獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その3

2024-02-19 01:57:57 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF3-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その3) 

アクティビスト、 ソーシャル・ライター 友岡雅弥
2018年3月11日 投稿

【碑文が刻む開拓】

浪江町や、飯舘村には、入植した先人たちの苦労を偲ぶ碑が残っています。

まず、浪江町津島の沢先地区にある開拓記念碑から見てみましょう。長いですが、「開拓の歴史」を概観できるものなので、そのまま引用します。

 

開拓記念碑文

昭和二十年戦は終わった。緊急開拓の発足と共に私達は此処天王山の一画沢先地内に入植する爾来三十年有余年夢の様に過ぎた。笹小屋に住み大石を転じ木の根っこと取組み昼夜の別無し一鍬一鍬と開墾を続ける。然し収穫は少なく幾度か挫折に迷ふ昭和二十七年土地の売渡しを受けて自分の土地となるされど苦難は続く。同志相励まし相扶け情熱を燃やしてひたすら開拓の道に進む。昭和二十四年待ちに待ったる電気が導入され各戸に電燈がともる。やがて荒地は耕され草地は拓け農用地六十余町歩に及ぶ、大型畜舎鶏舎が点在し乳を搾り仔牛は生れ鶏卵は大量に生産され、ここに永住の地を築く、嗚呼たれか入植当時今日を想像したであらう。この姿を見ることなく他界された同志各位の冥福を祈り不撓不屈の拓魂を子々孫々に伝うて豊かな郷土の発展を祈念し今改めて三十有余年の苦闘を祈念するため茲に開拓記念碑建立する。

昭和五十五年十月十一日
開拓記念碑建設委員撰
福島県会議員 笠原太吉


――この碑文からは、阿武隈の未耕地、耕作不適格地に送られた開拓民たちの苦闘の姿を思い描くことができるでしょう。

「笹小屋に住み大石を転じ木の根っこと取組み昼夜の別無し一鍬一鍬と開墾を続ける。然し収穫は少なく幾度か挫折に迷ふ」
「されど苦難は続く。同志相励まし相扶け情熱を燃やしてひたすら開拓の道に進む」
「ここに永住の地を築く、鳴呼たれか入植当時今日を想像したであらう」


飢餓と寒さに耐えながら、木を切り、石混じりの土地を耕し、“永住の地としての故郷”と“子々孫々の故郷”を懸命につくろうとした開拓民の姿が浮かび上がるのです。

さらに、具体的にどのような「人生」を、どのような「日々」を開拓民が生きていたのか。証言によって見てみたいと思います(浪江町津島「沢先地区」開拓50周年記念誌準備委員会『沢先開拓誌』)。

 

「苦労も懐かしい思い出に」 小林チヨ

私は昭和十六年に主人と結婚しまして旧満州国牡丹江市に軍人の妻として渡満いたしました。当時は不自由のない楽しい暮らしでしたが戦争もはげしくなり敗戦となり悲しい思い出になりました。引き揚げる途中に二人の子供を亡くして裸一貫になり、子供達の冥福を祈りつつ帰国いたしました。
昭和二十年九月、主人が復員して昭和二十一年に津島沢先に入植いたしました。四方が山ばかりで周りは木立で何も見えませんでした。きつねが出て来てびっくりしました。
夜になると電気もなくランプの光だけで淋しい毎日でした。
食糧難の時代でしたので、食べるのも大変でした。朝早くから夜遅くまで月の光で畑仕事もしました。
何でも初めての事でほんとうに苦労しました。想像もできない様なことばかりですが今になってみるとなつかしい思い出となりました

 

「話しきれぬ50年の苦労」 小林正

昭和二十年八月終戦となり、国の政策による緊急開拓事業に伴い、天王山国有林68林班に入林し食糧増産に励みましたが、昭和二十年は冷害にみまわれ作物は穫れず食うや食わずの生活となってしまいました。笹の小屋に住むこと何年か、考えることさえ嫌になっていた。冬がやって来ることを知っていながらどうすることも出来なかった。
とうとう冬がやって来たが保存食は少なく雪が降っても雪を掃く物さえなかった。
この苦しみは今となっては思い出となったが、その当時はただ茫然とするばかりでありました。
家族に食事を与えるため雪を掘って野菜を取るなど雪がこんなに降ることさえ知らなかった私共であった。
年が明けて春がやって来ると木の芽や山菜と食べるものがだんだん多くなって来るが、働かなければ食べてゆけず朝は朝星を仰ぎ、夜は月の光で一鍬一鍬開畑に力を入れ、食事は粥を啜りながら日中は伐採をして薪を作り木炭を焼いて資金をつくり、生活費や学資に充て、薪と塩とを交換するなどして生活をしていた。
あの時の苦労は話しても話しきれません。
家族が病気になっても薬もなければ電話もなく、薬草で何とか持ちこたえる毎日であった。
この苦労は私共だけで結構です。決して子供や孫には苦労をさせたくありません。
当地に入植した先輩の方々や同僚が幾多の苦労を凌ぎながら他界してゆく姿を見るとき、自分の身上を考えざるを得なく心細くなること幾たびか、このように生活が安定することさえ思っても見ることが出来ませんでした。
現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残したいと思います。

 


「この苦労は私共だけで結構」
「決して子供や孫には苦労をさせたくありません」
「現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残 したいと思います」
――この言葉に、開拓民の思いが集約されているような気がします。
子どもや孫にはさせたくない苦労を重ね自分たちの手で作り出し、子々孫々まで残したい“故郷”。
そんな“故郷”が原発事故により奪われた。その悔しさは、筆舌に尽くせないでしょう。

原発事故を考えるとき、忘れてはならないにも関わらず、忘れられがちの事実があります。
それは、今も、原発事故被害を生きていらっしゃるかたがたのことです。被爆の不安もですが、原発事故のために、故郷を失った、コミュニティを失った、当事者のかたがたのことです。
現在も、被害を継続して受け続ける「当事者」の存在とその今の有様、苦悩のリアルを見つめずして、「反原発」はありえないと思うのです。

 

もう一度、まなざしを過去に戻して、もう少し、どのような苦労の積み重ねで、開拓地が切り開かれていったかを見てみたいと思います。

 

【開拓保健婦の目】

小林正さんの「薬がなく(自然に生えている)薬草で間に合わせた」という証言からも分かるように、開拓村には病院もなく、医師もいませんでした。この現実に対応するため「開拓保健婦」が生まれました。「開拓保健婦」は、1947年(昭和22年)から1970年(同45年)まで存在した制度で、保健婦(当時の呼称)資格を持ち、 厚生省(現・厚労省)ではなく、農林省(現・農水省)の管轄で、開拓村に派遣されるのです。

