(前回)
〇「意中、書あり、腹中、人あり」(『教養を極める読書術』 P.36)
本ブログにも、及び、本書にも書いたように、私は会社員となってすぐに安岡正篤という名を知った。当初は、私が知りたいと思っていた中国古典の幅広さや奥深さを教えてくれる良き先師であった。とりわけ、陽明学者といいながら、私が好きな、戦国策、淮南子、説苑、呂氏春秋、世説新語などのパンチの効いたエピソード集もお気に入りであったようで、その点では(不遜な言い方であるが)気脈が通じた。
25歳から今に至るまで、優に40年もの間、安岡氏の本は50冊ほど読んだかと思う。当初は、教えをありがたく受け取る一方であったが、私自身の知識が増えるにつれ、だんだんと氏のアラが見えるようになった。とりわけ、氏の晩年の講演録で、関西・全国師友協会が昭和 57年(1982年)に出版した『活学 安岡正篤先生講録』(全 3巻)を読んでがっくりした。それは老境に入ってもっぱら「耳学問」に頼っていることであった。その感想をブログに書いたがその一節を下にしめす。
【座右之銘・121】『君子蔵器於身、待時而動』
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社会人となってすぐのころから、私は安岡氏の本はかなり網羅的に読んでいる。初めは、安岡氏の博学に舌を巻くことが多かったが、その内、だんだんわかってきたことがある。それは、安岡氏は50歳以降、知識的に停滞していて、繰り返しが非常に多いことだ。確かにトピック的に目新しい記述もないとは言わないが、残念ながら、それらの情報は底が浅く、多分、耳学問的に仕入れた話だと想像できる。安岡氏の言葉は本人の自戒の弁であるかも知れないが、私には他山の石として肝に銘じておきたい。
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「耳学問」になってしまった一番の理由は超多忙のせいであろうと推測されるが、年齢も関連しているのだろうと考え、それでは若いころの文章を読んでみようと思い至った。安岡氏の出世作は『王陽明研究』であるが、これは王陽明の伝記であるので、氏の全般的な思想を知るには物足りない。探してみると次の2冊が見つかった。いづれも現代は致知出版社から2005年に出版されている。
『日本精神の研究』(初版:大正13年、27歳)
『日本精神通義』(初版:昭和11年、39歳)(改題『人生、道を求め徳を愛する生き方』)
安岡氏の弟子たちの座談会や追悼集などではよく「先生は、西洋語もおできになった」と書かれている。西洋語と言っても英語だけでなく、ドイツ語も読めた、というニュアンスであるようだ。晩年の講演集には西洋語に関する話題はあまり載っていないが、この2冊は流石に若い時だけの著作だけあって西洋語が使えた、ということが分かる文章がちらほら見える。
語学力はともかくとして、西洋に関して言えば、氏は西洋語(多分ドイツ語)では、ドイツ観念論哲学(カント、フィヒテ、ヘーゲルなど)の難解な言葉に「理解できな~い!」とノイローゼになったようで、ある時点で西洋語を通しての西洋理解を放棄してしまったようなところが見られる。その結果、佐久間象山が言い出した「東洋道徳 西洋芸術」、つまり「東洋では人の道を教える道徳があるが、西洋では科学文明を推し進めた結果の物質文明しかない」と確信したようだ。氏自身の表現としては「陽原理の西洋、陰原理の東洋」、「主我的な西洋、没我的な東洋」、「機械的な西洋、人格的な東洋」などの対句がこれらの若い時代の本には多く見られる。
このような論調はとりわけ『日本精神の研究』に濃厚に感じられる。もっとも、本筋は譲らないにしても、西洋からも精神面で取り入れるべきところがあると『日本精神通義』の第11章『東西文化の本質的対照(上)』や最終章『国粋主義の反省と実践』では力説する。ただ、具体的な西洋の精神面のどこをどのように評価するのかについての言及や考察は見当たらない。
