獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅢ:おてもやんさんの失望

2022-11-16 01:02:27 | 対話ブログ

●の文章は、「証拠」の記事についたコメントのつづきです。


●おてもやん(2018年10月20日 00:25)
元学会2世のおてもやんです。

signifieさんへ
いつも管理お疲れ様です。
ちょと今頃ですが、8月10日のsignifieさんのコメントにニーチェが触れられているのを読み、
(脱会前最後のヤングミセスの会合でも、婦人部長にニーチェの話をしたほどです)
少し思ったことを述べさせていただきます。

私もニーチェが好きで、少しだけかじっています。
大好きなのは「ツァラトゥストラはかく語りき」です。
高みを目指す生き方が好きです。
ネットという匿名の世界において、脱会前からやらないようにしていたことは「成りすまし」でした。
創価学会は、正義の名の下、相手が悪ならば多少の工作も平気でやってきた宗教団体でした。
それだからこそ、私は創価学会に見切りをつけることができました。

活動が大変だとか財務が辛いとかいう理由は二の次でした。今も昔も、嘘だけは大嫌いです。
高みを目指しているからです。
創価の売り物である英知よりも、もっと上の英知があるのだと、ニーチェに触れて感動しました。

アクセス数の多いこのブログだからこそ、signifieさんにおいては常に公明正大潔白で誠実であってほしいですし、その責任があるように思います。
一番のリーダー的存在が一つの嘘をつけば、他の方のコメントまで信用がなくなってしまう。
その事を自覚していただければと思います。

「ちゃんとバレるような仕掛けをした上でやってます。でもホワイトシニフィエしか知らない人にとってはガッカリだったり、裏切られた気持ちになる人もいるかもしれません。」

正直、裏切られた気分です。
ニーチェが言わんとしたのは、
どう生きようと、結局、その人らしく生きる。
そして、宗教から解放された時にこそ、その人の本来の心根があらわになり、その人物がどのような位階にあるのか明らかになってしまう。
そんなことかな?と、我流解釈をしています。

成りすましだけはもう2度とやらないと誓っていただきたいです。
さもなくば、私自身、真剣にコメントをしてきたことが悲しくなりますし、
もしかして、このブログでも誰かに成りすましているのだろうか?とさえ思ってしまいます。
学会を相手にするのに気をつけることは、ミイラ取りがミイラにならないことです。

今頃になりましたが、事の経緯がわかってきて、これは見過ごせないと思い
あえてコメントさせていただきます。

以上です。


●signifie(2018年10月20日 03:52)
おてもやんさん、コメントありがとうございます。
そうですか、私が鯛焼きさんのブログで別人を装ってコメントしたことで裏切られた気持ちになられたということですね。それは申し訳ありませんでした。いやな気持ちにしてしまったことをお詫びします。
このあたりのことについて多少おてもやんさんとの見識の違いがあるようですので、私なりの考えを述べさせていただきます。

>アクセス数の多いこのブログだからこそ、signifieさんにおいては常に公明正大潔白で誠実であってほしいですし、その責任があるように思います。

ごめんなさい。本当に申し訳ありませんが、もともと私は「常に公明正大潔白で誠実な人間」ではないし、無理にそのような人格を装ったりすれば、それこそ「なりすまし」だと思います。そしてそのような本来の私とは違う別人格の人間を装いながらこのブログを続けることは、私自身が精神的にも無理だと思います。

>ニーチェが言わんとしたのは、どう生きようと、結局、その人らしく生きる。そして、宗教から解放された時にこそ、その人の本来の心根があらわになり、その人物がどのような位階にあるのか明らかになってしまう。そんなことかな?と、我流解釈をしています。