開拓保健婦で、思いだすのは、岩手・田野畑村の岩見ヒサさんです。
岩手県の盛岡駅ビル・フェザンに、「さわや書店フェザン店」があります。地域に密着した品揃えと、本の内容を巧みに要約したポップで、ベストセラーを次々と生み出し、全国に影響を与える名物店です。
そこに、震災後、こんなポップが立ち、平積みになっていた本がありま す。

「岩手県に原発がない理由が本書を読むと分かります」
「岩手県民必読です」

(写真:平積みされた岩見ヒサさんの本『吾が住み処ここより外になし』)

岩見ヒサさんの『吾が住み処ここより外になし 田野畑村元開拓保健婦のあゆみ』です。

ヒサさんは、1956年(昭和31年)に、「開拓地保健技師として宮古農林事務所勤務、田野畑村駐在を命じる」の辞令を受けました。岩手県北部沿岸にある田野畑村に駐在(居住)し、近いところでも歩いて往復2時間、平均往復4~5時間のところに点在する開拓地の家庭訪問と保健指導を続けたのです(1970年まで)。
沿岸地域はそれほど雪が積もりません。が、少し山に入ると完全に道がどこか分からないほどの雪です。そこを歩いて行くのです。

岩手県では、1975年(昭和50年)、田老町(当時)摂待に電源開発株式会社が原発をつくる計画を立てましたが、漁民の反対で中止。そして、1982年(昭和57年)田野畑村が建設候補地とされました。
ここで、岩見ヒサさんや地元の漁民たちが中心となって、粘り強い反対運動を続け、 結局、計画は白紙となりました。
岩見さんが、反対運動の中核となりえたのは、田野畑の各所に散らばる開拓地を歩き回り続けた、その姿への信頼からでした。

話はさらに逸れますが、震災後、岩手県の保健行政について、多くのことを教えてくださったのが、岩手看護短期大学の鈴木るり子教授です。鈴木さんは、元大槌町の保健師さんで、震災後、住民基本台帳のデータさえも喪失した大槌町で、全国からボランティアに駆けつけた仲間の保健師さんたちと、避難所や借り上げ住宅など各地に散らばった住民の全戸家庭訪問をなしとげた、パワフルな女性です。

(写真:鈴木るり子教授と大槌町での保健師の活動を伝える著作)


(写真:鈴木るり子教授と大槌町での保健師の活動を伝える著作)


鈴木さんが、原点としているのは、1人の「開拓保健婦」さんとの出会いでした。
その開拓地は「先進的な農業が行われている」として中学校の教科書とかにも出ていたところです。にもかかわらず……

「その方(開拓保健婦さん)についていくと、サハリンから引き揚げて入植された方が、脳梗塞で寝たきりだったんです。吐く息が凍る寒さのなかで、土に直接ムシロを敷き、その上に『せんべい布団』一枚で。ガリガリにやせて。その先輩保健婦さんが言いました。『この人たちは、国に見捨てられた。外地でも、ここでも。だから私たちが最後の砦なの。私たちが守らなければ、だれも守らない』」
――鈴木さんは、こう当時の想い出を語ってくれました。

開拓保健婦として、浪江町の津島地区に駐在した渡辺カツヨさんの証言が『沢先開拓誌』に残っています。また、長くなりますが、開拓民の生活に寄り添った開拓保健婦さんの目を通して、開拓地の生活がよく分かりますので、引用します。

 

津島開拓保健婦として勤務したのは昭和二十六年からで、満十八年でしょうか。開拓地に足を一歩踏み入れた第一印象はただに百年も昔の時代に引き戻された様な気持ちがしたものでした。
また、残雪の畑にはポツンポツンと木の根があり、畑の隅に小さな笹小屋が建てられ丸太を並べた上に荒筵を敷き、炉には太い薪が燻って誰の顔も手足も煤けて、ドラム缶の風呂も便所も露天が多く、囲いのあるのは良い方でした。
配給米を五升や三升づつ背負って五、六キロの山道を一日がかりで往復する人達を見るたびにこの人達はいつになったら人並みの生活ができる様になれるのかと思った。 薬はなく、みすみす死なせた話は珍しくありませんでした。
夜中に起されて出てみると、汚れた破れ国民服を着け、ぼうぼうの男の人が立っている。
「子供が肺炎で死にそうです。お願いします」
という。初めて逢う顔である。
カバンを掛けて迎えに来た人と出かける。提灯の後について山道を黙々と行く。二時間も歩いた頃ようやく一軒の小屋に着いた。呼吸困難症状の患者を炉端で母ちゃんが抱えている。
「どうして寝かせないのか」と言っても、寝かせようともしない。
抱きとって寝かせてあげようと床に行ってみると木の葉を敷き詰めたその上にぼろ布を敷き布団がないのである。
温湿布をと思うと手ぬぐいもない。自分の手ぬぐいを使って温湿布をし、二日後快方にむかい一命をとり止めた。

戦後、十年近く経っていると思われるのに、「国民服」しか着るものがなく、木の葉とぼろ布が「布団」替わりです。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」ぶ生活が、ここには、まだまだつづいていたのです。

 


解説

「この苦労は私共だけで結構」
「決して子供や孫には苦労をさせたくありません」
「現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残 したいと思います」
――この言葉に、開拓民の思いが集約されているような気がします。
子どもや孫にはさせたくない苦労を重ね自分たちの手で作り出し、子々孫々まで残したい“故郷”。
そんな“故郷”が原発事故により奪われた。その悔しさは、筆舌に尽くせないでしょう。

本当に、悔しい思いをしたことでしょう。

 

獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その2

2024-02-18 01:53:49 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF2-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その2)

アクティビスト、 ソーシャル・ライター 友岡雅弥
2018年3月7日 投稿

【開拓、引揚げ、そして開拓】

「それで、唐鍬(とんぐあ)で土さぁ砕(くだ)ぐ。石ばかりよ。ほうやってやるほが(やるほか)どうしようもねんだもの」

「しほんこ(四本耕、しほんこう)で、おごす(起こし)てな」

「しほんこなんて、もっと後(あど)だ、後だ。何年も唐鍬ばかり、石ばかり」

――避難先の福島市松川の仮設住宅にお邪魔したとき耳にした、飯舘村のお母さんたちの会話です。皆さん、80歳を越えているでしょうか。

唐鍬は、厚みがあり、刃先が鋭い鍬。固まった土を砕き、また草の根切りを行います。四本耕は、刃先が細い四本になったもので、柔らかくなった土を掘り、畝を起こすために使う鍬です。

「石ばかりの土地を何年も耕す」とは、どういうことでしょう。


東京電力福島第一原発事故による放射性物質は、おりからの風にのって、原発の北西側、阿武隈山系の浪江町、飯舘村方向に流れていきました。(風と谷や山などの地形により、さらに細かく複雑な流れ方をしていますが)。

