というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
■五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
五杯目の火酒
3
「あたし、声が変わるまで、歌に対して、情熱っていうのかな、熱意みたいのは、とてもあったと思う。強く持ってたと思うんだ。やっぱり歌が好きだったんだと思う。新しい曲をもらうでしょ。そうすると、そのたびにここはこう歌って、ここはこう引っ張りあげて、なんて真剣に考えたものだったんだ。〈夢は夜ひらく〉のときだって、そうだった」
__どう考えたの?
「あの歌も、最初はまったく普通のアレンジだったの。でも、どうしても、違うように思えたんだ、あたしには。フル・バンドで最初から伴奏がつくような歌じゃないように思えたの。伴奏はもうテープにとってあって、そのカラオケ・テープに合わせて歌うんだけど、どうしても納得できないわけ。そこにね、ギターさんがいたんで、ギターで、ギター一本で伴奏をつけてもらった。あたしは、この歌を、どうしてもバラードで歌いたかったんだよ。スタッフの人にね、ワン・コーラスだけバラードで歌いたいからって、アレンジを変更してもらったの。ギターさんが、あたしに、勝手に歌ってかまわない、自分はあとからついていくからって言ってくれたんで、最初にコードだけもらって、歌いはじめたんだよ」
__そうか……それがあの〈圭子の夢は夜ひらく〉の、あのアレンジになったわけなんだね。園まりの歌のアレンジより、あの方がはるかにいいものね。少なくとも、あなたには合っている。そうか、あの、語りのような出だしは、あなたが望んだことだったのか……。
「そうなんだ」
__とてもいい。
「二番から、普通の伴奏が入ってくるけど、ね」
__それはそれで、またよかった。
「この曲はね、どうにでも歌える歌なんだよ。あたしは、かったるい、もたれるような感じで歌いたかったの。
夜咲くネオンは 嘘の花
夜飛ぶ蝶々も 嘘の花
嘘を肴に 酒をくみゃ
夢は夜ひらく
なんてね。フフフッ、あの頃の沢ノ井さんの歌詞には、蝶々とネオンが何回出てきただろう」
__そう言えば、蝶々とネオンばかりだね。
「あたしは、五番が好きだな」
__よそ見してたら……泣きを見た?
「見たよ。見てるよ」
__見てるのか……。昔は、そんなふうに、いろいろ工夫したり、努力したりする情熱があったんだね。
「そう。でも、いまなんか……。このあいだ営業で富山に行ったんだよ。旅館なの、そこは。そこの御主人が、旅館の十周年の記念に、どうしても藤圭子を呼びたいと思ったらしいの。プロダクションの人は、藤圭子は高いからいくらお客を集めてもきっと損するからおやめなさい、って説得したらしいんだ。でも、どうしても藤圭子ショーを自分のとこでやりたい、と頑張ったんだって。どんなに損してもいいから、って。それではというんで富山に行くことになったの。行ったら、大広間にお客がギッシリつまっているの。歌うすぐ眼の前にお年寄りがチョコンと坐ってたりして。それはそれですごく嬉しいんだよね。でもね、そこで気持よく歌えるのは、〈無法松の一生〉とか〈沓掛時次郎〉とか、昔、流しのときに覚えた曲なんだよ」
__なぜ?
「お年寄りが喜んでくれるということもあるけど、いまのこの声では、そういう歌しか歌えないんだよ」
__だから、なぜ?
「その方が楽なんだよ」
__楽? なぜ?
「……」
__もう少し説明してくれないかな。
「うちにね、ビデオテープで、結構、いろんなものをとってあるんだよね」
__自分で見返すことなんか、あるの?
「時々、ね。でも、いろんなものが、ゴタゴタになっているから、ビデオ見ただけじゃ、いつの頃なのか、ちっともわからないんだ」
__顔だけじゃ、わからない?
「うん、自分でもわからない場合が、ずいぶんあるんだ。でも、画像が流れて歌い出すと、ひと声でわかるんだよ。あっ、これは手術したあとだ、って」
__ほんとに? そんなにはっきりと?
「ひと声、ひとつの音を聞いただけで、わかる。ほんとに違うんだ。ほら、聞いて、聞いて、これ、手術後のだよ、って言うと、お母さんが言うんだ。そりゃ、そうだよ、ビデオを買ったのは、このマンションに越してきてからだったから、4年しかたってない。手術前のがあるわけないよ、って」
