伸城さんはご自分の著書の中の謝辞で、次のように友岡さんに対して謝辞を述べていました。
ぼくに生きかたの基礎を教え、書き手として、また仏教思想のよき語り仲間として、かつても、現在も心のなかで伴走しつづけてくれているアクティビストの先輩(故人)。
友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。
貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。
(写真については省略します)
カテゴリー: FUKUSHIMA FACT
FF1-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その1)
アクティビスト、 ソーシャル・ライター 友岡雅弥
2018年3月4日 投稿
【大震災以来】
東日本大震災以来、被害を受けた東北各地を訪れさせていただいています。
南は福島県いわき市から、北は岩手県の野田村・久慈市・洋野町まで。漁協、水産加工業、造船、木材加工場、椿油の製油所、農家、町の病院、高齢者施設、在宅緩和ケア、保育園、箸づくりの町工場、豆腐屋さんなどなど、いろんな職業、職種、生活の 「現場」「仕事場」でした。
津波のあと片づけ(かたし)のお手伝いをしたり、保育園の引っ越しの手伝いをしたり、知り合いのプロのマジシャンと幼稚園を訪れたり、再開したワカメ漁の収穫のお手伝いをしたり、ご家族を全員津波で亡くされた方のお宅で、ただただお話をお聴きするだけしか出来なかったり、クラウド・ファウンディングの手続きのアドバイスなどなど……。時には、ボランティアを装った不正行為を究明・告発するための相談を受けたこともありました。
この七年間、人々の息づかいに触れ、また生(なま)の感情が交差する生活、生業の場に足を運ぶことで、人生が一変する貴重な経験を積ませていただいたと思っています。
知人も多くでき、昨年、体の調子を少し壊したときに、わざわざ福島の浜通りから、見舞いに来てくださったかたもいらっしゃいました。知り合い、友人、そして仲間がたくさんできるということの大切さを、震災以降の経験が僕に教えてくれました。
「3・11」は、一昨年まで毎年石巻で迎えましたが、昨年は、飯舘村で迎えました。
“釜ヶ崎の元日雇い労働者のおっちゃんたち”が始めた当事者活動「紙芝居劇むすび」(紙芝居劇は、朗読劇付きの紙芝居です)。10年ほど前から仲間となり、しばしばともに活動させていただいています。このむすびのメンバーとともに、この数年、飯舘村のかたがたの前で「紙芝居劇」を披露させていただいています。
震災から6年目の去年の3月11日、まだ新築で木の香りが漂う飯舘村草野にある「交流センターふれ愛館」での公演にむすびが招待されたのです。これが、飯舘村の方々の前での4回目の紙芝居劇の披露でした。
最後にステージの私たちと、会場が一体になって、自然と「ふるさと」の合唱になりました。
【いつも立つ場所】
さて、福島県浜通りに行った時、必ず寄る場所があります。浪江町の棚塩集会場と、飯舘村の飯樋小学校です。
福島県では、もう一つ原発をつくる計画がありました。南相馬の小高と浪江の棚塩にまたがる地域です。しかし、棚塩の農家が粘り強く反対運動を行いました。硬軟とりまぜての切り崩しにもめげず、反対運動は持続し、原発の建設は阻止されました。
その反対運動の拠点が、棚塩集会場だったのです。当時は木造。クリーム色が美しいコンクリートづくりに立て替えられました。
しかし、2011年3月11日、 集会場は津波に襲われ、壊滅的被害を受けました。周囲の民家も流されました。集会場だけがぽつんと残っています。
(写真:棚塩集会場)
建物の枠組みは残っていますが、一階の壁、一、二階の窓を破って侵入した津波は、建物内部を破壊しつくしてしまいました。
(写真:棚塩集会場の内部)
皮肉にも、周囲は棚塩の農家さんたちが長年耕してきた広く平らな田畑であったため、今、除染廃棄物を容れたフレコンバッグの置き場となり、集会場の津波で壊れた窓からは、巨大減容化施設(将来予定されている中間貯蔵施設に運ぶため、廃棄物を焼却し、体積を減少させる)が見えます。
(写真:棚塩集会場の窓からみえる減容化施設)
原発建設を阻止し、美田を広げた棚塩に、原発事故の廃棄物が積みあがる。その矛盾の深さ。
その現実を突きつけた社会を、ささいな努力かもしれないが、「私」が少しでも変えねばならないと、集会場跡に立つたびに思います。
そして、飯舘村の飯樋小学校。
(写真:飯樋小学校)