6年後、昨年、3月31日、飯舘村全域、浪江町の海側の避難指示が解除されました。 しかし、浪江町の山側(ほぼ常磐道から西側、一部、酒井地区など東側も)、飯舘村の長泥地区、葛尾村の前行地区が、帰還困難区域のままです。立ち入りは制限され、 入るときは防護服や防護マスクの着用と線量計が必要です。

飯舘・浪江・葛尾――これらの地域を歩き、いろいろな人たちに出会い、お話をうかがっているうちに、大きなことに気づきました。

この地域は、戦後開拓で移住してきた農家が多いということです。開拓にまつわるご苦労を、問わずがたりに語ってくださったご高齢のかたがたも多くいらっしゃいました。

前述の「唐鍬で石ばかりの土地を耕す」は、その時のお話です。


『福島県戦後開拓史』(福島県農地開拓課編、1973年)は、福島全県の戦後開拓についての詳細な資料ですが、これを見ると飯舘・浪江・葛尾の阿武隈山系の町村が、特に開拓入植者が多かったことが分かります。この本が出た当時、福島県全体としては、 農家数163425戸で、開拓農家は8155戸、5%ですが、特に多いのが――

浪江町 2422戸に対して478戸 19.6% 
葛尾村 423戸に対して213戸 50.1% 
飯舘村 1497戸に対して518戸 34.7%

――飯舘・浪江・葛尾は、特に開拓農家が多い地域なのです。

浪江町は、他の2つの村と比べると少ないようですが、同町は阿武隈山系から、太平洋沿岸にいたる広い区域で、沿岸部は古くから開け、人口も多いところで、ここにはあまり開拓は入りませんでした。だから、その分、比率が低くなっているのです。

逆に、まさに、今、帰還困難区域となっている山中の地域が、開拓地に選ばれたところです。

*他に、福島県中通り、栃木県に隣接する西郷村が、全戸数1425に対し、394戸で27.6%と多いのですが、これは、約4000ヘクタールの広大な「軍馬補給地」があり、 軍馬が不必要になって、開拓地に充てられたためです。


もちろん、浪江・葛尾・飯舘だけでなく、日本の戦後開拓は、筆舌に尽くしがたい困難をともなったものでした。


第二次大戦中、働き盛りの男性たちが兵役にとられ、田畑が荒れ、食糧生産が激減しました。そこに、戦後、満州や台湾、樺太などからの引き揚げ者、復員してきた軍人が帰国してきます。敗戦の時、660万人の日本人が「外地」にいたのです。

また、都市はことごとく空爆され、工場などの働く場所も仕事も無くなりました。

食糧不足と失職者(家も失っている)の激増。そこで「農業開拓」により、食料の増産と働く場所の提供の2つを同時に解決することが、考えられたのです。

1945年10月9日に、幣原喜重郎内閣が成立するやいなや、農林省開拓局が設置され、一ヶ月後の11月9日に「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定されます。

内容は――
「終戦後ノ食糧事情及復員二伴フ新農村建設ノ要請二即応シ大規模ナル開墾、干拓及土地改良事業ヲ実施シ以テ食糧ノ自給化ヲ図ルト共二離職セル工員・軍人其ノ他ノ者ノ帰農ヲ促進セントス」
――というものでした。

戦争や大災害というのは、直接的な被害だけではなく、しばしば、その後の社会に、長く続く禍根を残すものだと思います。

なぜなら、本来ならば、巨大な混乱に対する決定は時間をかけて十分検討されるべきです。しかし、混乱が巨大であればあるほど、決定は短時間で行わなければならない。
立ちすくんでしまう、目も眩むアポリアです。

東日本大震災で、壊滅的被害を受けたある自治体の首長にお会いしたとき、「今となっては、決断を急ぎすぎた点も多々ある。みんなが落ち着いてから、議論を始めたら違う結論が出た可能性がある事業がとても多くて、申し訳ない」と語っていました。

大混乱の中かもしれませんが、まず実際に起こった「過去の事例」を参考にすることによって、混乱での決定に際しての誤りを少しでも少なくする可能性を探ることが必要でしょう。「未曽有」「未曽有」と繰り返すのは、せっかくの参照項を視野から排除し、思考停止に陥る危険性があります。もちろん、大混乱の中ですから、なかなかそこまで考えが回らない。だから、日ごろから考えておくことが必要なのでしょう。

また、決定した施策や事業が、最前線でどのようなものとなっているかを、丁寧に現場に行って検証し、そぐわないものであれば、是正し、軌道修正していく柔軟な態度も必要になります。

しかし、日本社会は、それがしばしば欠けることがあるような気がしてなりません。


事実、開拓は、戦前・戦中もありました。遡れば、明治維新で「武士」の身分(それはとにもなおさず、職と禄)を失った士族約200万人の“就労対策”として「士族開墾」が大々的に行われました。ところが、有名な斗南開拓(「賊軍」としての会津藩士への「懲罰」と言われる過酷さ)にみられるように、多くは悲劇的結末に終わっています。また、囚人たちを強制労働させた北海道開拓の悲劇もありました。

戦中は、さまざまな理由で兵役に就いていない(すでに兵役を終えた人も)人々を対象に、北海道開拓の「拓北農兵隊」が募集されました。25回、14000人が北海道各地に入植しています(『北海道戦後開拓史』北海道庁)。

「住宅の用意あり、土地の無償貸与・付与、農具・種子の無償給与、無償の主食配給」と、喧伝されました。


北の朝空 希望に明けて
ゆくよわれらの 開拓戦士
拓く沃土に 新生の
君に幸あれ 栄あれ


「拓北農兵隊を送る歌」の大合唱と、「今日から諸君は聖戦完遂、本土決戦に不可欠な食糧戦士として直接戦列に加わる」との警視総監などの“お歴々”からの激励で送られて上野駅を出発。

しかし、人々を待っていたのは、「突然奈良県集団帰農者来村の報が村役場に到り、当事者をあわてさせた」(『置戸町史』置戸町)などという、受け入れ地域の実情でした。

何の連絡も受けていなかったのです。当然、喧伝されていた土地も、家も、農具も種子もなかったのです。

それで、開拓民は、いたしかたなく誰も今まで手を付けていないような泥炭の土地を借り入れたりして、なんとか営農に挑戦しましたが、9割が失望、絶望の中で、開拓を諦めたのです。

何度も失敗した開拓の歴史、「拓北農兵隊」に至っては、「戦後開拓」ほんの数年、数ヶ月前です。十分、参照できたのではないでしょうか?

