台風30号でフィリピンを高潮が襲い大きな被害がでました。津波のような高潮ですが、江戸時代に「延宝の高潮」があり静岡県では高いところでは9mの高潮に襲われ、そのことが古文書が残されています。
古文書は1760年頃、当人が60歳を過ぎた頃、見聞きしたり他の文書から写させてもらったりして昔話を書きまとめたものです。
1680年9月28日(延宝八年閏八月六日)大雨大風が吹き、さらに風が強まり高潮に襲われた。水がついので天井に上り屋根を破って棟に取り付いて家ごとが流されたが波にのまれた。波を逃れた人も家ごと流れてゆき橋にぶつかり溺れた。死者四五千人とも書かれていますが、二十九人とも、全六十一人とも三百人とも言われているそうです。
高潮の後、浜へは娘を嫁に出すなと言われたとあります。これは文書を写させてもらったとあります。
この人の住む集落までは波は来なかったようですが、米を袋に入れ高台へ逃れとあります。50年くらいたち、築いた堤防も低くなってきているので、高波が来た時は堤防伝いに高台へ逃げろと聞かされていたようです。
高潮から五六十年たった頃、白髪の老人が立ち寄り、その老人の話では波の中を子供を負ぶって流され、耐え切れずに子供を振り放して助かったと老人が涙を流しながら昔話をしていったという話を人づてに聞いて書いたものです。
高潮で大きな被害がでたので、藩は農地や住居を取り囲む「大囲堤(おおがこいづつみ)」と呼ばれる14kmにおよぶ大堤防を造ります。しかし、動員した農民に賃金(扶持米)を払わず、更に8600俵の年貢を増やしたため領民が苦しみました。農民の窮状が江戸幕府の耳に入り、藩主は藩替えとなりました。そのため完成間近の堤防工事が中止となり囲堤が完全には閉じていないとのことです。
「大囲堤」は昭和の土地改良事業(圃場整備)で崩されなくなりましたが、ごく一部が残っているそうです。
また、高潮や津波からの避難場所として「命山」という人工山も築かれました。高さ3.5m 頂上が19m×8mと高さ5m 頂上が13m×7mのものが残っており、津波対策として注目されています。
磯田先生は静岡文化芸術大学文化政策学部准教授で、古文書の地震の記録を明らかにして東海地震に役立てたいとのことで静岡に来たとおしゃっていました。
著書『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書、2003年)はベストセラーになりました。