以前のブログ
惑鴻醸危:(第37回目)『古代日本史の謎を解く?! 神武東征と巨大古墳(その1)』
では、古代日本の古墳の成り立ちについて素人の独断を述べたが、今回も悪乗りして、飛鳥時代に仏教が日本に入ってきた時のことについて素人考えを述べたい。
高校の歴史などで習うように、日本に仏教が入ってきたのは 538年とも552年とも言われるように曖昧だ。つまり、ある時に突然入って来たのではなく、知らず知らずの内に『仏教的なもの』が徐々に浸透してきたというのが正しいのであろう。
ここで注意しないといけないのは、日本には仏教が入ってきたのではなく、『仏教的なもの』が入ってきたと考えるべきだということである。仏教というのと『仏教的なもの』の差というのは、前者は通常の仏教で、宗教の教義という極めて狭い範囲のものだが、後者は日本古来のものでなく、外来のもので、仏教が入ってきたといわれる頃から知られるようになったものという意味だ。具体的には、仏教建築や仏具(仏像、祭壇、厨子など)精進料理など生活ベースのものだ。
こういう観点から見ると、よく言われるように飛鳥時代に仏教が日本に入ってきた時、神道との間で宗教論争があったというが、これは何も上で述べたような宗教としてのドグマ(教義)ベースの争いであると捉えるのは間違っていると私は考える。
この二派の争いは単に自然派(神道・自然に手を加えない)と開墾派(仏教・経済開発優先)の経済的な争いに過ぎないと考えるべきだ。というのは、仏教の教義は日本人の大半は理解できなかったはずだ。それよりも、仏教と共に入ってきた中国の最新鋭の技術(土木、彫金、冶金、木工)に当時の日本人は大いに関心を持ったはずだ。
これの傍証として、仏教が入ってきて各地に国分寺や国分尼寺を建築したことが挙げられる。この措置は、なにも宗教としての仏教を広めようとしたのではなかった。当時、庶民クラスが仏教の教義を学ぶことができる教育システムはなかったはずだ。それでは、何のために国分寺を建てさせたかというと、国分寺は中国の高度な建築技術を広めるための展示会・見本市であったのだ。技術は口だけでは伝わらないので、実物を作って見せた訳だ。
ここで、日本古来の建築と中国の先進的な建築様式を比べてみよう。
日本古来の建築様式というのは、地面に大きな穴を堀り、そこに本柱となる木をそのまま埋め込む方式 - これを掘立柱という - であった。当然のことながら、地面に埋め込まれている柱の根本は時と共に腐ってくるので、新たに建物全体を立替えないといけない。一方、中国方式は寺院に限らず、一般の建物においても礎石を埋め、その上に柱を載せる方式であるので、柱のもちが格段に良い。数日程度で作れる簡単な民家ならいざしらず、何ヶ月、何年も掛けて建築する大規模な寺院はその労力や費用に見合うだけの期間、持ってもらわないと困るわけだ。中国の礎石方式は労力と費用はかかるものの明らかに、日本の掘立柱より有利である。それで、この中国方式の技術普及のために各地に国分寺を作ったと考えるのが合理的だ。
つまり、仏教の教義自体の普及というのは現在から考えた『こじつけ』であり、当時の人々にとっては仏教自体には全く興味がなく、また仏教の教義も守られていなかった。その証拠に、例えば、仏教では殺生と飲酒を最大の悪として排撃するが、日本では、ついぞ飲酒が禁止されることはなかったし、肉食については、確かに牛馬などの大型草食動物は、徐々に厭忌されるようにはなったが、魚を食すことは歴史上一度も罪悪とみなされなかった。
肉食や殺生禁止が日本になかなか根付かなかった例を六国史から拾ってみると: ()内は私の要約
1.『日本書紀』巻29 天武天皇・四年(AD675)
詔諸國曰、且莫食牛馬犬猿鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。
(牛馬犬猿鶏の類は食べてはいけない。それ以外の肉はよろしい。)
2.『続日本紀』巻25 天平宝字八年(AD764)
勅曰。天下諸國。不得養鷹狗及鵜以畋獵。
(鷹や犬、および鵜を使った狩や漁を禁止する)
3.『三代実録』巻7 貞観五年(AD863)
禁諸国牧宰私養鷹鷂。先是。貞観元年八月。頒下詔命。不貢御鷹。亦制国司養鷹逐鳥。或聞。多養鷹鷂。尚好殺生。故以猟徒縦横部内。故重制焉。
(諸国で、鷹狩のために鷹を飼う事は禁止する。これより5年前にも、鷹狩の鷹は上納しなくてよい。鷹狩をするのは、殺生を好むことだが、再度、固く禁止する。)