しかし、「緊急開拓事業実施要領」から始まる戦後開拓は、過去の検証なく進められた故に、同じ轍を踏むことになりました。

「外に失った領土を内に平和利用でとり戻せ」

――との、戦時と同じく勇ましいスローガンのもと向かった開拓地。しかし、そこには十分な受け入れの準備などなされていませんでした。


「明治以来の国内開拓はその大半が政策からはみだして十分政府が保障し得ない人びとを便宜的に帰農せしめ、政策の破綻を救おうとしたところに問題があった。だから世がややおちついてくると、これらの人びとのことは忘れられていったのである」(『日本民衆史1 開拓の歴史』)との宮本常一の言葉通りの、自己責任に帰せられぬ「悲劇」がそこにあったのです。

 


解説
まさに、今、帰還困難区域となっている山中の地域が、開拓地に選ばれたところです。
(中略)
もちろん、浪江・葛尾・飯舘だけでなく、日本の戦後開拓は、筆舌に尽くしがたい困難をともなったものでした。

戦後の開拓農民が苦労して開墾した土地が、東電の放射能汚染により帰宅困難区域になったのです。
なんとも、いたましい現実です。


獅子風蓮


アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その1

2024-02-17 01:39:26 | 友岡雅弥

伸城さんはご自分の著書の中の謝辞で、次のように友岡さんに対して謝辞を述べていました。

ぼくに生きかたの基礎を教え、書き手として、また仏教思想のよき語り仲間として、かつても、現在も心のなかで伴走しつづけてくれているアクティビストの先輩(故人)。

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。
(写真については省略します)

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF1-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その1) 

アクティビスト、 ソーシャル・ライター 友岡雅弥
2018年3月4日 投稿

【大震災以来】

東日本大震災以来、被害を受けた東北各地を訪れさせていただいています。

南は福島県いわき市から、北は岩手県の野田村・久慈市・洋野町まで。漁協、水産加工業、造船、木材加工場、椿油の製油所、農家、町の病院、高齢者施設、在宅緩和ケア、保育園、箸づくりの町工場、豆腐屋さんなどなど、いろんな職業、職種、生活の 「現場」「仕事場」でした。

津波のあと片づけ(かたし)のお手伝いをしたり、保育園の引っ越しの手伝いをしたり、知り合いのプロのマジシャンと幼稚園を訪れたり、再開したワカメ漁の収穫のお手伝いをしたり、ご家族を全員津波で亡くされた方のお宅で、ただただお話をお聴きするだけしか出来なかったり、クラウド・ファウンディングの手続きのアドバイスなどなど……。時には、ボランティアを装った不正行為を究明・告発するための相談を受けたこともありました。

この七年間、人々の息づかいに触れ、また生(なま)の感情が交差する生活、生業の場に足を運ぶことで、人生が一変する貴重な経験を積ませていただいたと思っています。

知人も多くでき、昨年、体の調子を少し壊したときに、わざわざ福島の浜通りから、見舞いに来てくださったかたもいらっしゃいました。知り合い、友人、そして仲間がたくさんできるということの大切さを、震災以降の経験が僕に教えてくれました。

「3・11」は、一昨年まで毎年石巻で迎えましたが、昨年は、飯舘村で迎えました。

“釜ヶ崎の元日雇い労働者のおっちゃんたち”が始めた当事者活動「紙芝居劇むすび」(紙芝居劇は、朗読劇付きの紙芝居です)。10年ほど前から仲間となり、しばしばともに活動させていただいています。このむすびのメンバーとともに、この数年、飯舘村のかたがたの前で「紙芝居劇」を披露させていただいています。

震災から6年目の去年の3月11日、まだ新築で木の香りが漂う飯舘村草野にある「交流センターふれ愛館」での公演にむすびが招待されたのです。これが、飯舘村の方々の前での4回目の紙芝居劇の披露でした。

最後にステージの私たちと、会場が一体になって、自然と「ふるさと」の合唱になりました。


【いつも立つ場所】

さて、福島県浜通りに行った時、必ず寄る場所があります。浪江町の棚塩集会場と、飯舘村の飯樋小学校です。

福島県では、もう一つ原発をつくる計画がありました。南相馬の小高と浪江の棚塩にまたがる地域です。しかし、棚塩の農家が粘り強く反対運動を行いました。硬軟とりまぜての切り崩しにもめげず、反対運動は持続し、原発の建設は阻止されました。

その反対運動の拠点が、棚塩集会場だったのです。当時は木造。クリーム色が美しいコンクリートづくりに立て替えられました。
しかし、2011年3月11日、 集会場は津波に襲われ、壊滅的被害を受けました。周囲の民家も流されました。集会場だけがぽつんと残っています。

(写真:棚塩集会場)

建物の枠組みは残っていますが、一階の壁、一、二階の窓を破って侵入した津波は、建物内部を破壊しつくしてしまいました。

(写真:棚塩集会場の内部)

皮肉にも、周囲は棚塩の農家さんたちが長年耕してきた広く平らな田畑であったため、今、除染廃棄物を容れたフレコンバッグの置き場となり、集会場の津波で壊れた窓からは、巨大減容化施設(将来予定されている中間貯蔵施設に運ぶため、廃棄物を焼却し、体積を減少させる)が見えます。

(写真:棚塩集会場の窓からみえる減容化施設)

原発建設を阻止し、美田を広げた棚塩に、原発事故の廃棄物が積みあがる。その矛盾の深さ。

その現実を突きつけた社会を、ささいな努力かもしれないが、「私」が少しでも変えねばならないと、集会場跡に立つたびに思います。


そして、飯舘村の飯樋小学校。

(写真:飯樋小学校)

この小学校は、後に触れる飯舘村のユニークな「村づくり」を象徴するものです。

2004年(平成16年)4月に、古い校舎を立て替え、今の形になりました。地元の木材を使って立てられた校舎は、本当に温かみがあります。

特徴はとてもたくさんあります。

まず、「職員室」がありません。

基本的に教師は、休み時間も、お昼ご飯の時間も、教室にいます。教師は「職員室の一員」ではなく「クラスの一員」なのです。また、いわゆる“職員会議”は、できるだけ少なくして、どうしても行わなければならないときは、「ミーティングルーム」で行うのです。

いわゆる“教務”もできるだけ少なくして、あくまで子どもたちと一緒であることを大切にしていました。

一般的な学校では「教室」という「ハコ」の大きさはほとんど変わりません。しかし、飯樋小学校は、低学年・中学年・高学年で、教室の大きさも違うのです。(もちろん、低学年だから小さくていい、という考えではありません。体の大きさに配慮して、教室の大きさまでも変えたのです)。さらに、机やイスは木製で、一人一人の体格により、細かい調整が可能です。

