限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第3回目)『中国四千年の策略大全(その3)』

2022-03-06 15:31:37 | 日記
前回

前回述べたように、近年のIT技術の進展やWeb情報によって今から数百年前の明代に出版された『智嚢』を中国文学者でもない私が訳すことができたが、訳しながら「どうしてこの本がいままで翻訳されなかったのか?」と考えていた。もっとも、この本が全く翻訳されていなかった訳ではない。本文でも述べたように、中国清代史の研究者の増井経夫氏がかなり前だが、智嚢の抜粋本を2冊出版している(『「智嚢」 中国人の知恵』、『中国人の知恵とその裏側』)。ただ、これらの本は評判になったとか、重要であると認められたとかいう話は絶えて聞かない。それは、馮夢龍が無名だからというのではない。それどころか、馮夢龍の他の本は今までかなり多く翻訳されている。『笑府』のように岩波文庫にも入っている本もあるほどだ。『醒世恒言』『喩世明言』『警世通言』のシリーズは、「三言」という名で有名ですらある。そうでありながら、「この『智嚢』はどうして中国文学者の興味を惹かなかったのだろうか?」

この疑問に対する私の答えは(とりあえず)「この本には策略を駆使する中国の悪の面が凝縮されているから」と言っておこう。

それでは、どうして「悪の面」が詰まった本を中国文学者たちが翻訳するのを忌避するのだろうか?この疑問は、今回、『智嚢』を訳している時に限らず、以前、3冊出版した資治通鑑を訳している時にも同じく感じた。この疑問に対する答えを私なりに表現したのが、「漢文ファンタジー」(P.18)という文句だ。「漢文ファンタジー」は私の造語であるが、意味は:ディズニーランドの "It's a small world" のように、その世界に入ると一面ファンタジーの世界で、外界の現実のうとましさや騒々しさをすっかり忘れて美しい世界にひたることができる状態を指す。

中国文学者に限らず、外国の文学を研究する人たちは、多少の例外はあるものの、研究対象の国が大好きな人たちだ。好きという気持ちがいわゆる「贔屓の引き倒し」の諺のように、対象の国の政治・文化を理想化する。中国文学(例えば、論語や唐詩)を好きな人たちの場合、漢文ファンタジーに浸っているのだ。高校などの漢文授業では、論語、史記、唐詞、が中心となっているが、このような文章からは本当の中国の姿、現実の醜悪さはほとんど感じられない。中国文学に志す人のほとんどが、このような魅惑的な文章に誘われ、「漢文ファンタジー」に陥った人たちであろう。それゆえ、中国の醜悪な面に対して、意識的・無意識的に顔をそむけてしまうことになる。


この有名な例は京大教授であった吉川幸次郎であろう。以前のブログ 
 沂風詠録:(第45回目)『吉川幸次郎と漱石の漢詩バトル』
でも紹介したように、彼が弟子や学生に向かって『君達の国はなっとらん、わしの国では。。。』と言うときの君達というのは日本であり、「わしの国」というのは中国であったという。彼の中国文学の博識に関しては、誰もが一目置くが、その博識は決して中国という国を正しく理解することにはならなかった。端的には文化大革命を大いに持ち上げたことでも分かる。例えば、彼のあきれるばかりの中国崇拝のノー天気ぶりは、「訪中印象三則」に明かだ。

中国文学者だけに限らない。批判精神旺盛な人種であるはずのジャーナリストにもそういう人がいる。本多勝一は『中国の旅』で戦後数十年経って、中国本土を訪問し、そこで中国人の一人が「日本兵に殴られたと」説明した傷をみせられたという。その傷痕が生々しいと描写しているが、数十年経った傷が生々しいはずがない。当時、文化大革命のさ中であったので、その時の傷である可能性が高いと考えるべきだが、中国崇拝にとりつかれた彼には想到しなかったようだ。

さらに言えば、つい最近終了したNHKの大河ドラマ『青天を衝け』では渋沢栄一が取り上げられたが、渋沢は『論語』は儒教の理想形であり、まったく現実離れしていることに全く気付いていない。渋沢に限らず、一般的に日本人が考える「漢文ファンタジー」的、論語・儒教は、中国の現実の猥雑な環境から遊離して、理念だけを純粋培養したものなのだ。実際の中国では庶民は一体どのように生活しているのか、という実証的見地が全く欠落している。当時(明治期から昭和初期)の中国を見れば、各地に匪賊あったはずなのに、渋沢や吉川が出会った士人の物腰の柔らかさしか評価していない。明治期以降の日本人のこの考えは、すでに江戸期からの伝統で、地続きの朝鮮とは大きな差だ。

ついでに言うと、隣国の韓国に関していえば、現在では、K-Popブームで若者の間では韓国文化が人気であるようだが、これも一種の情報操作による「ハングル・ファンタジー」ともいえよう。「ハングル・ファンタジー」に気づいてもらうために、韓国併合以前の李氏朝鮮で起こった一つの事件を紹介しよう。

時は1636年。後に清と呼ばれることになる後金のホンタイジが李氏朝鮮に侵入した(丙子の乱)。国王の仁祖は以前、高麗の時にモンゴルが攻めて来た時のように江華島に避難しようとしたが、ホンタイジの電撃的な侵攻に、江華島に行く道を塞がれてしまった。それで、止む無くソウルの南漢山城に籠ったが、籠城準備が不十分であったため、すぐに準備食料も燃料も尽き果てた。難局を打開しようと、李朝政府の高官たちは日々協議した。そして、その会話や行動は逐一記録に残された。この漢文の原文、『丙子日記』は大正末期、日本語に翻訳されて出版された。現在、国会図書館デジタルコレクションで読むことができるし、ダウンロードも可能だ(永続的識別子 info:ndljp/pid/968126)
 『丙子日記』 朝鮮研究叢書第2巻

私はそれを読み全く呆れかえった。そこには、李朝の朝廷の高官たちのお粗末な対応や、国難でも止めない醜い内部抗争のありさまが赤裸々に書かれていた。これは何も私だけの感想ではないようで、訳者の清水鍵吉氏も序文に次のような辛辣な言葉を記している。(一部、現代かな使いに修正)
「本書は読んで面白いものではない。…全巻、ことごとく取るに足らぬくだらぬ評定を繰り返していると思わるる節もあろう。そのくだらぬ問答を吟味して、自問自答して行くと、そこに朝鮮の民族性が瞭然と展開される。ここが本書の価値の存する所である。…」

結局、2ヶ月近く抵抗したものの、寒さと飢えで困憊した李朝は全面降伏し、仁祖はホンタイジに三跪九叩頭した。その屈辱的な姿を彫った銅版「大清皇帝功徳碑」がソウル近郊の三田渡にあるようだが、一枚の銅版では窺いしれない、醜い李朝の朝廷の姿がこの本には書かれている。

続く。。。
コメント
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