「シニフィエとは常に公明正大潔白で誠実な人間でなければならない」というのはおてもやんさんにとってのニーチェ寄りのシニフィエ像であって、決して本当のシニフィエではないわけです。つまり私が「常に公明正大潔白で誠実なシニフィエ」であるためには、逆に私が私でない別人を装わなければできないということです。
私が自分のブログで本来の自分とは違う「常に公明正大潔白で誠実なシニフィエ」を装わなければいけない責任があるのだとしたら、おてもやんさんの考えるニーチェの「どう生きようと、結局、その人らしく生きる」ということにも反してしまうことになるのではないでしょうか。
おそらく「だからと言って『なりすまし』で人を欺くようなことがあっては、シニフィエを信じてブログにコメントしてくれた人までをも欺くことになる」と思われているのかもしれません。もしそんな風に思われているのであれば、そこは私の考えとは少し違うような気がします。
私が鯛焼きさんのブログで「世界の山根」として発言した内容は、紛れもなく私シニフィエの本心です。嘘八百並べて他人のブログを撹乱したわけではありません。できればもう一度読んでみてもらえばわかると思いますが、私は別のHNだからと言って心にもないことを書いているわけではありません。言ってることは口調こそ変な関西弁のオッさんですが、自分の気持ちや考えを普段以上にストレートに述べています。なぜそこに他人を装ったのかというと、これがシニフィエでは鯛焼きさんがはじめからシャッターを下すだろうと思ったからです。ただしあれはとくのさんが対話ブログvs鯛焼きさんのブログという対立関係を阻止するのが目的だったので、そこにシニフィエが出てくるわけにはいかなかったのです。その顛末もこのブログで説明しました。鯛焼きさんにもすぐに私だとわかるようにIPアドレスも変えなかったし、それでも気づかなかったので最後はいつもの口調で話をして気づいてもらいました。
もう一人のサバンナという名でのコメントは、対話ブログでは本門の本尊について答えなかった鯛焼きさんが、シャッターを下ろさないで話を聞きたかったのでIPアドレスも変えて、あえて鯛焼きさんに賛同するような立場で質問すれば、正直なところを話してくれるかもしれないと思ったからですが、途中でそれも無駄だとわかってすぐに退散しました。
いずれにせよ私は鯛焼きさんのブログに名前を変えてコメントしただけで、言ってることは自分自身に正直に話をしています。そして私はそのことがとんでもなく多くの人を傷つけて、ブログの信用をなくしてしまうほどの大それたことだとまでは思っていないというのが正直なところです。もちろんそれが「常に公明正大潔白で誠実であるべきシニフィエ」ではないと言われればその通りです。申し訳ないですが「常に公明正大潔白で誠実であるべきシニフィエ」を演じることは私にはできませんし、それこそみなさんを偽ることになると思います。
これがもし自分のブログで別人を装って嘘の話をしたとなったら話は別です。もちろんそんなことをするわけはないし、する理由もありません。あ、それとネット上ではヘルシーさんは私やダイナムさんがなりすましているんじゃないかとか勝手なことを言っているところもあるようですが、そんなのいちいち相手にしている暇はありません。

>成りすましだけはもう2度とやらないと誓っていただきたいです。

他人のブログで違う名前で本心を述べることが「成りすまし」であるならば、それからそれが「どう生きようと、結局、その人らしく生きる。」ことに反することであるならば、そして私がこのブログで「常に公明正大潔白で誠実なシニフィエ」を装わなければいけない責任があるのだとしたら、私はこのブログにコメントしてくださるみなさんを裏切ったことになるのかもしれません。そう思われる方へはお詫びします。
ただ、何度も言いますが、ここにいるシニフィエは「常に公明正大潔白で誠実であるべきシニフィエ」を演じることはできないということです。そんなことはしたくないです。

ときどき私がブラックシニフィエとして冗談まじりで発言するのは、まさに「常に公明正大潔白で誠実であるべきシニフィエ」という幻想を持たれないようにするためのいわばレトリックです。時々そんな風に勘違いされているのではないかと思うようなコメントもいただくので、あえてブラックシニフィエを登場させます。ときどきですけどね。それも含めてシニフィエです。ぜんぜん無理をせず、正直に思っていることを発言する。それが自分のブログでできなければやってる意味もないし、「常に公明正大潔白で誠実であるべきシニフィエ」を装うことは、みなさんを騙していることになると思うので、それこそ早々に罪悪感で窒息してしまうと思います。
私としては鯛焼きさんのブログで名前を隠してコメントしたことにはそれなりの理由があるからだと思っていますし、これからあのようなことはまずないと思います。それは創価脳とは対話の可能性などないことが鯛焼きさんとの対話の試みではっきりとわかったからです。もちろんこれまでもこれからも自分のブログで別の名前でコメントすることなどやったことはありませんし、これから先もすることはないでしょう。しないというよりやる意味がないです。

ということで「成りすまし」についての私の考えは以上です。

それからここからは余談ですが、私がニーチェにはまっていたのは、ニーチェの思想が驚くほど仏教思想に近かったところにとても興味があったからです。どうして1800年代のドイツでブッダみたいな発想ができるんだろう!?と半ば感動していました。しかしだからと言ってニーチェの思想に100%共感しているわけではありません。と言うより、ニーチェが仏教思想に近い考えを次々と本にしていたのは、パウル・ドイセンと言う仏教学者の友人に強く影響されていたので、西洋にあってあれだけの非西洋的な思考が展開できたのだということで合点がいきました。それとニーチェは天才的な頭脳の持ち主ではありましたが、人間としてどうだったのかというのはかなり疑問視されています。20代で大学教授の地位を得ますが、性病をこじらせてろくに働かなくなり大学を追われます。お世話になった周りの友人に対しても、平気でひどいことをしていたようです。だから彼は生涯孤独だったし、とても幸せな人生だったとは言えないようです。かといってニーチェのニヒリズムから永劫回帰、超人にいたる思想の展開は、100年以上経った今でも色褪せることがありません。近代教育の父とされるルソーも、実生活ではとんでもないロリコンの口先だけの変態男でした。近代科学の父ニュートンも錬金術にはまる怪しいオカルト人間だったし、深層心理学のユングもコンプレックスだらけの怪しいオカルト人間でもありました。何が言いたいのかと言いますと、世の中「常に公明正大潔白で誠実な人間」なんているわけないと私は思います。と言うか、もしいたらそれこそ疑っていいと思います。少なくとも私は「常に公明正大潔白で誠実な人間」ではないです。批判されれば頭にも来るし、おだてられたらいくらでも木に登ります(笑)だからおてもやんさんが私に対して
>signifieさんにおいては常に公明正大潔白で誠実であってほしいですし、その責任があるように思います。
と言われても、それはちょっと難しいとしか言えないということを言いたかったので、このような長文になってしまいました。
私が成りすましという人間として卑劣な行為をしたと思われていることを正当化するつもりはありません。そう思われる人がいて、裏切られたと思われるのであれば仕方のないことです。私としてはその時の自分に正直に思ったことを書いて行こうと思っていますし、このブログのシニフィエは、良くも悪くもそのままの私でしかないということです。それしかできないと思います。以上、長くなってすみませんでした。