さて、低学年のエリアには、わくわくの仕掛けがあります。この学校には、「デン」と呼ばれる隠れ家スペースがいくつもありますが、この低学年エリアの真ん中には、もとからあったヒマラヤ杉がそのまま置かれ、枝伝いに木登りをして、デンのなかに隠れることが出来るのです。木登りと隠れ家。最高です!
図書室には、イチョウの原木を利用した掘りごたつがあります。「クワイエット・ルーム」という、一人になりたい時に利用できる場所もあります。

それから、広く“学校”というものには、大事な役割があります。それは地域共同体の共通の想い出の場、財産であるということです。親となり、おじいちゃん、おばあちゃんとなっても、お弁当を持って、運動会にいったり、「学校」の桜の開花を地域の人たちが楽しみにしていたり。特に、小学校は校区が狭いので、地域住民のアイデンティティそのものともなります。

今、大阪市では、橋下市長のころから、小学校がどんどん統廃合され、例えば、釜ヶ崎及び周辺エリアでは、3つの小学校が全部無くなりまし た。
うち、2つの廃校式に参加しましたが、多くのかたが、地域の財産としての小学校がなくなることに、大きな悲しみを吐露されていました。「学校」は、地域コミュニティ共通の想い出が刻まれた、経済的物差しでは計りきれない価値があることを、改めて実感しました。

さて、飯樋小学校なんですが、村人にとって懐かしい旧校舎のうち、北側校舎はそのまま残し地域住民のコミュニティスペースにしたのです。しかも、新しい校舎と自由に行き来が可能で、小学生と近隣住民の交流が図られていました。

でも、村人の思いと、その思いを実現するためのアイデアがぎっしりつまった飯樋小学校には、今、子どもたちの声はしません。

福島第一原発の事故以来、飯舘村は全村避難が続き、昨年4月1日に、避難指示が解除されたのですが、帰村する人はまだまだ、住民登録6,509人中、505人です。(2017年12月1日、福島県避難地域復興局発表)。飯舘村の草野、飯樋、臼石の3小学校は、隣の川俣町の合同仮設校舎で、授業をしています。まだ、飯舘村民の多くは、福島市や二本松市の仮設住宅に住んでいますので、そこからは、毎日、毎日、バスで、川俣まで通うわけです。

棚塩集会場、飯樋小学校。ともに、そこに立つと、住民のかたがたの無念さが感じられてなりません。浪江町も、飯舘村も、原発からの補助金や地域交付金などをまったく受けずに、町づくり、村づくりをしてきたのです。そして、その「被害」のみを受けたのです。

この無念さを、少しでも知ることが、このような悲劇を繰り返さないための第一歩だと思い、通い続けています。

 


解説
今年の正月には、能登半島で壊滅的な地震と津波の被害がありました。
幹線道路もやっと開通し、各地のボランティア募集が始まったようです。
もし友岡さんが生きていたら、どんなボランティア活動を行っただろうと思います。
また、もし友岡さんが創価学会の組織で活躍する場を与えられていたら、創価学会は組織としてどんなボランティア活動を能登半島の被災者に提供できただろうと考えます。

私自身はボランティア活動の経験がなく、何も偉そうなことは言えないのですが、創価学会は、ボランティアにこのような情熱をもった人物・友岡さんを組織から追いやり、結果的に死に至らしめたわけです。
実に惜しいことをしたとは思わないでしょうか。

池田大作氏の亡きあと、しっかりしたボランティア活動を組織できるということが創価学会の生きる道だったかもしれない、と思ったりします。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その17

2024-02-16 01:28:19 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
■五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


五杯目の火酒

   3

「あたし、声が変わるまで、歌に対して、情熱っていうのかな、熱意みたいのは、とてもあったと思う。強く持ってたと思うんだ。やっぱり歌が好きだったんだと思う。新しい曲をもらうでしょ。そうすると、そのたびにここはこう歌って、ここはこう引っ張りあげて、なんて真剣に考えたものだったんだ。〈夢は夜ひらく〉のときだって、そうだった」

__どう考えたの?

「あの歌も、最初はまったく普通のアレンジだったの。でも、どうしても、違うように思えたんだ、あたしには。フル・バンドで最初から伴奏がつくような歌じゃないように思えたの。伴奏はもうテープにとってあって、そのカラオケ・テープに合わせて歌うんだけど、どうしても納得できないわけ。そこにね、ギターさんがいたんで、ギターで、ギター一本で伴奏をつけてもらった。あたしは、この歌を、どうしてもバラードで歌いたかったんだよ。スタッフの人にね、ワン・コーラスだけバラードで歌いたいからって、アレンジを変更してもらったの。ギターさんが、あたしに、勝手に歌ってかまわない、自分はあとからついていくからって言ってくれたんで、最初にコードだけもらって、歌いはじめたんだよ」

__そうか……それがあの〈圭子の夢は夜ひらく〉の、あのアレンジになったわけなんだね。園まりの歌のアレンジより、あの方がはるかにいいものね。少なくとも、あなたには合っている。そうか、あの、語りのような出だしは、あなたが望んだことだったのか……。

「そうなんだ」

__とてもいい。

「二番から、普通の伴奏が入ってくるけど、ね」

__それはそれで、またよかった。

「この曲はね、どうにでも歌える歌なんだよ。あたしは、かったるい、もたれるような感じで歌いたかったの。

  夜咲くネオンは 嘘の花
  夜飛ぶ蝶々も 嘘の花 
  嘘を肴に 酒をくみゃ 
  夢は夜ひらく

なんてね。フフフッ、あの頃の沢ノ井さんの歌詞には、蝶々とネオンが何回出てきただろう」

__そう言えば、蝶々とネオンばかりだね。

「あたしは、五番が好きだな」

__よそ見してたら……泣きを見た?

「見たよ。見てるよ」

__見てるのか……。昔は、そんなふうに、いろいろ工夫したり、努力したりする情熱があったんだね。

「そう。でも、いまなんか……。このあいだ営業で富山に行ったんだよ。旅館なの、そこは。そこの御主人が、旅館の十周年の記念に、どうしても藤圭子を呼びたいと思ったらしいの。プロダクションの人は、藤圭子は高いからいくらお客を集めてもきっと損するからおやめなさい、って説得したらしいんだ。でも、どうしても藤圭子ショーを自分のとこでやりたい、と頑張ったんだって。どんなに損してもいいから、って。それではというんで富山に行くことになったの。行ったら、大広間にお客がギッシリつまっているの。歌うすぐ眼の前にお年寄りがチョコンと坐ってたりして。それはそれですごく嬉しいんだよね。でもね、そこで気持よく歌えるのは、〈無法松の一生〉とか〈沓掛時次郎〉とか、昔、流しのときに覚えた曲なんだよ」

