獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

藤圭子へのインタビュー その16

2024-02-15 01:24:12 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
■五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


五杯目の火酒

   2


__手術する前のあなたって、どんなだったんだろう」

「どんな、って?」

__歌に対して、どんなふうに考えていたんだろう。考えていなかった、何も、ってさっきは言っていたけど。

「考えていなかったね、ほんとに」

__自分の歌については?

「何も」

__うまいとかへたとかは?

「考えもしなかった」

__人がどんなふうに感じ取ってくれているのかということについては?

「まったく」

__少しも?

「少しも。だから、よかったんだと思うんだ。無心で、ただ歌うだけだった。ところが、手術してから気になり出したんだよ。いろんなことが、ね。自分の声についても、人の反応についても、気になってきた。手術して、確かに声は変わった。でも、そのことによって、急に気になりはじめたっていうことの方が、あたしにとってはいけなかったのかもしれないんだ。歌手としては、わかりはじめたことが恐いんだよ」

__そうかな?

「そうだと思うよ。無心だからよかったんだよ。無心だったから、ああいう歌が歌えたんだよ。いろんなことがわかり出したら、もう駄目だったんだ」

__そうかな?

「そうだよ」

__ぼくはそうは思わないけど。わかりはじめたって、別に構わないじゃない。

「構うよ」

__いや、そうじゃないと思うな。……ついこのあいだ、国際女子マラソンというのがあったの、知ってる?

「うん。見なかったけど」

__ぼくもテレビでしか見なかったんだけど、そのあとで、とても面白い話を聞いたんだ。あの大会には、いろんな国の女性ランナーが出場して、結局スミスさんとかいう40歳を超えたママさんランナーが優勝したんだ。とてもすごいことだけどね。しかも、記録がぼくたちから見ると驚異的なんだ。男性の一流のマラソンランナーの中心的な記録というのが、2時間10分前後なのに対して、彼女たちの記録は2時間30分前後なんだ。その差、もう、20分しかない。日本の女性ランナーはもう少しレベルが落ちるんで、上位に入賞することはできなかったんだけど、ね。でも、話の本題はそこにはなくて……えーと、あなたは、ゴーマン美智子という名を聞いたこと がある?

「ないなあ」

__そうか。その人はね、日本人なんだけど、アメリカ人と結婚してアメリカに住んでいる人なんだ。どうして彼女が有名になったかというと、ボストンマラソンで完走して女子の中で一位になったんだ。つまり、女子マラソンのパイオニアのひとりだったんだね。だから、今度の国際女子マラソンにも、当然出場するために東京にやって来た。かなりの齢になっていたから優勝は無理にしても、2時間50分を切って、上位入賞はできるんじゃないか、と思っていたらしい。これからあとの話は、ぼくの知り合いがゴーマン美智子さんから直接聞いた話なんだ。彼女、スタートからとても体の調子がよかったらしい。いつもはレース前に眠れないとか、途中で腹痛をおこすとか、いろいろトラブルが起きるんだけど、そのレースにかぎっては、とても好調だったんだそうだ。ところが、走っているうちに不思議なことに気がついたらしい。そのレースはね、東京で行なわれたんだけど、ゴーマン美智子さんもかつて東京で生活したことがあるらしくて、走っているうちにいろいろなことが頭の中に甦えるんだって。

「ああ、思い出が……」

__そうなんだ。いま走っている駿河台下ではああいうことがあった、皇居の近くではこういうことがあった、なんてね。周りの風景が変わるたびに、記憶が甦って、なつかしくなるんだって。そうするうちに、どういうことになったかというと、気分的にとても充たされはじめてきちゃったらしいんだ。心が暖かくなってきて、人に抜かれても少しも口惜しいと思わなくなったらしい。いつもだったら、コンチクショウと思って抜き返すのに……。

「なんか、わかるような気がするね」

__結果、ゴーマン美智子さんは、完走はしたけれど、2時間50分も切れず、10位以内にも入れなかった。それはそれで仕方のないことと思ったらしいんだけど、翌朝の新聞を見て愕然としたんだそうだ。

「悪口が書かれてたの?」

__いや、そうじゃないんだ。新聞に1位になったスミスさんの談話が載っていたんだけど、そこでね、スミスさんは、沿道で観衆から盛んな声援があったようですがという記者の問いかけに、こう答えていたんだ。まったく気がつかなかった、どのくらい声援してくれていたのか、まったく覚えていない、私はゴールだけを目指していたから、って。それを読んで、ゴーマン美智子さんはショックを受けたと言うんだ。

「そうか、1位の人は少しも周りを見ていなかったんだ……」

__ところが、ゴーマン美智子さんは見えちゃったわけですよ、周りの風景が。眼に入ってきてしまった。そこに決定的な差があった、とゴーマン美智子さんは解釈したわけだ。やっぱり、風景が見えるようじゃ駄目なんだ、と。

「そうなんだよ! 周りが、周りの風景が見えてきちゃうと、人間はもう駄目なんだよ。トップを走ることができなくなっちゃうんだよ。そうなんだ。あたし、そのゴーマンさんという人の感じ、よくわかる。あたしも見えてきちゃったんだよ、手術してから、周りが見えはじめてきたんだ。さっき、わかりはじめたと言ったのは、そういうことなんだよ。1位の人みたいに、声援とかビルとか信号とか、何も気がつかなくて走ってるときが、あたしも一番よかったと思うよ、自分でも。ゴーマンさんも見えはじめてしまったんだね、きっと」

