
すべて此の世で眞に偉大なるものは、提携によつて獲得されたものではなく、常にたゞ一人の勝者が爲し遂げたものなのだ。提携はその遣り方が遣り方だから、始めから将来の分立、またはそれ以上に、到達したものをやがては喪失する萌芽を含んである。偉大な、本當に全世界を驚倒させるやうな精神的革命といふものは、そもそも單一、一體の組織の巨大なる闘争があつてのみ考へ得ることであるし、且つそれに依つてのみ實現化され得るのであつて、決して提携に依る企てとしてではない。
――「吾が闘争」(下巻、第八章)
そりゃその偉大な勝者がマジンガーZで、暗黒代将軍を倒したとか、あるいは、鄰の家のあんちゃんが隣の村の悪いあんちゃんを一瞬で殴り倒したとかだったら、むしろ称賛される勝者なのであろうが、ことはドイツ全体という大きさであった。しかしヒトラーはむしろその大きさが、一人の観念と化した勇者によって出現すると考えたし、そこは非常にいいとこついていた。良心的だが野心的な民主主義者や共産主義者たちが恥ずかしくて言えないポイントである。むかしの左翼運動からあったジレンマ、実践的にみえるやつほど観念的であるという自明の理を、なにゆえ現代の良心的な運動族が無視してるのかというと、そういうことなのである。教育界でも、実践的理論とか言うてるうちに、何もしない人々が増えているが、実践的であることは観念的であり、理論は観念的であるから、当然である。大事なのは、ただの理論、あるいはただの個人であり、それゆえ実行されやすいに過ぎない。
そういえば、昨日は昔の天皇誕生日だったが、昭和天皇はわしとおなじく蕎麦好きだったらしい。うどん好きは朝敵である。――こんなぐあいで、友敵理論だってそんな単純なところがあるにちがいない。
われわれの目指すところは、上のような悲惨しかもたらさない元気いっぱいの革命運動ではなく、社会である。どういうものかというと、香川県で蕎麦派が多いからといって、うどん好きを殲滅するのがヒトラーのやり方であるのにたいし、社会は、香川県に木曽駒ヶ岳と御嶽山を移植して、うどんと人口の半分を移動させる――そういう提携的な夢を多くのひとに見させるがごとき難問なのである。あるいは、ヒトラーを穏やかな小学校の先生にする、とか、植民地主義主義者カミュを、当時からポストコロニアリズムに転向させるような難問である。――言うまでもなく、こういう構想は特殊な文学的なものである。革命は漫画で、社会の構想は文学である。