もう30年も前のことです。学生時代にドイツへ留学していた時に知り合いのドイツ人からピクニックに誘われました。初夏の陽気で日差しはきついのですが、涼しい風が心地よい時でした。ちょっとした高台のテラスに皆でベンチに腰をかけて、ビールを注文し、銘々が持ってきたサンドイッチを食べていた時です。ある一人がなにやらリュックサックから取り出し、皆を見わたしているのです。その雰囲気を察して皆が一声にO Nein!(いや、だめだよ~)と言うのです。私は事情が飲みこめなかったので、隣の人が説明してくれました。取り出されたのは、いわゆる stinkende Kaese (シュティンケンデ・ケーゼ。悪臭を放つチーズ)という札付きのくさ~いチーズだったのです。その臭さを文章で臭っていた頂くとすれば、そうですね、真夏の暑いときに二ヶ月も靴下を取り替えずに毎日テニスを汗をびっしょりかくまで運動した時の、その靴下の臭いです。どうです、この文章を通してすでに臭いにおいが漂ってくるようでしょう!?
そのチーズを持ってきた当人は澄ました顔で『でも、これっておいしいのよ!』と言いますがそれに賛同する人は誰もいなかったようでした。私はそこまでそのチーズの事を知らなかったし、食べたこともなかったのですが、確かにベンチの端からでもその強烈な臭さはプンプンを臭ってきていました。当人は早速ナイフで切ってパンに挟んで食べていました。そして私にも試してみる?と問い掛けてきました。回りの人たちは皆『やめておけ』と一様に言いましたが当時若かった私はともかくも試してみようと思い、一口だけもらうことにしました。
確かに手でつかんだ時からすでに、もうその臭さが指の触覚からでも伝わってきそうな程でした。口元に持ってきた時には流石に『ウッ』となり、口の中にいれることができませんでした。当人は『鼻をつまんでも口中に入れてしまえば大丈夫だよ』というので、勇気をだして言われたように鼻をつまんで口に入れました。そうすると先ほどまでの臭さは口中に入った途端に自然と消滅し確かにうまい味(すこしとろけるような感じの感触でしたが)がするのです。(私はこのとき初めて口のなかには嗅覚が存在しないだなと実感した次第でした。)よく言われていますように、微生物学的にみれば発酵と腐敗の差はない、というように、人間が自分の味覚、嗅覚を基準として勝手に発酵だの、腐敗だの、と区別しているのです。このチーズのように嗅覚には腐敗、味覚的には発酵というものもあっても不思議ではないようです。
そう言えば、私はアフリカの動物のドキュメンタリーフィルムが好きで、日本のテレビでは生き物地球紀行やカのネーチャーなどが大好きで、よく見ています。そこでいつも思うのですが、ライオンなどの肉食動物は時には腐った肉を食べていますがよくおなかをこわさないものだ、と思います。しかし、先ほどの論理によれば多分、腐ったと私達が勝手に思っているだけで、彼らにしてみれば私達が納豆を食べるように、チョット腐っている、いや発酵している、腐肉の方がおいしいと思っているかもしれませんね。先ほどのstinkende Kaeseのように彼らも口元までは『ウッ』言っているかもしれませんが、一旦口の中に入れてしまうと、そのとろけるような腐肉を堪能しているかも、と想像したりもします。
さて話は変わりますが、孫悟空で有名な三蔵法師、本名玄奘が経典を求めて唐からはるばるインドまで旅行したときの紀行文が『大唐西域紀』です。紀行文と言っても大抵は何らかの関係で仏教に関係のある話が多く載せられています。その内の一節にセイロンのことを記述した部分があります。そこの住民の『体は黒く小さく、四角い顎に大きな顔をし、性質が烈しく平然と鴆毒を飲む』と記述されています。鴆毒(ちんどく)とは中国の歴史書によく出てきますが、高貴な人が自殺するときに使われる毒薬です。西洋での毒薬で有名なのはかのソクラテスが飲んだのが毒ニンジン(hemlock, cicuta)です。プラトンの『パイドン』の記述によれば、苦しんで死ぬのではなく、毒が回ってくると体の末端(すなわち手足)から冷えて感覚が麻痺してきます。次第にそれが体の中心部に及んでいよいよ心臓にまで到達するとお陀仏、と言う事らしいです。その時にはソクラテスだからでしょうか、あまり苦しまず死んでいるようです。なおこの毒ニンジンですが、種や葉は毒性をもつものの、その茎はサラダにしてパンにはさんで食べる、とローマの博物学者のプリニウスは書いています。
