獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:ブログの開始 (9)

2021-09-18 01:41:09 | 対話ブログ

■ありがとうございます。         投稿日: 2011年12月19日
みなさま、たくさんの意義深いコメントありがとうございます。最初からここまでのクオリティで対話がなされるとは、正直予想していませんでした。うれしい誤算です(笑)。みなさんにこのブログの立ち位置をとてもよく理解していただいていることがよく伝わってきて、とてもうれしいです。また、そうしたコメントに対してのお一人お一人に私がコメントしていくことが困難なほど、スピーディに進行しています。そこで、みなさんには大変申し訳ないのですが、これから先は、ひとつひとつのコメントに対する私からのお礼とかお返事ではなく、みなさんの対話のためのコーディネータとしてページ立てをしたり、対話をするメンバーの一人としてコメントを挟んでいきたいと思います。
私も含めて、創価学会員でありながら学会に疑問を感じている方や、脱会はしたけれども自分の人生の折り合いがついていない方、家族も含めて大変なご苦労を強いられている方、また学会の反社会性に気づいて、これまでにやってきた自分の行為に対する罪悪感に苛まれている方など、ほうんとうに様々な立場の方がいらっしゃいます。そうした方たちは、今でも考えが日々変化しているようにも思われます。私もそうです。それは現状認識やそれに対する自分の考え方の変化ということに留まらず、意識の深い部分にまでMCとして植え付けられたものに対する、ある種の抗えない自己矛盾に悩まされているのだとも思います。
これからこのブログではさらに話が深いところまで及んでいくと思われますが、まだまだいろいろな方に対話に加わっていただきたいとも思います。よろしくお願いいたします。

■正義は勝たない           投稿日: 2011年12月19日
このブログを立ち上げてから、創価学会員であることでこんなに大変な思いをしてきたという方の実体験が多く寄せられました。また入信動機を持たずに信仰を強制されてきた学会二世三世の方が、自己矛盾を感じてから脱会するにあたって精神的に乗り越えることの困難さなど、私にも多く思い当たるようなお話をきかせていただきました。さらに、言ってみれば「創価学会に未来はあるのか」といった論点になると思うのですが、末端会員の責任問題であるとか、学会組織自体の浄化の可能性など、これからしっかりと論じていただきたい問題点が出されるようになりました。みなさんの辛辣なコメントに、私も言葉を選びながら書かなくてはと思うようになりました。もちろん、みなさんにはこのまま自由にお話ししていただきたいと思います。
おかげさまでアクセス数もおおよそ一日1000ほどありますので、立ち上げてまだ2週間ですが、かなりの注目度があるように思われます。驚いたのは、あの2chの掲示板に好意的に書かれていたことです(笑)。幸い、悪意のあるコメントや荒らしの類いはほとんどありません。おそらくみなさんの真剣で毅然とした文章に立ち入る隙がないからだと思います。みなさんのコメントはリアルタイムにアップされるようになっています。ときどき長文になる場合にアップできない不具合が発生していますが、気づき次第こちらからアップさせていただいております。
また、このブログは学会本部でもチェックされている可能性があります。もしそうであるならば、私シニフィエなるものが一体何者なのかを突き止めようとしているかもしれません。逆に学会本部内にいてネットをチェックする部署にいる職員の方にも、このブログに訪れる方の声をしっかりと聞いていただければ嬉しいです。あなた方が正義だとか世界平和への行動だと信じてやっていることと、ここにコメントくださる方の話をよく比較して考えていただければと思います。