__手術は……。
「5年前。手術前のビデオがあれば、あたしも見たいんだ。違うんだ、ほんとに」
__そんなに違う?
「このあいだの引退の記者会見のときなんだけど、それをテレビがニュースで流しているときに、昔のあたしが歌っている、古いビデオも一緒に流したの。なつかしい、って叫んで、慌ててビデオを録ろうとしたんだけど、間に合わなかった」
__残念だったね、それは。ぼくもそれを見てみたかったな。
「見たら、あたしの悩みがわかってくれると思うよ。だから、この5年間、苦労してきたんだもん。みんなが持っているあたしのイメージと、歌のイメージと、それともうすっかり変ってしまったあたしの声を、どうやって一致させるかってことを……。可哀そうなあたし、なんてね」
__いまのあなたの声だって魅力的だけどな。
「でもね、みんなは前の声で歌った歌を知っているわけ。それをこの声で歌わなければならないところに、無理があったわけ。みんなの持っているイメージから、そう離れるわけにいかないでしょ? まったく違う、新しい曲を歌うのなら、まだいいんだ。でも、どんな場合でも、何曲か歌う場合には、初期の頃の曲を歌わないわけにはいかないんだよね。それがつらかった。そういう歌を、この、喉に引っ掛からない声で歌うのが、ね」
__少し、わかってきたような気がする。あなたが引退しなければならなかった理由が、少し……。
「この5年、歌うのがつらかった」
__いつでも?どんなときでも?
「うん……」
__あなたなりに、悪戦苦闘をしていたわけだ。
「どうやったらいいのか、どう歌ったらいいのか、いろいろやってみたけど、駄目だった。あたしが満足いくようには歌えなかった。最初から無理なんだよね、声が違っちゃっているんだから。テレビなんか見ていると、時々、口惜しくなるんだよね。どうして、この人たちは歌をおろそかに歌っているんだろう……」
__本来的にへたなんだから、そういうのはどうでもいいよ。
「どうして悩まないんだろう。そう思うと、あたしが悩んでいることが、馬鹿ばかしく見えてくるんだ。なんて無駄なことをしているんだろう、って」
__無駄なんてことはない。
「そうだね、そうかもしれないね。でも、結局はやめるんだから、無駄だったのかな」
__そんなことはないさ。
「そうかな」
__もし、もしも、だよ。あなたの声が……手術前に戻ったら、戻ったとしたら……芸能界に復帰する?
「それはありえないんだよ。戻りっこないんだよ。一度、こんなことがあったなあ。日劇でショーをやって、すぐまた営業をやったら、昔のようなかすれ声になったんだ。でもね、それはただ単に荒れたというだけのことだった。すぐ元に戻っちゃった。かすれ声になったといっても、高音の引っ張りなんかが、ぜんぜん違うんだよね。ああ、元に戻るということは絶対にないんだな、とそのときそう思ったんだ」
__声は、戻らない。
「うん」
__だから、あなたも、戻らない。
「うん」
__残念だな。
「……」
__藤圭子の歌が聞けなくなるのは残念だと思うよ。
「うん……」
__たとえ、どんなボロボロになっても、歌いつづけようとは思わないの?
「うん……」
__どんなことでも、やりつづけることに意味がある。あるはずだと思う……。
「わかるよ」
__じゃあ、どうして歌をやめる?
「……」
__歌いつづけるうちに、新しく開けてくるものがあるかもしれないじゃない。
「いやなんだ、余韻で歌っているというのが……」
__余韻?
「一生懸命歌ってきたから、あたしのいいものは、出しつくしたと思うんだ。藤圭子は自分を出しつくしたんだよ。それでも歌うことはできるけど、燃えカスの、余韻で生きていくことになっちゃう。そんなのはいやだよ」