さて、玄奘は険しい地形をものともせず乗り越えていくのですが、突風の吹きすさぶ砂漠、流砂は人だけでなく『上に飛鳥なく、下に走獣なし』と動物のかげすら見あたらないと言われています。それでも仏法を求めて旅するその心意気には感心します。明治時代の日本人で同じく仏法を求めて、流砂や氷河を渡りあるいはヒマラヤを徒歩で越えてネパールから当時は入国厳禁のチベットに行った人がいます。その名を河口慧海(かわぐち・えかい)と言います。帰国後この時の冒険を書いた本が『チベット旅行記(全五冊)』(講談社学術文庫)です。これを読むと本当にびっくりです!『えっ、本当!?』と思うことだらけです。現代の登山装備でも困難なヒマラヤの6000メートル級の山々を単独走破していくのですから。またその旅行の途中途中で、新約聖書に書かれているキリストの所業そのまま、長年床に臥せっている病人も即時に治したり、『死人を生き返らせる』ワザも見せています。読みながら感じたのは伝説的にしか伝えられていないキリストの所業がいわば舞台裏も併せて記述されているのです。つまり、彼の治療が科学技術に無知な現地の人間にとっては神ワザに写りそれが拡大解釈されたら聖書のキリストのような話になるのでは、と感じた次第です。
さて、その慧海がある時、水が全くなくなり喉がからからになりながら二日ほど砂漠を彷徨っていました。低いところにようやく水らしきものを見つけたので近寄ってみると確かに水ではありますが、真っ赤でしかも小さな虫がウジャウジャいるではありませんか。乾ききった喉にはそのような水でも飲みたい、と思うらしく、虫を布切れでこしてから飲んだその味は『極楽世界の甘露』と表現しています。
似たような話が西洋にもあります。ペルシャの王であるアルタクセルクセースとその弟キュロスは王位を巡り兄弟で戦争となりました。そのキュロスの陣に参加したクセノフォンが書いた『アナバシス』は2500年経った今尚ギリシャ語の入門用のテキストとして広く読まれています。さて、そのアルタクセルクセース王が喉の渇きのために死にそうになっていた時に家来の一人が方々探してやっとのことで、その近くにテント暮らしをしているみすぼらしい住民の汚い皮袋に溜まっていた臭い水をもらってきて王に差し出しました。王がそれをすっかり飲み終えると、『神々にかけて誓ってもいい。今まで一度もこんなに甘い酒やこんなに爽やかで清らかな水を飲んだことがない!』と言ったということです。
このように味覚などというものは、極限状態においては通常とは全く異なった感覚になるということですね。諺にも『空き腹にまずいものなし』とあります。味わいそのものを追求するより、より一層味わえるような体調づくり、これも一つの料理の味付けのコツではなかろうかと考えます。
このようなことを考えるのも、いつもワインを買いに行くときに高いワインなどを見るにつけて、どういう基準で味に値段が決まっているのだろう?と考えるからです。味などはその本人がおいしいと感じればいいのであって何も万人がおいしいを感じる必要がないのでは、と思っています。しかし、一方この頃、実体験として分かるようになってきたのは値段は味ではなく体に馴染むかどうかで決められている部分もあるのではないかと思っています。以前から私は日本酒を飲むとかなり少量でも頭が痛くなったのですが、吟醸酒のように値段の高い日本酒だとそういうことがないのです。またワインにしても同様です。つまり同じアルコールでも高い酒のものは私には体に良く馴染むのです。この理論が一般化できるかどうかは分かりませんが、この値段とアルコールの馴染み具合の関係は私のような『国税庁公認の貧民』にはなんとも厄介な仕組みではあります。
そのチーズを持ってきた当人は澄ました顔で『でも、これっておいしいのよ!』と言いますがそれに賛同する人は誰もいなかったようでした。私はそこまでそのチーズの事を知らなかったし、食べたこともなかったのですが、確かにベンチの端からでもその強烈な臭さはプンプンを臭ってきていました。当人は早速ナイフで切ってパンに挟んで食べていました。そして私にも試してみる?と問い掛けてきました。回りの人たちは皆『やめておけ』と一様に言いましたが当時若かった私はともかくも試してみようと思い、一口だけもらうことにしました。
確かに手でつかんだ時からすでに、もうその臭さが指の触覚からでも伝わってきそうな程でした。口元に持ってきた時には流石に『ウッ』となり、口の中にいれることができませんでした。当人は『鼻をつまんでも口中に入れてしまえば大丈夫だよ』というので、勇気をだして言われたように鼻をつまんで口に入れました。そうすると先ほどまでの臭さは口中に入った途端に自然と消滅し確かにうまい味(すこしとろけるような感じの感触でしたが)がするのです。(私はこのとき初めて口のなかには嗅覚が存在しないだなと実感した次第でした。)よく言われていますように、微生物学的にみれば発酵と腐敗の差はない、というように、人間が自分の味覚、嗅覚を基準として勝手に発酵だの、腐敗だの、と区別しているのです。このチーズのように嗅覚には腐敗、味覚的には発酵というものもあっても不思議ではないようです。
そう言えば、私はアフリカの動物のドキュメンタリーフィルムが好きで、日本のテレビでは生き物地球紀行やカのネーチャーなどが大好きで、よく見ています。そこでいつも思うのですが、ライオンなどの肉食動物は時には腐った肉を食べていますがよくおなかをこわさないものだ、と思います。しかし、先ほどの論理によれば多分、腐ったと私達が勝手に思っているだけで、彼らにしてみれば私達が納豆を食べるように、チョット腐っている、いや発酵している、腐肉の方がおいしいと思っているかもしれませんね。先ほどのstinkende Kaeseのように彼らも口元までは『ウッ』言っているかもしれませんが、一旦口の中に入れてしまうと、そのとろけるような腐肉を堪能しているかも、と想像したりもします。
