石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第7章 政界
(つづきです)
「完全雇用制を実現するための産業復興計画を早急に立案せよ」
湛山は、経済復興を声高く語り、議会制度の改革、治安立法の改廃、戦争責任者の追及などを主張した。
一方で、連合軍に対しても戦争責任は日本ばかりでなく、軍国主義の原因は領土拡張主義にあるとして、その植民地主義を早く解消すべきだ、と恐れることなく説いた。
「石田君、やはり自分の理想を実現するには政界に打って出るしかないよ。こうした経済再建策をいくら提案しても、在野の人間じゃあ駄目らしい。王堂先生のプラグマティズムに従えば、政治による経済の実践だよ」
遠くで声が聞こえる。「父さん、何事も運命ですよ」。和彦の声であった。
石田君とは、戦局が激しさを増してきた昭和18年に初めて会って以来、湛山を慕うようになっていた石田博英のことである。
石田博英は大正3年(1914)、秋田県生まれ。湛山よりも30歳年少である。ちょうど長男の湛一と同じ年であったが、湛山には戦死した和彦が博英の姿を借りて、その後の湛山の人生を手助けしてくれるように感じるほどの親しさで、湛山を慕った。
早大政経学部を卒業し、「中外商業新報」(現在の日本経済新聞)に入社。政治部次長を経て昭和22年(1947)の新憲法下初の総選挙で秋田一区から出馬、当選する。後に、通算6回も労働大臣を務め「石田労政」時代を作って58年(1983)引退。湛山の「小日本主義」実現に努力した。日ソ友好連盟会長、「若い根っこの会」を結成するなど勤労青年活動にも力を注いだ。「先生、初めてお会いした時にご馳走になったすき焼きの味は今も忘れられません。あのアート紙の件がなかったら、こうして先生と親しくしていただけなかったでしょうねえ」
石田が言う「アート紙」の一件とは、軍部が軍神・加藤隼戦闘隊長の写真集を作るにあたって、東洋経済新報社にたくさんあったアート紙を取り上げて、大手出版社から出そうとした出来事であった。
軍部の新報への嫌がらせの面もあった。当時、「中外商業新報」の陸軍省担当記者だった石田が、新報の倉沢営業局長から「紙を提供するので写真集は東洋経済新報社から出せるように工作してほしい」と依頼されて、その仲介に立ったのが縁になった。
以前から湛山の言論に興味を抱いていた石田は、その時初対面の湛山の毅然たる態度、言説にすっかり心酔してしまった。
「石田君、それがね、東京に戻ってきたら、鳩山さんが日本自由党へ是非、と誘ってくれたんだよ。ところがその翌日には日本社会党の松岡駒吉さんが、我が党へと言ってくれてねえ」
「先生、社会主義も結構ですが、先生の信条には今の時点では自由党が一番合っているんじゃあないですか」
「君もそう思うかね? 実は私もそう考えていたところなんだよ。社会党はいわゆる社会主義に束縛されて思想の自由を欠いているような気がしてね」
(つづく)
【解説】
「石田君、やはり自分の理想を実現するには政界に打って出るしかないよ。こうした経済再建策をいくら提案しても、在野の人間じゃあ駄目らしい。王堂先生のプラグマティズムに従えば、政治による経済の実践だよ」
湛山が政界に打って出た動機は、まったく正しいものだと思います。
創価学会は戸田第2代会長のとき、政治に進出しましたが、その理由は「広宣流布のため、国立戒壇を建立するため」でした。
いまでは、その理由は引っ込めましたが、そもそもの動機が不純でしたね。
宗教がその教線を拡張するために政治にかかわるなど、とんでもないことです。
獅子風蓮