石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第7章 政界
(つづきです)
この発言に色めき立ったのは社会党ばかりではなかった。今度こそ吉田の首が取れる、とばかり民同派も小躍りをした。
まず、野党は吉田の「懲罰動議」を提出した。その後、内閣不信任案が出されて、国会は騒然としてきた。野党対自由党、さらに自由党内での主流派対反主流派の水面下での人の動きが慌ただしくなってきた。
三木や大野は、吉田が解散ではなく総辞職するという見込みで事を進めていた。だが、吉田は内閣不信任案成立に対して「解散」に出た。
世に言う「バカヤロー解散」である。主流派に対して鳩山派は脱党し、「分党自由党」として選挙を戦った。湛山は再びその大黒柱として活躍、資金集めはもちろん政策から遊説までやった。
選挙結果は自由党にとって散々であった。改選前に284あった議席が、鳩山派の脱退もあって199にまで激減した。過半数を35議席も割ってしまい、改進党は76、右派社会党が倍増の66、左派社会党に至っては16から72と4倍以上も増えた。
吉田の勢力も影響力も目に見えて落ちてきていた。それでも吉田は、改進党の閣外協力の約束を取り付けて、辛うじて首班指名を得ることが出来た。こうして第五次吉田内閣が船出した。
「政界というところは、昨日の友が今日の敵となり、今日の敵が明日は友になる。複雑怪奇なところだねえ」
副総理の緒方竹虎の強い要請で、鳩山派は再び自由党に復縁した。あれほどの内紛を演じたが、主流派は鳩山派の協力が欲しかったし、鳩山派は35人ではどうにもならない力不足を感じていたための妥協であった。
「石橋先生は復党に反対だったが、俺はこれでよかった、と思っている。鳩山政権への道が開けたし、その後の石橋政権も見えてくるというものだ」
石田は民同派の仲間にそう洩らした。
「しかし、本当は石橋先生の意中は、その先にあるんだ」
「その先、とは?」
「政局が安定しなければ経済発展が進まない。困るのは国民だ。だから、自由、改進、日本自由党の三党による保守合同こそ、最終目的なんだ」
石田は、ひと呼吸入れた。
「保守合同が吉田政治の継続であってはいけない。保守合同で新党を作り、その党首に鳩山先生を据える。これが石橋構想なんだ」
この構想には、自由党の副総理であった緒方竹虎も一枚加わることになる。緒方は、戦時中に朝日新聞の副社長だった。今は、吉田の後継として自他ともに許す存在になっている。
三木は改進党の幹事長であった松村謙三に会って、新党構想を申し入れた。日頃から「俺が政界で一目置く人物は、石橋と松村だけだ」と豪語している片方の松村である。三木の申し入れに松村は協力することになった。この改進党もまた、総裁の重光葵と松村が反りの合わない関係にあった。三木はもう一人、新党に誘いの手を伸ばしていた。
「岸信介だよ。彼は今度の選挙で初当選して自由党に入党したが、大物だよ。吉田の片腕の佐藤栄作の兄貴ではあるし」
「同じ官僚上がりでも、吉田とはまた違ったふてぶしさを持っている気がする」
「戦犯だったし、巣鴨の飯も食っている。岸君は、それなりに自由党内で派閥を持っているから、彼を新党構想に引き入れたいんだよ」
(つづく)
【解説】
戦後の保守分裂、保守合同につづいていく、生々しい舞台裏です。
獅子風蓮