一方、東洋に関しては、とりわけ中国に関しては、学識豊かであることに異論はないが、 27歳時の『日本精神の研究』では、中国の本質を全く理解していない節が見られる。具体的には、《第13 剣道の精神》(P.404)に表われる次の表現だ。(原文はルビ付き)
之に反して、東洋、特に支那・日本では有史以来民族的大動揺が無い。支那周辺の夷狄といった所が皆同一系統の人種で、大した優劣もない。彼等は比較的静穏な生活を営んで、自然と密な生命の融合を体験して来た為に、欧州人と比べると、著しく内観的であり思索的である。
私は『本当に残酷な中国史 ― 大著『資治通鑑』を読み解く』で述べたように、資治通鑑を読んで中国が如何に頻繁に「支那周辺の夷狄」(遊牧民)と熾烈な戦いをしているか、ぞっとするほど分かった。そのような生活は「比較的静穏な生活を営んだ」と言えるものでは決してないと断言できる。それから言うと氏の中国理解はかなり歪んでいる。氏はいろいろな著書の中で「資治通鑑を読んで中国がよく分かった」と何度も述べているが、上のような中国の歴史に関する無理解から資治通鑑を通読していないことが分かる。氏のいう「資治通鑑を読んだ」というのは、主として司馬光の論賛部分を読んだに過ぎないのではないかと、私は推察している。
ここで、安岡氏に関して取り立てて述べたのは本書とりあげた「腹中、人あり」(P.38 )の元の句の「腹中、書あり」が氏の本から取ってあるからだ。私のいう「腹中、人あり」とは「行動の指針となる人物が(腹中に)居座っているということだ」という意味だ。私は今まで数多くの東西の人物伝を読んだ。その結果、腹中に何人か居座っているが、思いつくままに何人か挙げてみよう。
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呂蒙正(『宋名臣言行録』巻1)― 若くして参知政事(副首相)になったが朝礼の時に「こんな若造でも副首相か」と指さして言う者がいた。呂蒙正は聞こえない振りをして通り過ぎようとしたが、周りの者がその無礼な者の名前を問い詰めようとしたが、呂蒙正はたしなめて「一旦名前を聞けば、一生覚えてしまう。名前を知らない方が良いし、第一、大したことでもない」と言った。
馮異(『後漢書』巻17)― 智将であったが、それ以上に謙譲の美徳を備えていた。戦いに勝つたびに、論功を決める時に将軍たちはみな己の手柄を競って言いつのった。しかし、馮異だけは、ひとり議論の輪からはずれ、大樹の下に陣取って、端然としていた。いつしか人は彼を「大樹将軍」と呼ぶようになった。
アリステーデス(『プルターク英雄伝』)― アテネでは独裁者の出現を防ぐため、陶片追放(ostracism)という制度があった。これは、アテネ市民が投票によって危険人物を町から10年間追い出すというものである。ある時、その投票日に、義人の誉れ高いアリステイデース(Aristides)が投票所にでかける途中で見知らぬ人に出会った。手にした陶片を渡して言うには「字が書けないので、すまんがここにアリステイデースと書いてくれ」。これを聞いたアリステイデースはびっくりして「アリステイデースに何か怨みでもあるのかね?」と聞いた。その人が言うには「いいや、全く。でも毎日毎日、アリステイデースが義人だときいて嫌気がさしてね」。アリステイデースは黙って自分の名前を書いてその人に手渡してやった。
アッティクス(『ネポス 英雄伝』、本書 P254参照)― ローマの貴族で雄弁家・キケロの無二の親友。敵味方関係なく、窮地に陥った人は権力者の意向を恐れることなく友誼支援した。
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これらの人々は、だれもとりたてて超有名な英雄でもないし、歴史に残るような大事業を果たした人でもない。また、日本人好みの「純粋で、熱き情熱」を傾けた人でもない。また、学校の教科書に載るような模範的な善人ともいえないかもしれない。しかし、飄然として、洒脱で、どことなくすがすがしい雰囲気が漂う、そういった人が私の腹中に住みついている。
(続く。。。)