●おてもやん(2018年10月20日 06:40)
signifieさんへ

お返事ありがとうございます。

常に公明正大潔白で誠実な人間ではない方に、公明正大潔白で誠実な人間を偽れとお願いするのは難しいことはわかります。
ただ、大勢の脱会者たちが、このブログに「正義」を求めている、そのことに責任感を持って頂きたかったです。

世界の山根、サバンナ・・・
そんな多重HNを用いていたわけですね。
どんな理由にしろ、一般人感覚の私には、そういうインターネットの利用のあり方は、いくら説明されても理解ができません。
悪しからず。

また、ここの多くの方が、誰もそのことを平気なことにも、創価学会にいた頃に感じた「同調圧力」を見る想いです。
デジャブです。

尚、「ニーチェ」は、まだ創価学会に希望を持っていた頃、とある方に丁寧に教えてもらう機会がありました。
解釈の哲学でもあって、10人読めば10通りの読まれ方をするようですね。
私個人の解釈では、ニーチェは既存の考え方を打ち破り、創造する思想かなと思います。
おかげで、仏教のことは、精神衛生学程度のものにしか思えなくなりました(笑)。
ニーチェが最後は性病にかかり堕落した人生になったのも、彼は彼自身としての人生を全うしたのだと思います。

signifieさんが、成りすましをして卑劣な行為をしても、それが良くも悪くもsignifieさん自身だと公言されていらっしゃる・・・

少しご自身に陶酔されているのではありませんか?

対話ブログはsignifieさんの管理されるブログではありますが、
カリスマで踊らされた脱会者の皆さんを、再び、「カリスマ」で弄ぶ事のないよう切に願います。


●signifie(2018年10月20日 15:55)
おてもやんさん、ありがとうございます。
おてもやんさんがこのブログとこのブログにコメントされている方のことを大切に思ってくださってのお話だということはよくわかりますし、おてもやんさんと同じように思ってくださっている方もたくさんいらっしゃると思います。それはとてもありがたいといつも感謝しています。これからもこのブログはそんな皆さんのコメントに支えられていることに感謝しながら続けていきたいと思っています。

「このブログの管理人は常に公明正大潔白で誠実である責任がある」と思っているおてもやんさんだから、シニフィエがそんな人間ではなかったので失望したとのことですね。でも現実のシニフィエは常に公明正大潔白で誠実な人だと思われることの気持ち悪さに耐えきれません。
ですからこれからは心を入れ替えて常に公明正大潔白で誠実な人になりますと嘘はつけません。もちろん常に公明正大潔白で誠実な人がこのようなブログをやるのがいちばんいいと私も思います。素晴らしい理想論です。ただそんな人がこの世にいるとも思えません。私は私のままでしか私のブログを続けることはできないから、私のままでこのブログを続けてきました。私は単純に創価が詐欺だということに気づいた方が、気づいていない人に呼びかける場であればいいという考えでブログを続けています。それだけではいけないのでしょうか。

 


解説
おてもやんさんが「嘘だけは大嫌いです」といって、シニフィエさんの成りすまし行為を批判しています。

創価学会は、正義の名の下、相手が悪ならば多少の工作も平気でやってきた宗教団体でした。
それだからこそ、私は創価学会に見切りをつけることができました。

私も、創価学会を辞めた一番の大きな理由は、創価学会には嘘が多いということが分かったからです。
創価学会と日蓮正宗を比較した場合、日蓮正宗には嘘が少ないと思いました。
それで、日蓮正宗法華講に家族で移籍しました。

だから、おてもやんさんの主張には大賛成です。

これに対して、シニフィエさんは開き直ったように長々と弁解をしています。
おてもやんさんを失望させたことについては謝っていますが、自分のした行為については何の反省もしていないということでしょう。
こうして、対話ブログにおける貴重なご意見番だったおてもやんさんも対話ブログを去っていき、対話ブログとシニフィエさんは、誰も批判のできない独善的な存在に変化していくのです。


獅子風蓮

(つづく)