友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。
貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。
カテゴリー: FUKUSHIMA FACT
FF2-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その2)
アクティビスト、 ソーシャル・ライター 友岡雅弥
2018年3月7日 投稿
【開拓、引揚げ、そして開拓】
「それで、唐鍬(とんぐあ)で土さぁ砕(くだ)ぐ。石ばかりよ。ほうやってやるほが(やるほか)どうしようもねんだもの」
「しほんこ(四本耕、しほんこう)で、おごす(起こし)てな」
「しほんこなんて、もっと後(あど)だ、後だ。何年も唐鍬ばかり、石ばかり」
――避難先の福島市松川の仮設住宅にお邪魔したとき耳にした、飯舘村のお母さんたちの会話です。皆さん、80歳を越えているでしょうか。
唐鍬は、厚みがあり、刃先が鋭い鍬。固まった土を砕き、また草の根切りを行います。四本耕は、刃先が細い四本になったもので、柔らかくなった土を掘り、畝を起こすために使う鍬です。
「石ばかりの土地を何年も耕す」とは、どういうことでしょう。
東京電力福島第一原発事故による放射性物質は、おりからの風にのって、原発の北西側、阿武隈山系の浪江町、飯舘村方向に流れていきました。(風と谷や山などの地形により、さらに細かく複雑な流れ方をしていますが)。
6年後、昨年、3月31日、飯舘村全域、浪江町の海側の避難指示が解除されました。 しかし、浪江町の山側(ほぼ常磐道から西側、一部、酒井地区など東側も)、飯舘村の長泥地区、葛尾村の前行地区が、帰還困難区域のままです。立ち入りは制限され、 入るときは防護服や防護マスクの着用と線量計が必要です。
飯舘・浪江・葛尾――これらの地域を歩き、いろいろな人たちに出会い、お話をうかがっているうちに、大きなことに気づきました。
この地域は、戦後開拓で移住してきた農家が多いということです。開拓にまつわるご苦労を、問わずがたりに語ってくださったご高齢のかたがたも多くいらっしゃいました。
前述の「唐鍬で石ばかりの土地を耕す」は、その時のお話です。
『福島県戦後開拓史』(福島県農地開拓課編、1973年)は、福島全県の戦後開拓についての詳細な資料ですが、これを見ると飯舘・浪江・葛尾の阿武隈山系の町村が、特に開拓入植者が多かったことが分かります。この本が出た当時、福島県全体としては、 農家数163425戸で、開拓農家は8155戸、5%ですが、特に多いのが――
浪江町 2422戸に対して478戸 19.6%
葛尾村 423戸に対して213戸 50.1%
飯舘村 1497戸に対して518戸 34.7%
――飯舘・浪江・葛尾は、特に開拓農家が多い地域なのです。
浪江町は、他の2つの村と比べると少ないようですが、同町は阿武隈山系から、太平洋沿岸にいたる広い区域で、沿岸部は古くから開け、人口も多いところで、ここにはあまり開拓は入りませんでした。だから、その分、比率が低くなっているのです。
逆に、まさに、今、帰還困難区域となっている山中の地域が、開拓地に選ばれたところです。
*他に、福島県中通り、栃木県に隣接する西郷村が、全戸数1425に対し、394戸で27.6%と多いのですが、これは、約4000ヘクタールの広大な「軍馬補給地」があり、 軍馬が不必要になって、開拓地に充てられたためです。
もちろん、浪江・葛尾・飯舘だけでなく、日本の戦後開拓は、筆舌に尽くしがたい困難をともなったものでした。
第二次大戦中、働き盛りの男性たちが兵役にとられ、田畑が荒れ、食糧生産が激減しました。そこに、戦後、満州や台湾、樺太などからの引き揚げ者、復員してきた軍人が帰国してきます。敗戦の時、660万人の日本人が「外地」にいたのです。
また、都市はことごとく空爆され、工場などの働く場所も仕事も無くなりました。
食糧不足と失職者(家も失っている)の激増。そこで「農業開拓」により、食料の増産と働く場所の提供の2つを同時に解決することが、考えられたのです。
1945年10月9日に、幣原喜重郎内閣が成立するやいなや、農林省開拓局が設置され、一ヶ月後の11月9日に「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定されます。
内容は――