みなさんの高尚な話に水を差すような下世話な話で恐縮ですが、私はこのブログを立ち上げてから勤行をしなくなりました。組織活動はもうずいぶんとしていませんでしたし、組織の方からも諦められていたようなところもあります。親兄弟が幹部なので、いろいろ言うと面倒なことになるからということもあるのかもしれません。ただ選挙と財務だけは言いにくるのです(笑)。そんな私でしたが、勤行だけは毎日きちんとやっていました。それは組織がこんなでも仏法に関しては間違いないという思いよりも、組織から離れても信仰から離れることに言い知れない漠然とした恐怖心を抱いていたからだと思います。でも、このブログに自分の思いを書き綴り、これまでの自分の信仰体験を振り返る中で、不思議と勤行をしないことの恐怖心が薄れてきました。そう、この二週間ほどの話です。それは無理に勤行唱題をしないようにしようと決めたのではなくて、自然と仏壇から足が遠のいたという感じです。今の気持ちは「なんだ、何でもないじゃん」という感じ。これまでは組織からはなれた後でも毎朝の勤行は欠かしませんでしたし、何か悩み事があれば長時間題目を上げたりしていました。物心ついたときからずっと毎日やってきた勤行が、意外とすんなりやめられたことを自分でも驚いています。いかに漠然とした恐怖心で、つまりたいした根拠もないままに信仰という行為に自分が頼っていたのかということにです。学会と宗門とで末端の会員が偽本尊がどうとかこうとか罵り合っていますが、今の私にとって、そんなことがどうでもいいように思えるほど、あっけらかんとして勤行という宗教行為が無意味に思えてしまいました。ほんとに「え?……」って感じなんです。
とはいえ、私は無神論者にはならないと思います。人間の潜在能力を引き出す方法としての呼吸法は、たとえばインドではヨガ、中国では気功としてあるように、世界各地の優れた文化として継承されています。今考えてみると、私がこれまで見聞きして来たさまざまな事柄は、日蓮仏法と創価学会の信仰様式を取り除けば、とてもすんなりと納得がいくものばかりです。それは正しいとか正しくないなどの価値判断ではなく、様々な矛盾も含めて、世の中のいろんなことがなるほどと思えてきます。これまで自分の世界を見る目と、学会の価値判断の相違に苦しんでいました。つまりどう考えてもAであることが、学会ではBであることがある。しかしいやでもBでないといけないと自分に言い聞かせる。そうした矛盾を感じることさえ恐怖心につながってきました。私の友人のアーチストである男子部は、それで鬱病になりました。とても真面目だった彼は、自分の芸術活動が法謗ではないかと悩みに悩んで引きこもり仕事もできないまま誰とも話をしない日々が続きました。あるとき彼は私に「○○さん、これって法謗じゃないよね」と力なくつぶやきました。
私の場合、おそらく後戻りはしないと思います。聖教新聞、創価新報、大百蓮華はとっていますが、これはもう随分昔から読まなくなっています。ただ最近では池田名誉会長をどういった形で掲載しているのかとか、名誉会長メッセージはどんな人間が書いているのだろうといった興味から、聖教新聞は以前よりも隅々まで読むようになりました(笑)。
でももうこれらの出版物を購読することは学会に貢献しているということなのでやめようと思います。たぶん地元の地区では大騒ぎになるでしょうけどね。「あの○○さんの次男さんが退転したんですって」ってね(笑)。「まあ、ご両親は強信だったのにねえ。兄弟のなかでも一番まじめに活動してたのに」なんて噂されるでしょう。でも彼らはおそらく財務と公明票が減ることが心配で、なんやかんや言ってくるでしょう。その煩わしさをどうしようかと考えているところです。地区の人はともかく兄夫婦が黙ってはいないでしょうから。兄嫁などは「今こそお題目を上げきって頑張るときよ。先生の弟子かどうかが試されているのよ。先生にお応えできる人材にさせてくださいって祈るのよ。お題目を上げて祈りに祈って魔に打ち勝たなきゃね。私もお題目送るから負けちゃだめよ」と、いつも誰にでも言うような同じことを言うでしょうね。
すみません、下世話な話をしてしまいました(笑)。
 
(後略)

 


解説
>驚いたのは、あの2chの掲示板に好意的に書かれていたことです(笑)。

シニフィエさんは初期のころから2chの掲示板もチェックしていたのですね。自分のブログの評判が気になってしょうがなかったのでしょうね。

>私はこのブログを立ち上げてから勤行をしなくなりました。
>このブログに自分の思いを書き綴り、これまでの自分の信仰体験を振り返る中で、不思議と勤行をしないことの恐怖心が薄れてきました。

シニフィエさんの脱信仰の経過が追えるのも、対話ブログの面白いところですね。

獅子風蓮