__燃えカスなんかじゃないさ。
「いや、いいんだ。あたしはもういいの。出せるものは出しきった。屑を出しながら続けることはないよ。やることはやった。だから、やめてもいいんだよ」
__でも……。
「藤圭子っていう歌手のね、余韻で歌っていくことはできるよ。でも、あたしは余韻で生きていくのはいやなんだ」
__……。
「お金だけのことなら、どんなふうになったって続けることはできると思う。でも、それは仕事でもないし、ましてや歌じゃない」
__……。
「一度どこかの頂上に登っちゃった人が、そのあとどうするか、どうしたらいいか……。 あの〈敗れざる者たち〉っていう沢木さんの本の中に出てきたよね」
__読んだの?
「うん。会う前に読んでおこうと思って……あの中に出てきた人たちの気持、あたしにもよくわかった。ほんとに痛いようにわかった。でもね、沢木さんには、あの人たちの気持が本当にはわかっていないんだ」
__ぼくが、わかっていない?
「いま、あたしにどうして歌を続けないのかって、責めたよね」
__責めなんかしないけど。
「そっちが責めなくとも、こっちが責められたもん」
__ハハハッ。まあ、いいや、責めたとしよう。それだからどうだって言うの?
「あたしは、やっぱり、あたしの頂に一度は登ってしまったんだと思うんだよね。ほんの短い期間に駆け登ってしまったように思えるんだ。一度、頂上に登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。1年で登った人も、10年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえないんだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。ゆっくり降りるなんていうことはできないの。もう、すごい勢いで転げ落ちるか、低くてもいいからよその頂に跳び移るか。うまく、その傍に、もうひとつの頂があればいいけど、それが見つけられなければ、転げ落ちるのを待つだけなんだ。もしかして、それが見つかっても、跳び移るのに失敗すれば、同じこと。〈敗れざる者たち〉に出てくる人たちは、みんな、跳び移れないで、だから悲しい目にあっているわけじゃない?」
__そうだね。
「みんな、跳び移れれば、跳び移りたかったと思うんだ、きっと。でも、できなかった。だから、ボロボロになる人もいた。でもね、それは、あの人たちが望んでそうなったことじゃなかったと思うんだ」
__そうだね、あなたの言うとおりだね。
「沢木さんは、さっき、あたしに、ボロボロになるまで続けるべきだって言ったでしょ。それはひどいよ、厳しすぎるよ」
__ぼくはね、あそこで、〈敗れざる者たち〉って本で言いたかったのは、しょうがないよなあ、ってことだったんだ。ほんとにしようがないよなあ、って。あんなにボロボロになるまでやらなくてもいいのに……でも、しょうがないよなあ……それが、あなたたちの宿命なら……しょうがないよなあ、ってことを書きたかっただけなんだ。ぼくはね、あなたに、やっぱり、歌いつづけるより仕方ないような、まあ、そういう言い方をすれば、宿命みたいのを感じてたんだ。だから……。
「でもさ、たとえ、そういう運命だったとしても、それを自分で変えちゃいけないことはないんでしょ?」
__そうだよね。
「そういうとこから、必死に跳び移ろうとしている人がいたら、沢木さんは、やめろと言う?」
__言わない。
「逆に、褒めてくれたっていいはずだよ。それを責めたりして……」
__違うよ。ほんとは感動してるのさ。あなたの潔さに感動してるんだよ。でも、ぼくはあなたの歌が好きだから、まだ歌っていてほしいんだろうな、きっと。だから、難癖をつけている。
「難癖だなんて、ちっとも思わないけど」
__あなたは、勇敢にも、どこかに跳び移ろうとしているわけだ。
「うん」
__どこへ跳ぶの?
「女にとって、いちばん跳び移りやすい頂っていうのは、結婚なんだよね。それが最も成功率の高い跳び移りみたい。でも、あたしにはそれができそうにもないし……」
__どうして?
「好きになる人は、もう、あたしくらいの齢になると、みんな、なにかしら障害を持っているもんだから、なかなか結婚はできそうにないんだ」
__じゃあ、どこに跳び移るの、結婚じゃないとしたら。
「笑わないでくれる?」
__もちろん。
「勉強しようと思うんだ、あたし」
__そいつは素敵だ。
「笑わない?」
__笑うはずないじゃない。そうか、勉強をしようと思っていたのか……。
「28にもなって、遅いかもしれないけれど、やってみようと思うんだ」
__遅くなんかないさ。ちっとも遅くなんかないよ。
「うん、そうだよね」
【解説】
「あたし、声が変わるまで、歌に対して、情熱っていうのかな、熱意みたいのは、とてもあったと思う。強く持ってたと思うんだ。やっぱり歌が好きだったんだと思う。新しい曲をもらうでしょ。そうすると、そのたびにここはこう歌って、ここはこう引っ張りあげて、なんて真剣に考えたものだったんだ。〈夢は夜ひらく〉のときだって、そうだった」
そうなんですね。
〈夢は夜ひらく〉のアレンジは、藤圭子本人が考えたんですね。
〈夢は夜ひらく〉をまたじっくりと聞いてみたくなりました。
獅子風蓮