〇「意中、書あり、腹中、人あり」(『教養を極める読書術』 P.36)
本ブログにも、及び、本書にも書いたように、私は会社員となってすぐに安岡正篤という名を知った。当初は、私が知りたいと思っていた中国古典の幅広さや奥深さを教えてくれる良き先師であった。とりわけ、陽明学者といいながら、私が好きな、戦国策、淮南子、説苑、呂氏春秋、世説新語などのパンチの効いたエピソード集もお気に入りであったようで、その点では(不遜な言い方であるが)気脈が通じた。
25歳から今に至るまで、優に40年もの間、安岡氏の本は50冊ほど読んだかと思う。当初は、教えをありがたく受け取る一方であったが、私自身の知識が増えるにつれ、だんだんと氏のアラが見えるようになった。とりわけ、氏の晩年の講演録で、関西・全国師友協会が昭和 57年(1982年)に出版した『活学 安岡正篤先生講録』(全 3巻)を読んでがっくりした。それは老境に入ってもっぱら「耳学問」に頼っていることであった。その感想をブログに書いたがその一節を下にしめす。
【座右之銘・121】『君子蔵器於身、待時而動』
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社会人となってすぐのころから、私は安岡氏の本はかなり網羅的に読んでいる。初めは、安岡氏の博学に舌を巻くことが多かったが、その内、だんだんわかってきたことがある。それは、安岡氏は50歳以降、知識的に停滞していて、繰り返しが非常に多いことだ。確かにトピック的に目新しい記述もないとは言わないが、残念ながら、それらの情報は底が浅く、多分、耳学問的に仕入れた話だと想像できる。安岡氏の言葉は本人の自戒の弁であるかも知れないが、私には他山の石として肝に銘じておきたい。
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「耳学問」になってしまった一番の理由は超多忙のせいであろうと推測されるが、年齢も関連しているのだろうと考え、それでは若いころの文章を読んでみようと思い至った。安岡氏の出世作は『王陽明研究』であるが、これは王陽明の伝記であるので、氏の全般的な思想を知るには物足りない。探してみると次の2冊が見つかった。いづれも現代は致知出版社から2005年に出版されている。
『日本精神の研究』(初版:大正13年、27歳)
『日本精神通義』(初版:昭和11年、39歳)(改題『人生、道を求め徳を愛する生き方』)
安岡氏の弟子たちの座談会や追悼集などではよく「先生は、西洋語もおできになった」と書かれている。西洋語と言っても英語だけでなく、ドイツ語も読めた、というニュアンスであるようだ。晩年の講演集には西洋語に関する話題はあまり載っていないが、この2冊は流石に若い時だけの著作だけあって西洋語が使えた、ということが分かる文章がちらほら見える。
語学力はともかくとして、西洋に関して言えば、氏は西洋語(多分ドイツ語)では、ドイツ観念論哲学(カント、フィヒテ、ヘーゲルなど)の難解な言葉に「理解できな~い!」とノイローゼになったようで、ある時点で西洋語を通しての西洋理解を放棄してしまったようなところが見られる。その結果、佐久間象山が言い出した「東洋道徳 西洋芸術」、つまり「東洋では人の道を教える道徳があるが、西洋では科学文明を推し進めた結果の物質文明しかない」と確信したようだ。氏自身の表現としては「陽原理の西洋、陰原理の東洋」、「主我的な西洋、没我的な東洋」、「機械的な西洋、人格的な東洋」などの対句がこれらの若い時代の本には多く見られる。
このような論調はとりわけ『日本精神の研究』に濃厚に感じられる。もっとも、本筋は譲らないにしても、西洋からも精神面で取り入れるべきところがあると『日本精神通義』の第11章『東西文化の本質的対照(上)』や最終章『国粋主義の反省と実践』では力説する。ただ、具体的な西洋の精神面のどこをどのように評価するのかについての言及や考察は見当たらない。