3.に見るように、全国に国分寺を建築を指示する詔は 744年に出され、それに従い国分寺が建設され、 20年経たない内に全国的に完備したと言われるが、それでも100年後にはまだ、鷹狩りの禁止令を出さないといけないありさまであった。つまり、肉食や殺生禁止というのは、まったくのザル法であったことが分かる。言い換えれば、仏教の教義などは一般庶民(のみならず、多分、公家や朝廷に至るまで)には、長らく全く浸透しなかったと言っていいだろう。
【出典】恭仁宮跡
ところで、中国の建築様式の普及の為に国分寺や国分尼寺が作られたと言ったが、それ以外に当時(600年ごろ)数多くの都が建造された。ざっと見ても、近江宮(667年)、藤原京(694年)、平城京( 710年)、紫香楽宮(740年)、恭仁京(743年)、難波京(744年)、長岡京(784年)、平安京(794年)が挙げられる。
私なりにこの数多い建造の理由を考え、宮殿や役所や民家を建て、立派な都を作るのが、真の目的はないとの結論に至った。そしたら、何のための都造営なのか?というと、飛鳥時代の「ニューディール政策」であったということだ。
『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏、講談社学術文庫)によると、AD200年ごろの弥生時代には畿内にはわずか3万人!しか住んでいなかったが、奈良時代初期(725年)には46万人に増えている。この500年間伸び率は約15倍で、他の地域が大体7倍から10倍程度であったことと比べると、人口が急激に増えていることが分かる。(ただ、この間、畿内より人口の伸び率が大きいのはわずかに西奥羽、山陰の 2ヶ所で、それぞれ、17倍、20倍。)
要するに、畿内が過疎地から人口密集地に変わった訳だ。それだけの人が住めるには、そのあたり一面に生い茂っていた樹齢うん千年の大木を伐採して人が住める場所を確保する必要があった。
以前のブログ、
惑鴻醸危:(第37回目)『古代日本史の謎を解く?! 神武東征と巨大古墳(その1)』
でも述べたように、全国各地から人集めとそれらの人々に仕事を提供し、最終的には畿内で十分生活できるだけの環境を提供するのが、これら都の造営であったと私は考える。今でいうと、ブラジルのアマゾンの奥地開拓のようなものだ。当時の実態を、まずは人口という数字で把握し、実際にどういう生活をしていたのかと想像を巡らすことで、今からみれば不可思議なことでも、当時の人々にとっては合理的行動であったことが推察できる。
惑鴻醸危:(第37回目)『古代日本史の謎を解く?! 神武東征と巨大古墳(その1)』
では、古代日本の古墳の成り立ちについて素人の独断を述べたが、今回も悪乗りして、飛鳥時代に仏教が日本に入ってきた時のことについて素人考えを述べたい。
高校の歴史などで習うように、日本に仏教が入ってきたのは 538年とも552年とも言われるように曖昧だ。つまり、ある時に突然入って来たのではなく、知らず知らずの内に『仏教的なもの』が徐々に浸透してきたというのが正しいのであろう。
ここで注意しないといけないのは、日本には仏教が入ってきたのではなく、『仏教的なもの』が入ってきたと考えるべきだということである。仏教というのと『仏教的なもの』の差というのは、前者は通常の仏教で、宗教の教義という極めて狭い範囲のものだが、後者は日本古来のものでなく、外来のもので、仏教が入ってきたといわれる頃から知られるようになったものという意味だ。具体的には、仏教建築や仏具(仏像、祭壇、厨子など)精進料理など生活ベースのものだ。
こういう観点から見ると、よく言われるように飛鳥時代に仏教が日本に入ってきた時、神道との間で宗教論争があったというが、これは何も上で述べたような宗教としてのドグマ(教義)ベースの争いであると捉えるのは間違っていると私は考える。
この二派の争いは単に自然派(神道・自然に手を加えない)と開墾派(仏教・経済開発優先)の経済的な争いに過ぎないと考えるべきだ。というのは、仏教の教義は日本人の大半は理解できなかったはずだ。それよりも、仏教と共に入ってきた中国の最新鋭の技術(土木、彫金、冶金、木工)に当時の日本人は大いに関心を持ったはずだ。
これの傍証として、仏教が入ってきて各地に国分寺や国分尼寺を建築したことが挙げられる。この措置は、なにも宗教としての仏教を広めようとしたのではなかった。当時、庶民クラスが仏教の教義を学ぶことができる教育システムはなかったはずだ。それでは、何のために国分寺を建てさせたかというと、国分寺は中国の高度な建築技術を広めるための展示会・見本市であったのだ。技術は口だけでは伝わらないので、実物を作って見せた訳だ。
ここで、日本古来の建築と中国の先進的な建築様式を比べてみよう。
