英語に上達しようと「英語を勉強する」人は多い。それと平行して(あるいはそれを煽り立てるような)「英語の勉強法」に関する本も多く出版されている。その中に、今井むつみ著・『英語独習法』(岩波新書)という現在人気の本がある。
正直なところ、私はまだ読んでいないが、Amazonのレビューを見て気にかかった文章があったので紹介したい。
レビューアーは「タキタロウ」さんといい『仕事で使えるレベルを目指す人にはヒントがたくさん』というタイトルのレビューに次のような一節があった。
「…著者の指摘通り、母国語でないのに英語力の高い人(フィンランド人など)は、難しい単語は使わず、簡単な(日本でも高校生までに触れるような)単語で分かりやすく流暢に話します。知っている単語量でなく、自在に運用できる単語量が多いことが、語彙力があるということだと実感しました。」
つまり、「英語が話せない」という人に欠けているのは語彙力でも文章力でもなく、「語彙の活用力」だという主張だ。「語彙の活用力」とは何ぞや? 実例を一つ挙げてみよう。上の写真にはボートがいくつも写っている。この特徴のあるボートを英語で punt という。もし、あなたがこれに乗ったとして、友人に英語でどのように説明するだろうか?単に「boat」に乗った、というのでは物足りない。このボートの特徴をどう説明したらいいのだろう?
私が高校生の時から使っている、"Idiomatic and Syntactic English Dictionary" はこの単語を次のように説明する。
"a shallow, flat-bottomed boat, with square ends, moved by a long pole thrust against the bottom of the river."
どうだろう、易しい単語で punt の特徴を余すところなく伝えている。アマゾンのレビューアー「タキタロウ」さんの指摘するように、易しい単語と易しい構文でも十分に意味を伝達できるのだ。私は若いころ、ドイツやアメリカに留学したが、現地の人と話した時、強くこのことを感じた。このような説明は英語では descriptive であるという。翻って考えるに、日本の文化環境で育つと説明が通り一遍になってしまい、 descriptive に話す人は至って少ない。つまり、簡単な単語で分かりやすく話すことが、日本語ですらできていないのであるから、英語でも出来ないのは当たり前だ。この点に気づかない限り、いくら英語の勉強をしても英語の理解力は高まりこそすれ、英語の表現力や「語彙の活用力」、つまり英語発信力は伸びない。
ではどうすればよいか?私のおすすめは以前のブログ
沂風詠録:(第271回目)『英語力アップは英英辞典から』
に書いたように、早い段階(高校初年度)から簡単な英英辞典の活用をすることだ。ここで紹介した Idiomatic and Syntactic English Dictionary には易しい英単語を使った説明がふんだんに載っている。
ただ、私の経験上、日本でいる限り英語力(外国語力)の大幅な伸びは残念ながら望めない。以前のブログ
百論簇出:(第77回目)『語学を伸ばすには、若いころの海外滞在が必須』
にも書いたように、外国語の習得には、文法をしっかりとマスターした上で、海外に滞在することが必須である。そうすることで、錯覚であるにしろ、バイリンガルになった感覚を一度でも味わうことが必要だからだ。ここでいう「錯覚のバイリンガルレベル」というのは、「何故かわからないが、相手の言っていることが訳さなくとも分かる」「しゃべる時に、頭のなかで無意識の内に単語サーチと文章構成がおこなわれる」という意識状態のことだ。このような状態になるには、お勉強モード用に作成された不自然にゆっくりと話された音声ではなく、機関銃のようにまくしたてられた言葉を何百時間、じかに聴く必要がある。
早口でしゃべられると意味が分からないのに、なぜそのようなヒアリングが必要なのか?
子供のころに自転車の乗る練習をしたときのことを思い出してみよう。初めは補助輪を付けて、じわじわとこぎだしただろう。走っているより、止まっている時間の方が多かったはずだ。その内、補助輪を外して、だれかに後ろを支えてもらいながら走ったものの、重心を失ってすぐに倒れたことであろう。しかし、それでも諦めずに補助輪なしで、自然のスピードで走る練習を積み重ねるとその内に、自転車のバランスが完全に自分自身の運動感覚となったことに気づく。
脳生理学ではどのように説明されるか分からないが、運動訓練と語学力は脳の神経回路を作るという点において、全く同じプロセスのように感じられる。つまり、耳からナチュラルスピードの英語をガンガンと聴いていると、パチンコならぬ言語のチューリップが自然と開いてくる。残念ながら、日本に居ては、いくら多読、多聴していてもこの感覚をつかむことはほぼ不可能だ(と、何ら科学的根拠はないが、私は思っている)。
ただ、一旦この「錯覚のバイリンガルレベル」に到達すると、不思議なことに語学力というのはなかなか落ちない。逆に言えば、錯覚のバイリンガルレベルに到達しないと、すぐに落ちてしまうということになる。「海外にいるときは話せたが、帰国後はダメになった」という人は、現地にいるときでも「錯覚のバイリンガルレベル」に達していなかったということだ。私事で恐縮だが、私はドイツ留学時に先ずはドイツ語で、次いでアメリカ留学時に英語で、この「錯覚のバイリンガルレベル」に到達した(ように感じている)。
現在はドイツ語にしろ英語にしろ、聞いたり、しゃべったりする機会はほとんどないが、急にしゃべらないといけない時は、集中的に数十時間 YouTubeでドイツ語なり英語のビデオを見る。そうすると、かつて感じたような「何故かわからないが、相手の言っていることが訳さなくとも分かる」を感じることができる。ただ、残念ながらこの程度の時間数では「しゃべる時に、頭のなかで無意識の内に単語サーチと文章構成がおこなわれる」ところまでは行かない!それで、多少のもどかしさを感じつつ、頭をフル回転させながらも、時には(とりわけドイツ語では)冷や汗をかきながらしゃべっているのが実情である。
正直なところ、私はまだ読んでいないが、Amazonのレビューを見て気にかかった文章があったので紹介したい。
レビューアーは「タキタロウ」さんといい『仕事で使えるレベルを目指す人にはヒントがたくさん』というタイトルのレビューに次のような一節があった。
「…著者の指摘通り、母国語でないのに英語力の高い人(フィンランド人など)は、難しい単語は使わず、簡単な(日本でも高校生までに触れるような)単語で分かりやすく流暢に話します。知っている単語量でなく、自在に運用できる単語量が多いことが、語彙力があるということだと実感しました。」
つまり、「英語が話せない」という人に欠けているのは語彙力でも文章力でもなく、「語彙の活用力」だという主張だ。「語彙の活用力」とは何ぞや? 実例を一つ挙げてみよう。上の写真にはボートがいくつも写っている。この特徴のあるボートを英語で punt という。もし、あなたがこれに乗ったとして、友人に英語でどのように説明するだろうか?単に「boat」に乗った、というのでは物足りない。このボートの特徴をどう説明したらいいのだろう?