__なぜ?

「お年寄りが喜んでくれるということもあるけど、いまのこの声では、そういう歌しか歌えないんだよ」

__だから、なぜ?

「その方が楽なんだよ」

__楽? なぜ?

「……」

__もう少し説明してくれないかな。

「うちにね、ビデオテープで、結構、いろんなものをとってあるんだよね」

__自分で見返すことなんか、あるの?

「時々、ね。でも、いろんなものが、ゴタゴタになっているから、ビデオ見ただけじゃ、いつの頃なのか、ちっともわからないんだ」

__顔だけじゃ、わからない?

「うん、自分でもわからない場合が、ずいぶんあるんだ。でも、画像が流れて歌い出すと、ひと声でわかるんだよ。あっ、これは手術したあとだ、って」

__ほんとに? そんなにはっきりと?

「ひと声、ひとつの音を聞いただけで、わかる。ほんとに違うんだ。ほら、聞いて、聞いて、これ、手術後のだよ、って言うと、お母さんが言うんだ。そりゃ、そうだよ、ビデオを買ったのは、このマンションに越してきてからだったから、4年しかたってない。手術前のがあるわけないよ、って」

__手術は……。

「5年前。手術前のビデオがあれば、あたしも見たいんだ。違うんだ、ほんとに」

__そんなに違う?

「このあいだの引退の記者会見のときなんだけど、それをテレビがニュースで流しているときに、昔のあたしが歌っている、古いビデオも一緒に流したの。なつかしい、って叫んで、慌ててビデオを録ろうとしたんだけど、間に合わなかった」

__残念だったね、それは。ぼくもそれを見てみたかったな。

「見たら、あたしの悩みがわかってくれると思うよ。だから、この5年間、苦労してきたんだもん。みんなが持っているあたしのイメージと、歌のイメージと、それともうすっかり変ってしまったあたしの声を、どうやって一致させるかってことを……。可哀そうなあたし、なんてね」

__いまのあなたの声だって魅力的だけどな。

「でもね、みんなは前の声で歌った歌を知っているわけ。それをこの声で歌わなければならないところに、無理があったわけ。みんなの持っているイメージから、そう離れるわけにいかないでしょ? まったく違う、新しい曲を歌うのなら、まだいいんだ。でも、どんな場合でも、何曲か歌う場合には、初期の頃の曲を歌わないわけにはいかないんだよね。それがつらかった。そういう歌を、この、喉に引っ掛からない声で歌うのが、ね」

__少し、わかってきたような気がする。あなたが引退しなければならなかった理由が、少し……。

「この5年、歌うのがつらかった」

__いつでも?どんなときでも?

「うん……」

__あなたなりに、悪戦苦闘をしていたわけだ。

「どうやったらいいのか、どう歌ったらいいのか、いろいろやってみたけど、駄目だった。あたしが満足いくようには歌えなかった。最初から無理なんだよね、声が違っちゃっているんだから。テレビなんか見ていると、時々、口惜しくなるんだよね。どうして、この人たちは歌をおろそかに歌っているんだろう……」

__本来的にへたなんだから、そういうのはどうでもいいよ。

「どうして悩まないんだろう。そう思うと、あたしが悩んでいることが、馬鹿ばかしく見えてくるんだ。なんて無駄なことをしているんだろう、って」

__無駄なんてことはない。

「そうだね、そうかもしれないね。でも、結局はやめるんだから、無駄だったのかな」

__そんなことはないさ。

「そうかな」

__もし、もしも、だよ。あなたの声が……手術前に戻ったら、戻ったとしたら……芸能界に復帰する?

「それはありえないんだよ。戻りっこないんだよ。一度、こんなことがあったなあ。日劇でショーをやって、すぐまた営業をやったら、昔のようなかすれ声になったんだ。でもね、それはただ単に荒れたというだけのことだった。すぐ元に戻っちゃった。かすれ声になったといっても、高音の引っ張りなんかが、ぜんぜん違うんだよね。ああ、元に戻るということは絶対にないんだな、とそのときそう思ったんだ」

__声は、戻らない。

「うん」

__だから、あなたも、戻らない。

「うん」

__残念だな。

「……」

__藤圭子の歌が聞けなくなるのは残念だと思うよ。

「うん……」

__たとえ、どんなボロボロになっても、歌いつづけようとは思わないの?

「うん……」

__どんなことでも、やりつづけることに意味がある。あるはずだと思う……。

「わかるよ」

__じゃあ、どうして歌をやめる?

「……」

__歌いつづけるうちに、新しく開けてくるものがあるかもしれないじゃない。

「いやなんだ、余韻で歌っているというのが……」

__余韻?

「一生懸命歌ってきたから、あたしのいいものは、出しつくしたと思うんだ。藤圭子は自分を出しつくしたんだよ。それでも歌うことはできるけど、燃えカスの、余韻で生きていくことになっちゃう。そんなのはいやだよ」

__燃えカスなんかじゃないさ。

「いや、いいんだ。あたしはもういいの。出せるものは出しきった。屑を出しながら続けることはないよ。やることはやった。だから、やめてもいいんだよ」

__でも……。

「藤圭子っていう歌手のね、余韻で歌っていくことはできるよ。でも、あたしは余韻で生きていくのはいやなんだ」

__……。

「お金だけのことなら、どんなふうになったって続けることはできると思う。でも、それは仕事でもないし、ましてや歌じゃない」

__……。

「一度どこかの頂上に登っちゃった人が、そのあとどうするか、どうしたらいいか……。 あの〈敗れざる者たち〉っていう沢木さんの本の中に出てきたよね」

__読んだの?

「うん。会う前に読んでおこうと思って……あの中に出てきた人たちの気持、あたしにもよくわかった。ほんとに痛いようにわかった。でもね、沢木さんには、あの人たちの気持が本当にはわかっていないんだ」

__ぼくが、わかっていない?

「いま、あたしにどうして歌を続けないのかって、責めたよね」

__責めなんかしないけど。

「そっちが責めなくとも、こっちが責められたもん」

__ハハハッ。まあ、いいや、責めたとしよう。それだからどうだって言うの?

「あたしは、やっぱり、あたしの頂に一度は登ってしまったんだと思うんだよね。ほんの短い期間に駆け登ってしまったように思えるんだ。一度、頂上に登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。1年で登った人も、10年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえないんだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。ゆっくり降りるなんていうことはできないの。もう、すごい勢いで転げ落ちるか、低くてもいいからよその頂に跳び移るか。うまく、その傍に、もうひとつの頂があればいいけど、それが見つけられなければ、転げ落ちるのを待つだけなんだ。もしかして、それが見つかっても、跳び移るのに失敗すれば、同じこと。〈敗れざる者たち〉に出てくる人たちは、みんな、跳び移れないで、だから悲しい目にあっているわけじゃない?」