日本古来の建築様式というのは、地面に大きな穴を堀り、そこに本柱となる木をそのまま埋め込む方式 - これを掘立柱という - であった。当然のことながら、地面に埋め込まれている柱の根本は時と共に腐ってくるので、新たに建物全体を立替えないといけない。一方、中国方式は寺院に限らず、一般の建物においても礎石を埋め、その上に柱を載せる方式であるので、柱のもちが格段に良い。数日程度で作れる簡単な民家ならいざしらず、何ヶ月、何年も掛けて建築する大規模な寺院はその労力や費用に見合うだけの期間、持ってもらわないと困るわけだ。中国の礎石方式は労力と費用はかかるものの明らかに、日本の掘立柱より有利である。それで、この中国方式の技術普及のために各地に国分寺を作ったと考えるのが合理的だ。
つまり、仏教の教義自体の普及というのは現在から考えた『こじつけ』であり、当時の人々にとっては仏教自体には全く興味がなく、また仏教の教義も守られていなかった。その証拠に、例えば、仏教では殺生と飲酒を最大の悪として排撃するが、日本では、ついぞ飲酒が禁止されることはなかったし、肉食については、確かに牛馬などの大型草食動物は、徐々に厭忌されるようにはなったが、魚を食すことは歴史上一度も罪悪とみなされなかった。
肉食や殺生禁止が日本になかなか根付かなかった例を六国史から拾ってみると: ()内は私の要約
1.『日本書紀』巻29 天武天皇・四年(AD675)
詔諸國曰、且莫食牛馬犬猿鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。
(牛馬犬猿鶏の類は食べてはいけない。それ以外の肉はよろしい。)
2.『続日本紀』巻25 天平宝字八年(AD764)
勅曰。天下諸國。不得養鷹狗及鵜以畋獵。
(鷹や犬、および鵜を使った狩や漁を禁止する)
3.『三代実録』巻7 貞観五年(AD863)
禁諸国牧宰私養鷹鷂。先是。貞観元年八月。頒下詔命。不貢御鷹。亦制国司養鷹逐鳥。或聞。多養鷹鷂。尚好殺生。故以猟徒縦横部内。故重制焉。
(諸国で、鷹狩のために鷹を飼う事は禁止する。これより5年前にも、鷹狩の鷹は上納しなくてよい。鷹狩をするのは、殺生を好むことだが、再度、固く禁止する。)
3.に見るように、全国に国分寺を建築を指示する詔は 744年に出され、それに従い国分寺が建設され、 20年経たない内に全国的に完備したと言われるが、それでも100年後にはまだ、鷹狩りの禁止令を出さないといけないありさまであった。つまり、肉食や殺生禁止というのは、まったくのザル法であったことが分かる。言い換えれば、仏教の教義などは一般庶民(のみならず、多分、公家や朝廷に至るまで)には、長らく全く浸透しなかったと言っていいだろう。
【出典】恭仁宮跡
ところで、中国の建築様式の普及の為に国分寺や国分尼寺が作られたと言ったが、それ以外に当時(600年ごろ)数多くの都が建造された。ざっと見ても、近江宮(667年)、藤原京(694年)、平城京( 710年)、紫香楽宮(740年)、恭仁京(743年)、難波京(744年)、長岡京(784年)、平安京(794年)が挙げられる。
私なりにこの数多い建造の理由を考え、宮殿や役所や民家を建て、立派な都を作るのが、真の目的はないとの結論に至った。そしたら、何のための都造営なのか?というと、飛鳥時代の「ニューディール政策」であったということだ。
『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏、講談社学術文庫)によると、AD200年ごろの弥生時代には畿内にはわずか3万人!しか住んでいなかったが、奈良時代初期(725年)には46万人に増えている。この500年間伸び率は約15倍で、他の地域が大体7倍から10倍程度であったことと比べると、人口が急激に増えていることが分かる。(ただ、この間、畿内より人口の伸び率が大きいのはわずかに西奥羽、山陰の 2ヶ所で、それぞれ、17倍、20倍。)
要するに、畿内が過疎地から人口密集地に変わった訳だ。それだけの人が住めるには、そのあたり一面に生い茂っていた樹齢うん千年の大木を伐採して人が住める場所を確保する必要があった。
以前のブログ、
惑鴻醸危:(第37回目)『古代日本史の謎を解く?! 神武東征と巨大古墳(その1)』
でも述べたように、全国各地から人集めとそれらの人々に仕事を提供し、最終的には畿内で十分生活できるだけの環境を提供するのが、これら都の造営であったと私は考える。今でいうと、ブラジルのアマゾンの奥地開拓のようなものだ。当時の実態を、まずは人口という数字で把握し、実際にどういう生活をしていたのかと想像を巡らすことで、今からみれば不可思議なことでも、当時の人々にとっては合理的行動であったことが推察できる。
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