さて話は変わりますが、孫悟空で有名な三蔵法師、本名玄奘が経典を求めて唐からはるばるインドまで旅行したときの紀行文が『大唐西域紀』です。紀行文と言っても大抵は何らかの関係で仏教に関係のある話が多く載せられています。その内の一節にセイロンのことを記述した部分があります。そこの住民の『体は黒く小さく、四角い顎に大きな顔をし、性質が烈しく平然と鴆毒を飲む』と記述されています。鴆毒(ちんどく)とは中国の歴史書によく出てきますが、高貴な人が自殺するときに使われる毒薬です。西洋での毒薬で有名なのはかのソクラテスが飲んだのが毒ニンジン(hemlock, cicuta)です。プラトンの『パイドン』の記述によれば、苦しんで死ぬのではなく、毒が回ってくると体の末端(すなわち手足)から冷えて感覚が麻痺してきます。次第にそれが体の中心部に及んでいよいよ心臓にまで到達するとお陀仏、と言う事らしいです。その時にはソクラテスだからでしょうか、あまり苦しまず死んでいるようです。なおこの毒ニンジンですが、種や葉は毒性をもつものの、その茎はサラダにしてパンにはさんで食べる、とローマの博物学者のプリニウスは書いています。
さて、玄奘は険しい地形をものともせず乗り越えていくのですが、突風の吹きすさぶ砂漠、流砂は人だけでなく『上に飛鳥なく、下に走獣なし』と動物のかげすら見あたらないと言われています。それでも仏法を求めて旅するその心意気には感心します。明治時代の日本人で同じく仏法を求めて、流砂や氷河を渡りあるいはヒマラヤを徒歩で越えてネパールから当時は入国厳禁のチベットに行った人がいます。その名を河口慧海(かわぐち・えかい)と言います。帰国後この時の冒険を書いた本が『チベット旅行記(全五冊)』(講談社学術文庫)です。これを読むと本当にびっくりです!『えっ、本当!?』と思うことだらけです。現代の登山装備でも困難なヒマラヤの6000メートル級の山々を単独走破していくのですから。またその旅行の途中途中で、新約聖書に書かれているキリストの所業そのまま、長年床に臥せっている病人も即時に治したり、『死人を生き返らせる』ワザも見せています。読みながら感じたのは伝説的にしか伝えられていないキリストの所業がいわば舞台裏も併せて記述されているのです。つまり、彼の治療が科学技術に無知な現地の人間にとっては神ワザに写りそれが拡大解釈されたら聖書のキリストのような話になるのでは、と感じた次第です。
さて、その慧海がある時、水が全くなくなり喉がからからになりながら二日ほど砂漠を彷徨っていました。低いところにようやく水らしきものを見つけたので近寄ってみると確かに水ではありますが、真っ赤でしかも小さな虫がウジャウジャいるではありませんか。乾ききった喉にはそのような水でも飲みたい、と思うらしく、虫を布切れでこしてから飲んだその味は『極楽世界の甘露』と表現しています。
似たような話が西洋にもあります。ペルシャの王であるアルタクセルクセースとその弟キュロスは王位を巡り兄弟で戦争となりました。そのキュロスの陣に参加したクセノフォンが書いた『アナバシス』は2500年経った今尚ギリシャ語の入門用のテキストとして広く読まれています。さて、そのアルタクセルクセース王が喉の渇きのために死にそうになっていた時に家来の一人が方々探してやっとのことで、その近くにテント暮らしをしているみすぼらしい住民の汚い皮袋に溜まっていた臭い水をもらってきて王に差し出しました。王がそれをすっかり飲み終えると、『神々にかけて誓ってもいい。今まで一度もこんなに甘い酒やこんなに爽やかで清らかな水を飲んだことがない!』と言ったということです。
このように味覚などというものは、極限状態においては通常とは全く異なった感覚になるということですね。諺にも『空き腹にまずいものなし』とあります。味わいそのものを追求するより、より一層味わえるような体調づくり、これも一つの料理の味付けのコツではなかろうかと考えます。
このようなことを考えるのも、いつもワインを買いに行くときに高いワインなどを見るにつけて、どういう基準で味に値段が決まっているのだろう?と考えるからです。味などはその本人がおいしいと感じればいいのであって何も万人がおいしいを感じる必要がないのでは、と思っています。しかし、一方この頃、実体験として分かるようになってきたのは値段は味ではなく体に馴染むかどうかで決められている部分もあるのではないかと思っています。以前から私は日本酒を飲むとかなり少量でも頭が痛くなったのですが、吟醸酒のように値段の高い日本酒だとそういうことがないのです。またワインにしても同様です。つまり同じアルコールでも高い酒のものは私には体に良く馴染むのです。この理論が一般化できるかどうかは分かりませんが、この値段とアルコールの馴染み具合の関係は私のような『国税庁公認の貧民』にはなんとも厄介な仕組みではあります。