獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その3

2024-02-19 01:57:57 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF3-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その3) 

アクティビスト、 ソーシャル・ライター 友岡雅弥
2018年3月11日 投稿

【碑文が刻む開拓】

浪江町や、飯舘村には、入植した先人たちの苦労を偲ぶ碑が残っています。

まず、浪江町津島の沢先地区にある開拓記念碑から見てみましょう。長いですが、「開拓の歴史」を概観できるものなので、そのまま引用します。

 

開拓記念碑文

昭和二十年戦は終わった。緊急開拓の発足と共に私達は此処天王山の一画沢先地内に入植する爾来三十年有余年夢の様に過ぎた。笹小屋に住み大石を転じ木の根っこと取組み昼夜の別無し一鍬一鍬と開墾を続ける。然し収穫は少なく幾度か挫折に迷ふ昭和二十七年土地の売渡しを受けて自分の土地となるされど苦難は続く。同志相励まし相扶け情熱を燃やしてひたすら開拓の道に進む。昭和二十四年待ちに待ったる電気が導入され各戸に電燈がともる。やがて荒地は耕され草地は拓け農用地六十余町歩に及ぶ、大型畜舎鶏舎が点在し乳を搾り仔牛は生れ鶏卵は大量に生産され、ここに永住の地を築く、嗚呼たれか入植当時今日を想像したであらう。この姿を見ることなく他界された同志各位の冥福を祈り不撓不屈の拓魂を子々孫々に伝うて豊かな郷土の発展を祈念し今改めて三十有余年の苦闘を祈念するため茲に開拓記念碑建立する。

昭和五十五年十月十一日
開拓記念碑建設委員撰
福島県会議員 笠原太吉


――この碑文からは、阿武隈の未耕地、耕作不適格地に送られた開拓民たちの苦闘の姿を思い描くことができるでしょう。

「笹小屋に住み大石を転じ木の根っこと取組み昼夜の別無し一鍬一鍬と開墾を続ける。然し収穫は少なく幾度か挫折に迷ふ」
「されど苦難は続く。同志相励まし相扶け情熱を燃やしてひたすら開拓の道に進む」
「ここに永住の地を築く、鳴呼たれか入植当時今日を想像したであらう」


飢餓と寒さに耐えながら、木を切り、石混じりの土地を耕し、“永住の地としての故郷”と“子々孫々の故郷”を懸命につくろうとした開拓民の姿が浮かび上がるのです。

さらに、具体的にどのような「人生」を、どのような「日々」を開拓民が生きていたのか。証言によって見てみたいと思います(浪江町津島「沢先地区」開拓50周年記念誌準備委員会『沢先開拓誌』)。

 

「苦労も懐かしい思い出に」 小林チヨ

私は昭和十六年に主人と結婚しまして旧満州国牡丹江市に軍人の妻として渡満いたしました。当時は不自由のない楽しい暮らしでしたが戦争もはげしくなり敗戦となり悲しい思い出になりました。引き揚げる途中に二人の子供を亡くして裸一貫になり、子供達の冥福を祈りつつ帰国いたしました。
昭和二十年九月、主人が復員して昭和二十一年に津島沢先に入植いたしました。四方が山ばかりで周りは木立で何も見えませんでした。きつねが出て来てびっくりしました。
夜になると電気もなくランプの光だけで淋しい毎日でした。
食糧難の時代でしたので、食べるのも大変でした。朝早くから夜遅くまで月の光で畑仕事もしました。
何でも初めての事でほんとうに苦労しました。想像もできない様なことばかりですが今になってみるとなつかしい思い出となりました

 

