちあわせていません。
ただ、おおざっぱに言って、ビスマルクのドイツ統一(1871年)までは、イタリアを評価していたように感じます。私の推測では、それは文豪ゲーテや詩人ヘルダーリンをはじめとしたドイツロマン派がイタリアやギリシャにあこがれ、古代の非キリスト教精神を崇拝したためだと思います。(イギリスなどではバイロンがその典型ですが。)しかし、ビスマルクのドイツ統一後、ドイツの国力が飛躍的に伸びるに従い、ちょうど日本と大韓帝国との関係のように、ドイツがイタリアを下に見る風潮が蔓延したように感じます。そして、その傾向は現在に至るまで続いているように感じます。
個人的な管見であることを免れないですが、私が学生時代にヨーロッパ滞在中、あるいは各地を旅行中、至る所でドイツ人に出会いましたが、彼らのイタリアおよびイタリア人の評価はまさしく、かつての日本人がもっていた『朝鮮人』に対するものでした。イタリア人というのは、ドイツ語で『イタリエーナー』というのですが、ドイツ人がこの単語を発音するのを聞くと(言葉では言い表せないのですが)私の耳には常にどことなく侮蔑的なニュアンスを伴って響きました。
EUの統合後、どの国も従来のように他のヨーロッパ諸国をあけすけにけなす傾向は薄れてきたように感じますが、今回のギリシャやスペインの財政危機で、図らずも表出したように、ドイツ人の心のなかには、まだまだ地中海諸国に対する蔑視観が残っているように私は感じます。
くどいようですが、以上の意見はあくまでも私の『感じ』であって、私には現在のドイツの社会を分析するだけの知識・見識はありませんので、参考にならないと思います。ご了承のほど。