さあ、対話ブログの記念すべきスタートです。
最初は、丁寧にシニフィエさんの文章を記録しておきます。
■シニフィエのブログスタートです。 投稿日: 2011年12月6日
『対話を求めて』シニフィエのブログへようこそいらっしゃいました。
私は地方都市に住む普通の一般市民シニフィエと申します。自営業を営みながら、妻と子ども一人の三人暮らしをする中年男性です。
このブログは、対話の場としてつくりました。対話とは、闘いではありません。互いの考えをぶつけあって、どちらが正しいのかを競うようなことを対話とはいいません。私は対話とは「他者を認めること」だと思います。互いの存在を認めあうこと。たとえ考え方は違っていても、互いの考え方・生き方を尊重し認めあうところに対話が生まれ、対話の中に互いの相違点や共通点が明らかになり、信頼関係が築き上げられます。そしてそこに無益な闘いは生まれません。しかし今の日本にはその対局にある考え方をする大きな集団があります。
「世の中は一つの考えこそが正しくて、それ以外はみな間違いだ。そんな間違った考え方をしているから不幸になる。そして自分たちの考えることこそが正しい考えであり、それ以外はみんな間違っているから不幸になるのであって、自分たちと同じ考えをするようになれば世界中の人が幸せになれる。自分たちの考えを批判することはそれだけで不幸になり、逆に自分たちの考えに従うものだけが幸せになれるのだ。だから、自分たちは世界中の人々を幸せにするために、自分たち以外の考え方をする人を片っ端から否定することが正義であり、そもそも自分たちの考え通りの世の中にすることを使命としてこの世に生まれてきた。それは一人の偉大な師匠に従うことで実現できる。何も疑うことなく、この偉大な師匠についていくことが人類の世界平和の唯一の道なのだ。」
ふつう世間一般の人は、こうした極端な考えを信じて排他的な行動をする集団をカルトと呼びます。これはかつて日本を震撼させたオウム真理教のことを言っているのではありません。このような思想のもとに今の現実の日本の権力構造に深く入り込んでいる強大な権力組織。ふつうに考えれば、こんな幼稚でひとりよがりな思想に頷く人がいるはずはないと思いますが、しかし今の日本の何百万もの人が、こうした考えのもとに日々行動しているという驚くべき事実があるのです。それが創価学会です。
そして私は53年間、この創価学会の一員として活動をしてきました。今でもなぜこのような恐ろしい集団の中にいたのか不思議でなりません。おそらく私と同じように多くの人が、この恐るべきマインドコントロール下に、自分で物事を考えることを放棄して、池田大作というたった一人のカルトのカリスマに盲従しているのだと思います。
マインドコントロール下にある人に、自分の異常さをいくら言っても理解できません。特に創価学会のような徹底的な排他思想を植え付けられていては、外部から何を言っても聞く耳をもたないどころか、普通に対話を試みても自分たちを批判したとみなし、世界平和を妨げる魔と決めつけるような洗脳までされているので、もとより対話など成立しようがないのです。
先日、私はひとつの試みとして、典型的な組織の末端会員への対話を試みました。それがこのブログです。
http://sokanomori.exblog.jp/17098281/
ここをご覧いただければわかると思いますが、やはり対話どころか、私を罵倒した挙げ句にナリスマシと勝手に決めつけ、一方的にアクセス禁止にしました。
その後、この学会員ブログにもよく登場する別の会員のブログに行き、私の真意を書いたのですが、やはりそれでも対話など成り立つはずもありませんでした。
http://hermann719.exblog.jp/16862768/
ある程度予想はしていたのですが、このあまりに非論理的なそして攻撃的な態度に、今まで自分もこのような組織に加わっていたのかと考えると、ほんとうに恐ろしくなりました。彼ら自身の暴力的な発言が、一般の人に対してどれだけ非常識さや反社会性や違和感を感じさせているのかさえわからないでいるのですから、これをカルトと呼ばずして何であろうと思いました。
この経験で、私ははっきりと創価学会の異常性についての確信が持てましたし、これまでの私の創価学会員としての経験を、やっとのことで客観視することができました。振り返ってみれば、どれもこれもおかしなことばかりです。この異常さに気づかせないことがマインドコントロールの恐ろしさであるし、創価学会の結束力の根拠でもあります。そういう意味ではこのお二人のブログ管理人に感謝しています。
現在、創価学会員の数は文化庁発表で推定約500万人(学会の発表ではその数倍の数)。いづれにせよこの数の人たちが建前とはいえ、上記のような排他的な思想を持たされて活動していることの異様さを、私はもう見逃すことができなくなりました。つまり創価学会とは多くのマインドコントロールされた被害者の集団だということです。こうした思いからまずこのブログを立ち上げることにしました。