私が高校生の時から使っている、"Idiomatic and Syntactic English Dictionary" はこの単語を次のように説明する。
"a shallow, flat-bottomed boat, with square ends, moved by a long pole thrust against the bottom of the river."
どうだろう、易しい単語で punt の特徴を余すところなく伝えている。アマゾンのレビューアー「タキタロウ」さんの指摘するように、易しい単語と易しい構文でも十分に意味を伝達できるのだ。私は若いころ、ドイツやアメリカに留学したが、現地の人と話した時、強くこのことを感じた。このような説明は英語では descriptive であるという。翻って考えるに、日本の文化環境で育つと説明が通り一遍になってしまい、 descriptive に話す人は至って少ない。つまり、簡単な単語で分かりやすく話すことが、日本語ですらできていないのであるから、英語でも出来ないのは当たり前だ。この点に気づかない限り、いくら英語の勉強をしても英語の理解力は高まりこそすれ、英語の表現力や「語彙の活用力」、つまり英語発信力は伸びない。
ではどうすればよいか?私のおすすめは以前のブログ
沂風詠録:(第271回目)『英語力アップは英英辞典から』
に書いたように、早い段階(高校初年度)から簡単な英英辞典の活用をすることだ。ここで紹介した Idiomatic and Syntactic English Dictionary には易しい英単語を使った説明がふんだんに載っている。
ただ、私の経験上、日本でいる限り英語力(外国語力)の大幅な伸びは残念ながら望めない。以前のブログ
百論簇出:(第77回目)『語学を伸ばすには、若いころの海外滞在が必須』
にも書いたように、外国語の習得には、文法をしっかりとマスターした上で、海外に滞在することが必須である。そうすることで、錯覚であるにしろ、バイリンガルになった感覚を一度でも味わうことが必要だからだ。ここでいう「錯覚のバイリンガルレベル」というのは、「何故かわからないが、相手の言っていることが訳さなくとも分かる」「しゃべる時に、頭のなかで無意識の内に単語サーチと文章構成がおこなわれる」という意識状態のことだ。このような状態になるには、お勉強モード用に作成された不自然にゆっくりと話された音声ではなく、機関銃のようにまくしたてられた言葉を何百時間、じかに聴く必要がある。
早口でしゃべられると意味が分からないのに、なぜそのようなヒアリングが必要なのか?
子供のころに自転車の乗る練習をしたときのことを思い出してみよう。初めは補助輪を付けて、じわじわとこぎだしただろう。走っているより、止まっている時間の方が多かったはずだ。その内、補助輪を外して、だれかに後ろを支えてもらいながら走ったものの、重心を失ってすぐに倒れたことであろう。しかし、それでも諦めずに補助輪なしで、自然のスピードで走る練習を積み重ねるとその内に、自転車のバランスが完全に自分自身の運動感覚となったことに気づく。
脳生理学ではどのように説明されるか分からないが、運動訓練と語学力は脳の神経回路を作るという点において、全く同じプロセスのように感じられる。つまり、耳からナチュラルスピードの英語をガンガンと聴いていると、パチンコならぬ言語のチューリップが自然と開いてくる。残念ながら、日本に居ては、いくら多読、多聴していてもこの感覚をつかむことはほぼ不可能だ(と、何ら科学的根拠はないが、私は思っている)。
ただ、一旦この「錯覚のバイリンガルレベル」に到達すると、不思議なことに語学力というのはなかなか落ちない。逆に言えば、錯覚のバイリンガルレベルに到達しないと、すぐに落ちてしまうということになる。「海外にいるときは話せたが、帰国後はダメになった」という人は、現地にいるときでも「錯覚のバイリンガルレベル」に達していなかったということだ。私事で恐縮だが、私はドイツ留学時に先ずはドイツ語で、次いでアメリカ留学時に英語で、この「錯覚のバイリンガルレベル」に到達した(ように感じている)。
現在はドイツ語にしろ英語にしろ、聞いたり、しゃべったりする機会はほとんどないが、急にしゃべらないといけない時は、集中的に数十時間 YouTubeでドイツ語なり英語のビデオを見る。そうすると、かつて感じたような「何故かわからないが、相手の言っていることが訳さなくとも分かる」を感じることができる。ただ、残念ながらこの程度の時間数では「しゃべる時に、頭のなかで無意識の内に単語サーチと文章構成がおこなわれる」ところまでは行かない!それで、多少のもどかしさを感じつつ、頭をフル回転させながらも、時には(とりわけドイツ語では)冷や汗をかきながらしゃべっているのが実情である。