__うん。

「だから、負けちゃったんだ」

__いや、そうじゃない。

「えっ?」

__ぼくは違うと思うんだ。ゴーマンさんはどうかわからないけど、少なくともあなたの考え方は違うと思う。

「どうして?」

__確かに、何も見ないで走っているとき、その人は強いよ。何も見えないという状態は、走る人にとっては望ましいことかもしれない。 特に、走りはじめたばかりの人……つまり、その世界の新人には、あたりを見まわしている余裕なんかないから、風景も眼に留めずその世界を走り抜けることができる。だから、新人は、ある意味で強いわけだ。しかし、やがて、その新人にだって、風景が見えるときがやって来る。その契機がどういうものかはわからないけど、必ずやって来る。あなたの論理では、そのとき、その新人……もう新人ではないけど、そいつは駄目になってしまう、ということになる。もしそうだとしたら、誰でも新人の時代が終わったらだめになるということになってしまうじゃないですか。技術とか技能といったものが磨かれるということが、ありえなくなってしまうじゃない。

「人の場合は知らないよ。あたしは、あたしの場合はそうだったと言っているだけ」

__誰でも、初めの頃はひとつの方向に集中しているものだと思う。でも、5年、10年と続けていくうちに、どうしても拡散してくる。それはどうしようもないことだと思うんだ。しかしね、その拡散したあとで、もう一度、集中させるべきなんじゃないんだろうか。もしそこで集中できれば、新人の頃とは数段ちがう集中になるんじゃないんだろうか。

「そんな、仙人みたいなことできないよ」

__ハハハッ。仙人みたい、か。でも、みんな、10年も同じことを一心にやっていると、風景が見えてくるんだよ。ぼくの友人や知人たちも、みんなそこで頭をぶつけてるわけさ。しかし、もう一度、あのスミスさんみたいに、周囲の情景は何も気がつきませんでした、という集中を手に入れたいと思って、悪戦苦闘しているんだよ。やっぱり、それは、やり続けることでしか突破できないと思うんだけどな。

「理屈ではよくわかるよ。でもね、あたしの場合にかぎっていえば、よくないんだよ。手術したあとのあたしの歌は、どうしても気に入らないんだ」

__手術前の歌を聞くと、自分でもうまいと思う?

「思うよ、やっぱり」

__手術後のは、へた?

「……」

__へたじゃないでしょ?

「うまいへたというより、つまらないの。聞いていてもつまらないし、歌っていてもつまらないんだ」

__つまらないのか……。

「気持がよくないんだ」

__手術前は歌っていても気持がよかった?

「そのときは無意識だったからわからなかったけど、いま、考えてみれば、きっと気持よかったんだと思うよ。たとえばね、前にはよく声が出なくなった、と言ったでしょ。お母さんは身内だから心配するわけ。ショーなんか見にきていると、終ってから訊ねるの。すごく苦しそうだったけど大丈夫、って。そのとき、あたしは、何を言われてるのかよくわからないわけ。とても苦しそうに歌ってたよと言われて、どうしてそんなことを言うのって驚くんだ。ちっとも苦しくなんかなかったよ、とても気持よかったよ……そうだ、とても気持よかったよって、お母さんに言った覚えがある」

__苦しくないんだね。

「苦しそうだったと言われるんだけど、ぜんぜんそんなことはなかったんだ」

__なるほど。

「あたしはバラードが好きなの。バラード風に歌える歌が好きなんだ。歌うときにね、いちど喉に引っ掛かって出てくるような声を使って歌える歌が大好きなんだよ。気持がいいんだ。なんか、うっとりするような感じがするときがある」

__直接、肉体に感じるような、気持よさを感じるの?

「うん。日本の曲じゃないけど、フランク・シナトラやなんかがカヴァーしている〈サニー〉みたいな曲を、バラード風に歌うのは、ほんとに好きなんだ」

__〈サニー〉を歌うことがあるの?

「うん、友達なんかと騒いだりするときには、ね。でも、いまの、この声じゃあ駄目なんだよね」

__きっと、自分にしかわからない感覚なんだろうな、そこらあたりになると……。

 


解説
__ハハハッ。仙人みたい、か。でも、みんな、10年も同じことを一心にやっていると、風景が見えてくるんだよ。ぼくの友人や知人たちも、みんなそこで頭をぶつけてるわけさ。しかし、もう一度、あのスミスさんみたいに、周囲の情景は何も気がつきませんでした、という集中を手に入れたいと思って、悪戦苦闘しているんだよ。やっぱり、それは、やり続けることでしか突破できないと思うんだけどな。

沢木耕太郎さんの語るこの言葉は、その道に何年も精進して一定の域に達した者に訪れるスランプをいかに脱出するかのヒントになるような気がします。


獅子風蓮



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