池田大作名誉会長ひとりのカリスマ性に頼って運営してきた創価学会は、いま大きな転換期にさしかかっています。カリスマの健康状態が悪く、すでに1年半以上も人前に出ることができなくなり、指導体制がとたんに弱くなった組織から、脱会者や活動から離れる会員が続出し、また私のようにマインドコントロールから脱却する会員も増えています。逆に、あたかもカリスマが元気であるかのように粉飾し、疑うことを知らずに育った学会2世3世の多くを副会長に登用し、地方での活動拠点になる会館の建設ラッシュは、むしろ組織上部の悪あがきのようにも見えます。私はここで創価学会の行なってきた多くの矛盾を語りたいのは山々ですが、私一人が多くを語るよりも、さまざまな立場の方が対話を通じて創価学会の客観的な姿を浮き彫りにすることがより意義のあることだと考えました。創価学会の活動家、未活動家、脱会者、反学会を標榜する方、学会から被害を受けた方、学会とは関わりのない一般の方などなど、さまざまな立場の方に、今の創価学会をどう見るべきなのかを、冷静な対話によって浮かび上がらせることができればと思っています。
もちろん、きれいごとでは済まないことです。白バラ通信というブログを立ち上げられている大学教授の高倉良一氏は、まさに命がけで創価学会の異常さを世に問うていらっしゃいます。おそらくこのような動きはこれからあちこちで起こってくるでしょう。私のようにマインドコントロールから抜け出す人も加速度的に増えていくと思われます。しかし、ひとつ忘れていけないのは、創価学会員の多くの人が被害者でもあるということ。もちろん多くの人が加害者でもあるのですが、こうした精神的ねずみ講のような悪のスパイラルに組み込まれた人にとって、そこから抜け出すことのできる何かのきっかけをつくることは、意味のないことではないと考えます。そうした意味でも、ここで本当の意味での対話が交わされることを願ってやみません。みなさま、冷静で建設的な、なおかつ忌憚のないご意見をお聞かせくださればありがたいです。
●希望(2011年12月6日 12:52 )
シニフィエ様 ブログの開設を心よりお慶び申し上げます。「白バラ通信パンドラの箱」の管理人の希望と申します。 創価学会の問題を考えることは、日本社会の在り方を問うことにつながるのではないでしょうか。シニフィエ様のブログが、日本社会の変革を志す方々にとっての希望となられることを心よりお祈り申し上げます。 もしよろしければ、私のブログと相互リンクさせて頂ければ幸いです。
●クロ(2011年12月6日 13:13 )
ブログ開設おめでとうございます。創価学会にとって、活動に熱心であった方の実体験の言葉は何にも勝る恐怖となるでしょう。内部で起こる本当のことを、外に知られては困るのです。そんなおかしな宗教団体があるでしょうか。シニフィエさんの真実を、どんどん発信してください。それによって心打たれる内部・元内部の方は、きっとたくさんいます。簡単にご挨拶まで。またうちのブログでも紹介させて頂きたく思います。よろしくお願いします。
●シニフィエ(2011年12月6日 13:31 )
希望さん、クロさん、さっそくのコメントありがとうございます。とても勇気づけられます。まさかこんな日が来るとは思ってもみませんでした。大雨で堤防が決壊するがごとく、ものすごい勢いで私の中の創価学会が変容していっています。それは私にとっては変容なのですが、客観的にみれば、ものごとを当たり前に見ることができるようになったということだと思います。まずは胸をなでおろしているといった感じでしょうか。ですがまだ完全にMCから抜け出てはいません。対外的にも内面的にもまだまだ越えなければならない壁があるように思います。いろいろと変なことをお聞きすることもあるかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
【解説】
タイトル下の文章は、シニフィエさんの最初の記事にあった文章の一部だったんですね。
このブログは、対話の場としてつくりました。対話とは、闘いではありません。互いの考えをぶつけあって、どちらが正しいのかを競うようなことを対話とはいいません。私は対話とは「他者を認めること」だと思います。互いの存在を認めあうこと。たとえ考え方は違っていても、互いの考え方・生き方を尊重し認めあうところに対話が生まれ、対話の中に互いの相違点や共通点が明らかになり、信頼関係が築き上げられます。そしてそこに無益な闘いは生まれません。
立派な言葉ですね。
ラストステージ近くなると、この文章通りの「対話」よりも、相手をとっちめてやろうとする「闘い」の姿勢が、シニフィエさんや周りの人々に強くなってきたようですが、当初のこの立派な理想は、いつくらいから変化してきたのでしょうか。
興味深いところです。
獅子風蓮