「話しきれぬ50年の苦労」 小林正

昭和二十年八月終戦となり、国の政策による緊急開拓事業に伴い、天王山国有林68林班に入林し食糧増産に励みましたが、昭和二十年は冷害にみまわれ作物は穫れず食うや食わずの生活となってしまいました。笹の小屋に住むこと何年か、考えることさえ嫌になっていた。冬がやって来ることを知っていながらどうすることも出来なかった。
とうとう冬がやって来たが保存食は少なく雪が降っても雪を掃く物さえなかった。
この苦しみは今となっては思い出となったが、その当時はただ茫然とするばかりでありました。
家族に食事を与えるため雪を掘って野菜を取るなど雪がこんなに降ることさえ知らなかった私共であった。
年が明けて春がやって来ると木の芽や山菜と食べるものがだんだん多くなって来るが、働かなければ食べてゆけず朝は朝星を仰ぎ、夜は月の光で一鍬一鍬開畑に力を入れ、食事は粥を啜りながら日中は伐採をして薪を作り木炭を焼いて資金をつくり、生活費や学資に充て、薪と塩とを交換するなどして生活をしていた。
あの時の苦労は話しても話しきれません。
家族が病気になっても薬もなければ電話もなく、薬草で何とか持ちこたえる毎日であった。
この苦労は私共だけで結構です。決して子供や孫には苦労をさせたくありません。
当地に入植した先輩の方々や同僚が幾多の苦労を凌ぎながら他界してゆく姿を見るとき、自分の身上を考えざるを得なく心細くなること幾たびか、このように生活が安定することさえ思っても見ることが出来ませんでした。
現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残したいと思います。

 


「この苦労は私共だけで結構」
「決して子供や孫には苦労をさせたくありません」
「現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残 したいと思います」
――この言葉に、開拓民の思いが集約されているような気がします。
子どもや孫にはさせたくない苦労を重ね自分たちの手で作り出し、子々孫々まで残したい“故郷”。
そんな“故郷”が原発事故により奪われた。その悔しさは、筆舌に尽くせないでしょう。

原発事故を考えるとき、忘れてはならないにも関わらず、忘れられがちの事実があります。
それは、今も、原発事故被害を生きていらっしゃるかたがたのことです。被爆の不安もですが、原発事故のために、故郷を失った、コミュニティを失った、当事者のかたがたのことです。
現在も、被害を継続して受け続ける「当事者」の存在とその今の有様、苦悩のリアルを見つめずして、「反原発」はありえないと思うのです。

 

もう一度、まなざしを過去に戻して、もう少し、どのような苦労の積み重ねで、開拓地が切り開かれていったかを見てみたいと思います。

 

【開拓保健婦の目】

小林正さんの「薬がなく(自然に生えている)薬草で間に合わせた」という証言からも分かるように、開拓村には病院もなく、医師もいませんでした。この現実に対応するため「開拓保健婦」が生まれました。「開拓保健婦」は、1947年(昭和22年)から1970年(同45年)まで存在した制度で、保健婦(当時の呼称)資格を持ち、 厚生省(現・厚労省)ではなく、農林省(現・農水省)の管轄で、開拓村に派遣されるのです。

開拓保健婦で、思いだすのは、岩手・田野畑村の岩見ヒサさんです。
岩手県の盛岡駅ビル・フェザンに、「さわや書店フェザン店」があります。地域に密着した品揃えと、本の内容を巧みに要約したポップで、ベストセラーを次々と生み出し、全国に影響を与える名物店です。
そこに、震災後、こんなポップが立ち、平積みになっていた本がありま す。

「岩手県に原発がない理由が本書を読むと分かります」
「岩手県民必読です」

(写真:平積みされた岩見ヒサさんの本『吾が住み処ここより外になし』)

岩見ヒサさんの『吾が住み処ここより外になし 田野畑村元開拓保健婦のあゆみ』です。

ヒサさんは、1956年(昭和31年)に、「開拓地保健技師として宮古農林事務所勤務、田野畑村駐在を命じる」の辞令を受けました。岩手県北部沿岸にある田野畑村に駐在(居住)し、近いところでも歩いて往復2時間、平均往復4~5時間のところに点在する開拓地の家庭訪問と保健指導を続けたのです(1970年まで)。
沿岸地域はそれほど雪が積もりません。が、少し山に入ると完全に道がどこか分からないほどの雪です。そこを歩いて行くのです。

岩手県では、1975年(昭和50年)、田老町(当時)摂待に電源開発株式会社が原発をつくる計画を立てましたが、漁民の反対で中止。そして、1982年(昭和57年)田野畑村が建設候補地とされました。
ここで、岩見ヒサさんや地元の漁民たちが中心となって、粘り強い反対運動を続け、 結局、計画は白紙となりました。
岩見さんが、反対運動の中核となりえたのは、田野畑の各所に散らばる開拓地を歩き回り続けた、その姿への信頼からでした。