__そうだね。

「みんな、跳び移れれば、跳び移りたかったと思うんだ、きっと。でも、できなかった。だから、ボロボロになる人もいた。でもね、それは、あの人たちが望んでそうなったことじゃなかったと思うんだ」

__そうだね、あなたの言うとおりだね。

「沢木さんは、さっき、あたしに、ボロボロになるまで続けるべきだって言ったでしょ。それはひどいよ、厳しすぎるよ」

__ぼくはね、あそこで、〈敗れざる者たち〉って本で言いたかったのは、しょうがないよなあ、ってことだったんだ。ほんとにしようがないよなあ、って。あんなにボロボロになるまでやらなくてもいいのに……でも、しょうがないよなあ……それが、あなたたちの宿命なら……しょうがないよなあ、ってことを書きたかっただけなんだ。ぼくはね、あなたに、やっぱり、歌いつづけるより仕方ないような、まあ、そういう言い方をすれば、宿命みたいのを感じてたんだ。だから……。

「でもさ、たとえ、そういう運命だったとしても、それを自分で変えちゃいけないことはないんでしょ?」

__そうだよね。

「そういうとこから、必死に跳び移ろうとしている人がいたら、沢木さんは、やめろと言う?」

__言わない。

「逆に、褒めてくれたっていいはずだよ。それを責めたりして……」

__違うよ。ほんとは感動してるのさ。あなたの潔さに感動してるんだよ。でも、ぼくはあなたの歌が好きだから、まだ歌っていてほしいんだろうな、きっと。だから、難癖をつけている。

「難癖だなんて、ちっとも思わないけど」

__あなたは、勇敢にも、どこかに跳び移ろうとしているわけだ。

「うん」

__どこへ跳ぶの?

「女にとって、いちばん跳び移りやすい頂っていうのは、結婚なんだよね。それが最も成功率の高い跳び移りみたい。でも、あたしにはそれができそうにもないし……」

__どうして?

「好きになる人は、もう、あたしくらいの齢になると、みんな、なにかしら障害を持っているもんだから、なかなか結婚はできそうにないんだ」

__じゃあ、どこに跳び移るの、結婚じゃないとしたら。

「笑わないでくれる?」

__もちろん。

「勉強しようと思うんだ、あたし」

__そいつは素敵だ。

「笑わない?」

__笑うはずないじゃない。そうか、勉強をしようと思っていたのか……。

「28にもなって、遅いかもしれないけれど、やってみようと思うんだ」

__遅くなんかないさ。ちっとも遅くなんかないよ。

「うん、そうだよね」

 

 


解説
「あたし、声が変わるまで、歌に対して、情熱っていうのかな、熱意みたいのは、とてもあったと思う。強く持ってたと思うんだ。やっぱり歌が好きだったんだと思う。新しい曲をもらうでしょ。そうすると、そのたびにここはこう歌って、ここはこう引っ張りあげて、なんて真剣に考えたものだったんだ。〈夢は夜ひらく〉のときだって、そうだった」

そうなんですね。
〈夢は夜ひらく〉のアレンジは、藤圭子本人が考えたんですね。
〈夢は夜ひらく〉をまたじっくりと聞いてみたくなりました。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その16

2024-02-15 01:24:12 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
■五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


五杯目の火酒

   2


__手術する前のあなたって、どんなだったんだろう」

「どんな、って?」

__歌に対して、どんなふうに考えていたんだろう。考えていなかった、何も、ってさっきは言っていたけど。

「考えていなかったね、ほんとに」

__自分の歌については?

「何も」

__うまいとかへたとかは?

「考えもしなかった」

__人がどんなふうに感じ取ってくれているのかということについては?

「まったく」

__少しも?

「少しも。だから、よかったんだと思うんだ。無心で、ただ歌うだけだった。ところが、手術してから気になり出したんだよ。いろんなことが、ね。自分の声についても、人の反応についても、気になってきた。手術して、確かに声は変わった。でも、そのことによって、急に気になりはじめたっていうことの方が、あたしにとってはいけなかったのかもしれないんだ。歌手としては、わかりはじめたことが恐いんだよ」

__そうかな?

「そうだと思うよ。無心だからよかったんだよ。無心だったから、ああいう歌が歌えたんだよ。いろんなことがわかり出したら、もう駄目だったんだ」

__そうかな?

「そうだよ」

__ぼくはそうは思わないけど。わかりはじめたって、別に構わないじゃない。

「構うよ」

__いや、そうじゃないと思うな。……ついこのあいだ、国際女子マラソンというのがあったの、知ってる?

「うん。見なかったけど」

__ぼくもテレビでしか見なかったんだけど、そのあとで、とても面白い話を聞いたんだ。あの大会には、いろんな国の女性ランナーが出場して、結局スミスさんとかいう40歳を超えたママさんランナーが優勝したんだ。とてもすごいことだけどね。しかも、記録がぼくたちから見ると驚異的なんだ。男性の一流のマラソンランナーの中心的な記録というのが、2時間10分前後なのに対して、彼女たちの記録は2時間30分前後なんだ。その差、もう、20分しかない。日本の女性ランナーはもう少しレベルが落ちるんで、上位に入賞することはできなかったんだけど、ね。でも、話の本題はそこにはなくて……えーと、あなたは、ゴーマン美智子という名を聞いたこと がある?

「ないなあ」

__そうか。その人はね、日本人なんだけど、アメリカ人と結婚してアメリカに住んでいる人なんだ。どうして彼女が有名になったかというと、ボストンマラソンで完走して女子の中で一位になったんだ。つまり、女子マラソンのパイオニアのひとりだったんだね。だから、今度の国際女子マラソンにも、当然出場するために東京にやって来た。かなりの齢になっていたから優勝は無理にしても、2時間50分を切って、上位入賞はできるんじゃないか、と思っていたらしい。これからあとの話は、ぼくの知り合いがゴーマン美智子さんから直接聞いた話なんだ。彼女、スタートからとても体の調子がよかったらしい。いつもはレース前に眠れないとか、途中で腹痛をおこすとか、いろいろトラブルが起きるんだけど、そのレースにかぎっては、とても好調だったんだそうだ。ところが、走っているうちに不思議なことに気がついたらしい。そのレースはね、東京で行なわれたんだけど、ゴーマン美智子さんもかつて東京で生活したことがあるらしくて、走っているうちにいろいろなことが頭の中に甦えるんだって。