一方、東洋に関しては、とりわけ中国に関しては、学識豊かであることに異論はないが、 27歳時の『日本精神の研究』では、中国の本質を全く理解していない節が見られる。具体的には、《第13 剣道の精神》(P.404)に表われる次の表現だ。(原文はルビ付き)
之に反して、東洋、特に支那・日本では有史以来民族的大動揺が無い。支那周辺の夷狄といった所が皆同一系統の人種で、大した優劣もない。彼等は比較的静穏な生活を営んで、自然と密な生命の融合を体験して来た為に、欧州人と比べると、著しく内観的であり思索的である。
私は『本当に残酷な中国史 ― 大著『資治通鑑』を読み解く』で述べたように、資治通鑑を読んで中国が如何に頻繁に「支那周辺の夷狄」(遊牧民)と熾烈な戦いをしているか、ぞっとするほど分かった。そのような生活は「比較的静穏な生活を営んだ」と言えるものでは決してないと断言できる。それから言うと氏の中国理解はかなり歪んでいる。氏はいろいろな著書の中で「資治通鑑を読んで中国がよく分かった」と何度も述べているが、上のような中国の歴史に関する無理解から資治通鑑を通読していないことが分かる。氏のいう「資治通鑑を読んだ」というのは、主として司馬光の論賛部分を読んだに過ぎないのではないかと、私は推察している。
ここで、安岡氏に関して取り立てて述べたのは本書とりあげた「腹中、人あり」(P.38 )の元の句の「腹中、書あり」が氏の本から取ってあるからだ。私のいう「腹中、人あり」とは「行動の指針となる人物が(腹中に)居座っているということだ」という意味だ。私は今まで数多くの東西の人物伝を読んだ。その結果、腹中に何人か居座っているが、思いつくままに何人か挙げてみよう。
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呂蒙正(『宋名臣言行録』巻1)― 若くして参知政事(副首相)になったが朝礼の時に「こんな若造でも副首相か」と指さして言う者がいた。呂蒙正は聞こえない振りをして通り過ぎようとしたが、周りの者がその無礼な者の名前を問い詰めようとしたが、呂蒙正はたしなめて「一旦名前を聞けば、一生覚えてしまう。名前を知らない方が良いし、第一、大したことでもない」と言った。
馮異(『後漢書』巻17)― 智将であったが、それ以上に謙譲の美徳を備えていた。戦いに勝つたびに、論功を決める時に将軍たちはみな己の手柄を競って言いつのった。しかし、馮異だけは、ひとり議論の輪からはずれ、大樹の下に陣取って、端然としていた。いつしか人は彼を「大樹将軍」と呼ぶようになった。
アリステーデス(『プルターク英雄伝』)― アテネでは独裁者の出現を防ぐため、陶片追放(ostracism)という制度があった。これは、アテネ市民が投票によって危険人物を町から10年間追い出すというものである。ある時、その投票日に、義人の誉れ高いアリステイデース(Aristides)が投票所にでかける途中で見知らぬ人に出会った。手にした陶片を渡して言うには「字が書けないので、すまんがここにアリステイデースと書いてくれ」。これを聞いたアリステイデースはびっくりして「アリステイデースに何か怨みでもあるのかね?」と聞いた。その人が言うには「いいや、全く。でも毎日毎日、アリステイデースが義人だときいて嫌気がさしてね」。アリステイデースは黙って自分の名前を書いてその人に手渡してやった。
アッティクス(『ネポス 英雄伝』、本書 P254参照)― ローマの貴族で雄弁家・キケロの無二の親友。敵味方関係なく、窮地に陥った人は権力者の意向を恐れることなく友誼支援した。
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これらの人々は、だれもとりたてて超有名な英雄でもないし、歴史に残るような大事業を果たした人でもない。また、日本人好みの「純粋で、熱き情熱」を傾けた人でもない。また、学校の教科書に載るような模範的な善人ともいえないかもしれない。しかし、飄然として、洒脱で、どことなくすがすがしい雰囲気が漂う、そういった人が私の腹中に住みついている。
(続く。。。)