

私は、巡礼志願の、それから後に恋したのではないのだ。わが胸のおもい、消したくて、消したくて、巡礼思いついたにすぎないのです。私の欲していたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒に振った。
――太宰治「二十世紀旗手――(生まれてすみません。)」
太宰のタンポポは、うちの職場をとり囲んでいる上のような兇悪な茎のそれではないとおもうのだ。タンポポの花一輪を信頼に、チサの葉一枚をなぐさめに重ねる太宰は可憐というより対象に対して優しいがエゴイスティックである。
そういえば、大学の教室で鍋やっていいのかみたいな話題が自由と関係づけられてたびたび行われるけれども、その鍋を行わせた?音楽学者はどちらかというと右翼ではないかとおもう。彼の鍋をヤル自由はどこか鍋と言うよりも、他人と距離を取ってこの場合は匂いで圧をかける優しい気合いみたいなものだ。太宰もその点、女の自由に対して優しい右翼である。しかし、わたくしはどちからというと、計画設計された真実の押しつけを自由と感じる左翼であって、わたくしは学生と鍋をつついてもその味を妨害する10月革命のことを喋り続けてたりするわけである。わたくしはおれの自由を追窮する。そして学生のレポートをその自由な赤ペンで弾圧する。
わたくしは、太宰やうえの鍋自由主義者よりも言葉による感覚認識に自由を賭ける者である。小学校1年生の国語の教科書には絵がたくさん載っており、そこからいろんな意味をとりだすみたいなことをやってみると、学生の言語的な力がよく分かることが多い。言い古されてはいるが言葉で感覚されないとものは見えないこともおおいのだ。確かに、見えないものがみえるその領野は善悪の彼岸であって、だからこそそこに善悪の賭を行うのが我々のような輩である。
而して、意図的に見えないものを見せようとするフィクションというのは、現実のことがらとまったく関係ないものという意味ではないと見做すし、具体的に言ってみて、とかをあまりに頻繁に言う人というのがお馬鹿だとみなすのである。現実への抽象能力と小説の読解能力は似ているけれども同じではない。小説には倫理が賭けられているからだ。