「ああ、思い出が……」

__そうなんだ。いま走っている駿河台下ではああいうことがあった、皇居の近くではこういうことがあった、なんてね。周りの風景が変わるたびに、記憶が甦って、なつかしくなるんだって。そうするうちに、どういうことになったかというと、気分的にとても充たされはじめてきちゃったらしいんだ。心が暖かくなってきて、人に抜かれても少しも口惜しいと思わなくなったらしい。いつもだったら、コンチクショウと思って抜き返すのに……。

「なんか、わかるような気がするね」

__結果、ゴーマン美智子さんは、完走はしたけれど、2時間50分も切れず、10位以内にも入れなかった。それはそれで仕方のないことと思ったらしいんだけど、翌朝の新聞を見て愕然としたんだそうだ。

「悪口が書かれてたの?」

__いや、そうじゃないんだ。新聞に1位になったスミスさんの談話が載っていたんだけど、そこでね、スミスさんは、沿道で観衆から盛んな声援があったようですがという記者の問いかけに、こう答えていたんだ。まったく気がつかなかった、どのくらい声援してくれていたのか、まったく覚えていない、私はゴールだけを目指していたから、って。それを読んで、ゴーマン美智子さんはショックを受けたと言うんだ。

「そうか、1位の人は少しも周りを見ていなかったんだ……」

__ところが、ゴーマン美智子さんは見えちゃったわけですよ、周りの風景が。眼に入ってきてしまった。そこに決定的な差があった、とゴーマン美智子さんは解釈したわけだ。やっぱり、風景が見えるようじゃ駄目なんだ、と。

「そうなんだよ! 周りが、周りの風景が見えてきちゃうと、人間はもう駄目なんだよ。トップを走ることができなくなっちゃうんだよ。そうなんだ。あたし、そのゴーマンさんという人の感じ、よくわかる。あたしも見えてきちゃったんだよ、手術してから、周りが見えはじめてきたんだ。さっき、わかりはじめたと言ったのは、そういうことなんだよ。1位の人みたいに、声援とかビルとか信号とか、何も気がつかなくて走ってるときが、あたしも一番よかったと思うよ、自分でも。ゴーマンさんも見えはじめてしまったんだね、きっと」

__うん。

「だから、負けちゃったんだ」

__いや、そうじゃない。

「えっ?」

__ぼくは違うと思うんだ。ゴーマンさんはどうかわからないけど、少なくともあなたの考え方は違うと思う。

「どうして?」

__確かに、何も見ないで走っているとき、その人は強いよ。何も見えないという状態は、走る人にとっては望ましいことかもしれない。 特に、走りはじめたばかりの人……つまり、その世界の新人には、あたりを見まわしている余裕なんかないから、風景も眼に留めずその世界を走り抜けることができる。だから、新人は、ある意味で強いわけだ。しかし、やがて、その新人にだって、風景が見えるときがやって来る。その契機がどういうものかはわからないけど、必ずやって来る。あなたの論理では、そのとき、その新人……もう新人ではないけど、そいつは駄目になってしまう、ということになる。もしそうだとしたら、誰でも新人の時代が終わったらだめになるということになってしまうじゃないですか。技術とか技能といったものが磨かれるということが、ありえなくなってしまうじゃない。

「人の場合は知らないよ。あたしは、あたしの場合はそうだったと言っているだけ」

__誰でも、初めの頃はひとつの方向に集中しているものだと思う。でも、5年、10年と続けていくうちに、どうしても拡散してくる。それはどうしようもないことだと思うんだ。しかしね、その拡散したあとで、もう一度、集中させるべきなんじゃないんだろうか。もしそこで集中できれば、新人の頃とは数段ちがう集中になるんじゃないんだろうか。

「そんな、仙人みたいなことできないよ」

__ハハハッ。仙人みたい、か。でも、みんな、10年も同じことを一心にやっていると、風景が見えてくるんだよ。ぼくの友人や知人たちも、みんなそこで頭をぶつけてるわけさ。しかし、もう一度、あのスミスさんみたいに、周囲の情景は何も気がつきませんでした、という集中を手に入れたいと思って、悪戦苦闘しているんだよ。やっぱり、それは、やり続けることでしか突破できないと思うんだけどな。

「理屈ではよくわかるよ。でもね、あたしの場合にかぎっていえば、よくないんだよ。手術したあとのあたしの歌は、どうしても気に入らないんだ」

__手術前の歌を聞くと、自分でもうまいと思う?

「思うよ、やっぱり」

__手術後のは、へた?

「……」

__へたじゃないでしょ?

「うまいへたというより、つまらないの。聞いていてもつまらないし、歌っていてもつまらないんだ」

__つまらないのか……。

「気持がよくないんだ」

__手術前は歌っていても気持がよかった?

「そのときは無意識だったからわからなかったけど、いま、考えてみれば、きっと気持よかったんだと思うよ。たとえばね、前にはよく声が出なくなった、と言ったでしょ。お母さんは身内だから心配するわけ。ショーなんか見にきていると、終ってから訊ねるの。すごく苦しそうだったけど大丈夫、って。そのとき、あたしは、何を言われてるのかよくわからないわけ。とても苦しそうに歌ってたよと言われて、どうしてそんなことを言うのって驚くんだ。ちっとも苦しくなんかなかったよ、とても気持よかったよ……そうだ、とても気持よかったよって、お母さんに言った覚えがある」

__苦しくないんだね。

「苦しそうだったと言われるんだけど、ぜんぜんそんなことはなかったんだ」

__なるほど。

「あたしはバラードが好きなの。バラード風に歌える歌が好きなんだ。歌うときにね、いちど喉に引っ掛かって出てくるような声を使って歌える歌が大好きなんだよ。気持がいいんだ。なんか、うっとりするような感じがするときがある」

__直接、肉体に感じるような、気持よさを感じるの?

「うん。日本の曲じゃないけど、フランク・シナトラやなんかがカヴァーしている〈サニー〉みたいな曲を、バラード風に歌うのは、ほんとに好きなんだ」

__〈サニー〉を歌うことがあるの?

「うん、友達なんかと騒いだりするときには、ね。でも、いまの、この声じゃあ駄目なんだよね」

__きっと、自分にしかわからない感覚なんだろうな、そこらあたりになると……。

 


解説
__ハハハッ。仙人みたい、か。でも、みんな、10年も同じことを一心にやっていると、風景が見えてくるんだよ。ぼくの友人や知人たちも、みんなそこで頭をぶつけてるわけさ。しかし、もう一度、あのスミスさんみたいに、周囲の情景は何も気がつきませんでした、という集中を手に入れたいと思って、悪戦苦闘しているんだよ。やっぱり、それは、やり続けることでしか突破できないと思うんだけどな。

沢木耕太郎さんの語るこの言葉は、その道に何年も精進して一定の域に達した者に訪れるスランプをいかに脱出するかのヒントになるような気がします。


獅子風蓮