「終戦後ノ食糧事情及復員二伴フ新農村建設ノ要請二即応シ大規模ナル開墾、干拓及土地改良事業ヲ実施シ以テ食糧ノ自給化ヲ図ルト共二離職セル工員・軍人其ノ他ノ者ノ帰農ヲ促進セントス」
――というものでした。
戦争や大災害というのは、直接的な被害だけではなく、しばしば、その後の社会に、長く続く禍根を残すものだと思います。
なぜなら、本来ならば、巨大な混乱に対する決定は時間をかけて十分検討されるべきです。しかし、混乱が巨大であればあるほど、決定は短時間で行わなければならない。
立ちすくんでしまう、目も眩むアポリアです。
東日本大震災で、壊滅的被害を受けたある自治体の首長にお会いしたとき、「今となっては、決断を急ぎすぎた点も多々ある。みんなが落ち着いてから、議論を始めたら違う結論が出た可能性がある事業がとても多くて、申し訳ない」と語っていました。
大混乱の中かもしれませんが、まず実際に起こった「過去の事例」を参考にすることによって、混乱での決定に際しての誤りを少しでも少なくする可能性を探ることが必要でしょう。「未曽有」「未曽有」と繰り返すのは、せっかくの参照項を視野から排除し、思考停止に陥る危険性があります。もちろん、大混乱の中ですから、なかなかそこまで考えが回らない。だから、日ごろから考えておくことが必要なのでしょう。
また、決定した施策や事業が、最前線でどのようなものとなっているかを、丁寧に現場に行って検証し、そぐわないものであれば、是正し、軌道修正していく柔軟な態度も必要になります。
しかし、日本社会は、それがしばしば欠けることがあるような気がしてなりません。
事実、開拓は、戦前・戦中もありました。遡れば、明治維新で「武士」の身分(それはとにもなおさず、職と禄)を失った士族約200万人の“就労対策”として「士族開墾」が大々的に行われました。ところが、有名な斗南開拓(「賊軍」としての会津藩士への「懲罰」と言われる過酷さ)にみられるように、多くは悲劇的結末に終わっています。また、囚人たちを強制労働させた北海道開拓の悲劇もありました。
戦中は、さまざまな理由で兵役に就いていない(すでに兵役を終えた人も)人々を対象に、北海道開拓の「拓北農兵隊」が募集されました。25回、14000人が北海道各地に入植しています(『北海道戦後開拓史』北海道庁)。
「住宅の用意あり、土地の無償貸与・付与、農具・種子の無償給与、無償の主食配給」と、喧伝されました。
北の朝空 希望に明けて
ゆくよわれらの 開拓戦士
拓く沃土に 新生の
君に幸あれ 栄あれ
「拓北農兵隊を送る歌」の大合唱と、「今日から諸君は聖戦完遂、本土決戦に不可欠な食糧戦士として直接戦列に加わる」との警視総監などの“お歴々”からの激励で送られて上野駅を出発。
しかし、人々を待っていたのは、「突然奈良県集団帰農者来村の報が村役場に到り、当事者をあわてさせた」(『置戸町史』置戸町)などという、受け入れ地域の実情でした。
何の連絡も受けていなかったのです。当然、喧伝されていた土地も、家も、農具も種子もなかったのです。
それで、開拓民は、いたしかたなく誰も今まで手を付けていないような泥炭の土地を借り入れたりして、なんとか営農に挑戦しましたが、9割が失望、絶望の中で、開拓を諦めたのです。
何度も失敗した開拓の歴史、「拓北農兵隊」に至っては、「戦後開拓」ほんの数年、数ヶ月前です。十分、参照できたのではないでしょうか?
しかし、「緊急開拓事業実施要領」から始まる戦後開拓は、過去の検証なく進められた故に、同じ轍を踏むことになりました。
「外に失った領土を内に平和利用でとり戻せ」
――との、戦時と同じく勇ましいスローガンのもと向かった開拓地。しかし、そこには十分な受け入れの準備などなされていませんでした。
「明治以来の国内開拓はその大半が政策からはみだして十分政府が保障し得ない人びとを便宜的に帰農せしめ、政策の破綻を救おうとしたところに問題があった。だから世がややおちついてくると、これらの人びとのことは忘れられていったのである」(『日本民衆史1 開拓の歴史』)との宮本常一の言葉通りの、自己責任に帰せられぬ「悲劇」がそこにあったのです。
【解説】
まさに、今、帰還困難区域となっている山中の地域が、開拓地に選ばれたところです。
(中略)
もちろん、浪江・葛尾・飯舘だけでなく、日本の戦後開拓は、筆舌に尽くしがたい困難をともなったものでした。
戦後の開拓農民が苦労して開墾した土地が、東電の放射能汚染により帰宅困難区域になったのです。
なんとも、いたましい現実です。
獅子風蓮