この小学校は、後に触れる飯舘村のユニークな「村づくり」を象徴するものです。
2004年(平成16年)4月に、古い校舎を立て替え、今の形になりました。地元の木材を使って立てられた校舎は、本当に温かみがあります。
特徴はとてもたくさんあります。
まず、「職員室」がありません。
基本的に教師は、休み時間も、お昼ご飯の時間も、教室にいます。教師は「職員室の一員」ではなく「クラスの一員」なのです。また、いわゆる“職員会議”は、できるだけ少なくして、どうしても行わなければならないときは、「ミーティングルーム」で行うのです。
いわゆる“教務”もできるだけ少なくして、あくまで子どもたちと一緒であることを大切にしていました。
一般的な学校では「教室」という「ハコ」の大きさはほとんど変わりません。しかし、飯樋小学校は、低学年・中学年・高学年で、教室の大きさも違うのです。(もちろん、低学年だから小さくていい、という考えではありません。体の大きさに配慮して、教室の大きさまでも変えたのです)。さらに、机やイスは木製で、一人一人の体格により、細かい調整が可能です。
さて、低学年のエリアには、わくわくの仕掛けがあります。この学校には、「デン」と呼ばれる隠れ家スペースがいくつもありますが、この低学年エリアの真ん中には、もとからあったヒマラヤ杉がそのまま置かれ、枝伝いに木登りをして、デンのなかに隠れることが出来るのです。木登りと隠れ家。最高です!
図書室には、イチョウの原木を利用した掘りごたつがあります。「クワイエット・ルーム」という、一人になりたい時に利用できる場所もあります。
それから、広く“学校”というものには、大事な役割があります。それは地域共同体の共通の想い出の場、財産であるということです。親となり、おじいちゃん、おばあちゃんとなっても、お弁当を持って、運動会にいったり、「学校」の桜の開花を地域の人たちが楽しみにしていたり。特に、小学校は校区が狭いので、地域住民のアイデンティティそのものともなります。
今、大阪市では、橋下市長のころから、小学校がどんどん統廃合され、例えば、釜ヶ崎及び周辺エリアでは、3つの小学校が全部無くなりまし た。
うち、2つの廃校式に参加しましたが、多くのかたが、地域の財産としての小学校がなくなることに、大きな悲しみを吐露されていました。「学校」は、地域コミュニティ共通の想い出が刻まれた、経済的物差しでは計りきれない価値があることを、改めて実感しました。
さて、飯樋小学校なんですが、村人にとって懐かしい旧校舎のうち、北側校舎はそのまま残し地域住民のコミュニティスペースにしたのです。しかも、新しい校舎と自由に行き来が可能で、小学生と近隣住民の交流が図られていました。
でも、村人の思いと、その思いを実現するためのアイデアがぎっしりつまった飯樋小学校には、今、子どもたちの声はしません。
福島第一原発の事故以来、飯舘村は全村避難が続き、昨年4月1日に、避難指示が解除されたのですが、帰村する人はまだまだ、住民登録6,509人中、505人です。(2017年12月1日、福島県避難地域復興局発表)。飯舘村の草野、飯樋、臼石の3小学校は、隣の川俣町の合同仮設校舎で、授業をしています。まだ、飯舘村民の多くは、福島市や二本松市の仮設住宅に住んでいますので、そこからは、毎日、毎日、バスで、川俣まで通うわけです。
棚塩集会場、飯樋小学校。ともに、そこに立つと、住民のかたがたの無念さが感じられてなりません。浪江町も、飯舘村も、原発からの補助金や地域交付金などをまったく受けずに、町づくり、村づくりをしてきたのです。そして、その「被害」のみを受けたのです。
この無念さを、少しでも知ることが、このような悲劇を繰り返さないための第一歩だと思い、通い続けています。
【解説】
今年の正月には、能登半島で壊滅的な地震と津波の被害がありました。
幹線道路もやっと開通し、各地のボランティア募集が始まったようです。
もし友岡さんが生きていたら、どんなボランティア活動を行っただろうと思います。
また、もし友岡さんが創価学会の組織で活躍する場を与えられていたら、創価学会は組織としてどんなボランティア活動を能登半島の被災者に提供できただろうと考えます。
私自身はボランティア活動の経験がなく、何も偉そうなことは言えないのですが、創価学会は、ボランティアにこのような情熱をもった人物・友岡さんを組織から追いやり、結果的に死に至らしめたわけです。
実に惜しいことをしたとは思わないでしょうか。
池田大作氏の亡きあと、しっかりしたボランティア活動を組織できるということが創価学会の生きる道だったかもしれない、と思ったりします。
獅子風蓮