話はさらに逸れますが、震災後、岩手県の保健行政について、多くのことを教えてくださったのが、岩手看護短期大学の鈴木るり子教授です。鈴木さんは、元大槌町の保健師さんで、震災後、住民基本台帳のデータさえも喪失した大槌町で、全国からボランティアに駆けつけた仲間の保健師さんたちと、避難所や借り上げ住宅など各地に散らばった住民の全戸家庭訪問をなしとげた、パワフルな女性です。

(写真:鈴木るり子教授と大槌町での保健師の活動を伝える著作)


(写真:鈴木るり子教授と大槌町での保健師の活動を伝える著作)


鈴木さんが、原点としているのは、1人の「開拓保健婦」さんとの出会いでした。
その開拓地は「先進的な農業が行われている」として中学校の教科書とかにも出ていたところです。にもかかわらず……

「その方(開拓保健婦さん)についていくと、サハリンから引き揚げて入植された方が、脳梗塞で寝たきりだったんです。吐く息が凍る寒さのなかで、土に直接ムシロを敷き、その上に『せんべい布団』一枚で。ガリガリにやせて。その先輩保健婦さんが言いました。『この人たちは、国に見捨てられた。外地でも、ここでも。だから私たちが最後の砦なの。私たちが守らなければ、だれも守らない』」
――鈴木さんは、こう当時の想い出を語ってくれました。

開拓保健婦として、浪江町の津島地区に駐在した渡辺カツヨさんの証言が『沢先開拓誌』に残っています。また、長くなりますが、開拓民の生活に寄り添った開拓保健婦さんの目を通して、開拓地の生活がよく分かりますので、引用します。

 

津島開拓保健婦として勤務したのは昭和二十六年からで、満十八年でしょうか。開拓地に足を一歩踏み入れた第一印象はただに百年も昔の時代に引き戻された様な気持ちがしたものでした。
また、残雪の畑にはポツンポツンと木の根があり、畑の隅に小さな笹小屋が建てられ丸太を並べた上に荒筵を敷き、炉には太い薪が燻って誰の顔も手足も煤けて、ドラム缶の風呂も便所も露天が多く、囲いのあるのは良い方でした。
配給米を五升や三升づつ背負って五、六キロの山道を一日がかりで往復する人達を見るたびにこの人達はいつになったら人並みの生活ができる様になれるのかと思った。 薬はなく、みすみす死なせた話は珍しくありませんでした。
夜中に起されて出てみると、汚れた破れ国民服を着け、ぼうぼうの男の人が立っている。
「子供が肺炎で死にそうです。お願いします」
という。初めて逢う顔である。
カバンを掛けて迎えに来た人と出かける。提灯の後について山道を黙々と行く。二時間も歩いた頃ようやく一軒の小屋に着いた。呼吸困難症状の患者を炉端で母ちゃんが抱えている。
「どうして寝かせないのか」と言っても、寝かせようともしない。
抱きとって寝かせてあげようと床に行ってみると木の葉を敷き詰めたその上にぼろ布を敷き布団がないのである。
温湿布をと思うと手ぬぐいもない。自分の手ぬぐいを使って温湿布をし、二日後快方にむかい一命をとり止めた。

戦後、十年近く経っていると思われるのに、「国民服」しか着るものがなく、木の葉とぼろ布が「布団」替わりです。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」ぶ生活が、ここには、まだまだつづいていたのです。

 


解説

「この苦労は私共だけで結構」
「決して子供や孫には苦労をさせたくありません」
「現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残 したいと思います」
――この言葉に、開拓民の思いが集約されているような気がします。
子どもや孫にはさせたくない苦労を重ね自分たちの手で作り出し、子々孫々まで残したい“故郷”。
そんな“故郷”が原発事故により奪われた。その悔しさは、筆舌に尽くせないでしょう。

本当に、悔しい思いをしたことでしょう。

 

獅子風蓮



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